
1930年代に出版されたルイス・ヘンリー・サリバンについての古典的評伝。
全体は8章からなり、1・生い立ち、2・初期作品、3・ザ・オーディトリアム、4・拡張期、5・摩天楼へ、6・孤独なサリバン、7・理論、8・評価、それにダンクマール・アドラーの伝記的素描が付記される。
序文ではルイス・マンフォードの『褐色の時代(The Brown Decades)』での「サリバンはおそらくその精神において最初のアメリカの建築家である」という有名な一文が引かれ、この時代にサリバンの評価が方向付けられていたことを窺わせる。
第一章の生い立ちは舞踏家だったアイルランド系の父親パトリックのロンドンから新大陸への移民から話が始まる。ルイス・ヘンリーは1856年9月3日生まれ、正式な洗礼は受けていないという。
建築家を意識したのは12歳の頃、ボストンのコモンウェルズ・アベニューで威厳に満ちたある大男が近くの建物から馬車に乗るところに遭遇し、この誰か分からぬ男が建築家だったからという(5頁)。
1872年にMITの学生時代に有名なボストン大火に遭遇している(11頁)。またウィリアム・ウェアによるMITの建築教育はボザール流であり、「ボザールの薄っぺらな反映に過ぎない」(12頁)と見做した彼はMITを中退し、本場に行くことを決意したという。MIT中退後、ニューヨークに立ち寄ってリチャード・モリス・ハントに面会し、叔父のいるフィラデルフィアへと向かい、そこで短期間だがフランク・ファーネスの事務所に勤務している。
フィラデルフィアでは街を歩いて気になる建物を見つけ、それで設計事務所のドアを叩いたようだ(16頁)。その事務所がメイジャー・ウィリアム・ルバロン・ジェニーの事務所でサリバンはここに6ヵ月勤務し、またのちのメンターでもあり友人でもあるジョン・エーデルマンをはじめ、シカゴ方面の建築界への知遇を得ている。本書ではメイジャーはエコール・ポリテクニーク出身で技師であるとサリバンの記述そのままに書かれているが、メイジャーは実はハーバードからエコール・サントラール出身であり、彼を「技師」としたサリバンの意図的な過小評価を繰り返している(この点に関してはブレンダン・ギル『ライト仮面の生涯』参照)。
メイジャーは親切・温厚・寛大な人柄で、サリバン以外にも、マーティン・ローチ、ウィリアム・A.ホラバード、アービング・K.ポンド、ハワード・バン・ドレン・ショウ、ジェームズ・ギャンブル・ロジャース、アルフレッド・グランジャーといった建築家を育てた、という(17頁)。エーデルマンとは毎週日曜日にコンサートに出かけ、リヒャルト・ワーグナーがサリバンの最初の好みとなり、ワーグナーに全能性、自由な精神を見た、とされる(18頁)。
ワーグナーの次に夢中になったのはミケランジェロで、これはボザール留学中である。ボザールではエミール・ボードレメーのアトリエに入り(22頁)、パリには2年滞在している(24頁)。
第二章はいわばシカゴ前史である。1880年までにシカゴと中西部の建築はどん底を経験した(30頁)。さらにシカゴ大火と湖畔の軟弱な地盤は耐火と基礎構造の実験の場となる。「ジョージ・H・ジョンソンの1872年のケンデルビルは最初の耐火中空タイル工法であり、バーナム+ルートの1880-81年のモントークビルは近代的手法による最初の耐火オフィスビルであり、全ての鉄骨が耐火被覆されていた。基礎の問題はフレドリック・ボーマンが1873年に開発した独立拡大型基礎によって部分的に解決された。バーナム+ルートは高層建築用基礎をさらに改善し、1884年にコンクリート中に鉄のグリルを埋め込んだ。一方でメイジャー・ウィリアム・ルバロンは1884年のホームインシュアランスビルにおける画期的な摩天楼の発明にいたる一連の鉄骨の実験を行っていた。
シカゴは1873年の破壊から完全に回復し、建設ブームとなっていた。バーナム+ルート、バン・オスデル、ジェニー、ボイントンらが注文を多数抱え、街のループ部分は完全に変わりつつあった」(32頁)。
1880-81年のサリバンのラシッドストアビルについて「「垂直システム」はここではっきりしている。窓のマリオンは2階から頂上まで途切れることなく続く。床レベルは付柱(ピア)で記され、ただし装飾が付加される」(36頁)。「一つの線が成長して付柱上部で別の線に貫入して連続するのは注目すべき。このタイプの装飾は80年代前半のサリバンの建物のほとんどにあり、1884年以降は消滅する。その起源は8年前のジェニーの事務所でのジョン・エーデルマンとの交友にあり、パリからの帰国後に成熟する」「カルメット川への夏の戸外休暇を「ロータス・クラブ」と名づけた事から推察されるようにエーデルマンはエジプトにいささかロマンティックな嗜好を持っていた」「初期においてエーデルマンがサリバンに影響したのは殆ど疑いようがない」(37頁)。
(サウスワバッシュ・アベニューのデクスタービルは)リチャードソンの影響の痕跡はなく、次の10年にサリバンが展開する葉状装飾もない」「サリバンはここで初期の建物にあったエジプト風装飾を最終的に放棄し、商業オフィスビルの課題から直接出てくる新しい単純性や記念性を獲得する。明らかにこれに先立つ時代に手掛けた工場の設計での経験によってこの単純性に向かったとともに、しかし彼の考えの明確化やその建築的信条の形成にも影響されており、これは1885年か1886年にははっきりするだろうものである。現実の構造とロマンティックな装飾のあいだの摩擦は装飾の実質的な放棄によってここで消滅し、代わって純粋な構造記念性が起こってくる」(40頁)。「デクスタービルはこれまでの頂点でありかつ過去を清算して新しいものを表象している。それゆえサリバンの展開においても重要なモニュメントなのである」(41頁)。「1880年代の他のシカゴの建築家と同じく、アドラー+サリバンはオフィスと同じほどの多くの倉庫や工場の設計に関っている。この都市の拡張は商業だけでなく工業的でもあり、通常行われるように技師に対してだけでなくもっと上等な建築の設計を手掛ける建築家にも発注された」(41頁)。
「1891年のモナドノックビルのような構造はル・コルビュジエが思いつくはるか以前に「技師の美学」の夜明けを記した。モンゴメリー・シュイラーからポール・ブーゲットにいたる批評家が、真の近代的建築に向けたシカゴのニューヨークに対する先進性を述べた」(41頁)。
近代的な建築に向かうにあたって、工場や倉庫などの産業建築が大きな影響を与えたのはアルバート・カーンなどでも言及されるが、ここでもそれを確認することができる。
さらに有名なザ・オーディトリアムの設計の前にアドラー+サリバンはいくつかの劇場建築、それも多くはリモデルを手掛けており、それはもっぱらアドラーの音響に対する知見のおかげで仕事の依頼があったこと、また当時音響工学という言葉がまだない時代、アドラーは兵役に服していた時期にユタ州のモルモン教の寺院に足繁く通って音響上の知見を得ていた事などが、アペンディックスで述べられている。
いずれにしてもアドラー+サリバン事務所は劇場建築を多く手掛けており、その技術的側面は、あるいはその仕事の依頼はアドラーの技術によるところが大きく、そしてそれが最終的にはザ・オーディトリアムの成功に至ったことが続く記述によって分かる。
「その最初のものは1880年のウィリアム・ボーデンのザ・グランドオペラハウスのリモデルだった」「アドラーが一般的なレイアウトを負っていたとはいえ、疑いなくサリバンはデザインの多くをなしていた」(43頁)。このオペラハウスの杮落としは大成功を収めたようだ。演目にはワーグナーの『ローエングリン』が見える。
装飾について「サリバンの装飾使用は彼の世代の美学的条件に大きく負っている。彼の建築の全経験は装飾は何か建物に適用するものであって、それをピクチャレスクに見せたり高価に見せるためのものではないというものだった。彼はこのことを決して忘れなかった」(53頁)。
ザ・オーディトリアムはアドラー+サリバンにとっても、シカゴにとっても、そして建築・都市史上においても画期的なものだった。建築家の経歴を画期するものがその都市にとっても、そして建築史にとっても画期的というのは何とも幸福なことではなかろうか。
「話は古い博覧会建物でのオペラホールに遡る。1885年のオペラフェスティバルの大成功はスポンサーに火をつけた。フェルディナンド・W.ペックである。彼は恒久施設としての大オペラハウスを構想した」(61頁)。ペック提督はさらに建物の「文化的」部分に、全体を維持するに必要な収益をあげる為の商業的部分を付加する事を思いついた。それゆえコンセプトは劇場の周りを覆うホテルやオフィスまで拡大され、かつ全部を統一組織で統御するものとされた。この考えはよく整理された上で1886年5月29日のコマーシャルクラブで提案され、シカゴオーディトリアム・アソシエーションが組織された。200万ドルの株券と90万ドルの債券が発行され、約300人が債権者となった」「ペックは博覧会オペラハウスの成功からアドラーを信頼し、1886年晩夏にアドラー+サリバン事務所にこの大構造物の依頼が持ち込まれることになった」(62頁)。一つの構造体を文化的非収益部門と商業的収益部門による複合大型都市施設として計画するというのは、おそらくこのオーディトリアムビルが初めてではなかろうか。ホテルには宴会部門がさらに付加され、予算は300万ドルに跳ね上がり、基礎工事が始まっても変更が繰り返された、とある。
小さな変更と異なり、決定的な変更はリチャードソンの影響、とりわけ1887年に竣工したマーシャルフィールズ商会ビルの影響だったという。以下本書ではマーシャルフィールズとザ・オーディトリアム(1886-1890)の影響関係と異同に頁が割かれていく(これに関する記述は64頁から、また69頁の記述、「デザインはリチャードソンのマーシャルフィールズに極めて近い。高部のアーチ下に4層を纏め、続く2層を小アーチに纏め、頂部では小さな方形窓を使用する点など」)。また66頁からはこの巨大構造体を建設するに当たっての構造の問題に頁が割かれていく。
72頁からは各部の描写と分析に頁が割かれる。「レストランの長いバーの装飾は特筆に価する。木の曲線やくり型を付けられたプラスターの形態は全く新しい建築装飾で、伝統的形態やプロポーションに対するサリバンの反逆を示し、新しい語彙開発の彼の豊穣さをも示している」「ホテルのパブリック部分で最上の部屋は疑いなく10階の大ダイニングホールで、これはミシガンアベニュー前面に渡って走っており、湖畔公園の大ガラスから見下ろす素晴らしい眺望を与えている」(72頁)。「その存在理由(raison d`etre)であり、最も顕著な建築的業績は大劇場である。物理的にも精神的にもこれが建物の中心であり、シカゴのオペラ愛好者の何世代もが「オーディトリアム」と呼んだのは建物全体ではなく、この劇場だった」(73頁)。
音響の技術的側面はアドラーが担当している。「アドラーはスコット・ラッセルの「同響曲線」に基づいて徐々に上昇する曲線をデザインした。結果、舞台からの音響はフロア全体に行き渡る」(74頁)。この音響仕様を設計するにあたり、アドラーはヨーロッパを視察している(80頁)。
オーディトリアムでの成功を基に事務所はさらに拡大していく。アドラーとサリバンが事務所を割るのは、1990年代の経済恐々から来た仕事の激減だったようだ。結果としてアドラーは一旦事務所をたたんでいる。
メモ的に「1880年代後半のサリバンにリチャードソンの影響が顕著なのではオーディトリアムビルだけではない。スタンダードクラブやヒース邸にも明らかで、両者はオーディトリアム竣工前に完成している」(87頁)。この拡張期の主な作品は、ウォーカー倉庫、マックビッカー劇場、ウェインライトビル、3つの墳墓、それに黄金の門。これらについてシュイラーは批判的だったという(108頁)。
摩天楼について述べた章の冒頭では、摩天楼前史がまず述べられる。最初は1874年、リチャード・モリス・ハントのニューヨーク・トリビューンビルで、これは昇降機付の初期のビルの一つだったという(111頁)。蒸気式昇降機は1850年以降次第に開発されてきていたが、1871年までオフィスビルに用いられることはなかった。水力式昇降機は1872年に特許がとられている。
外皮を金属骨格に吊るす試みはウィリアム・ルバロン・ジェニーのホームインシュアランスビル(1884-85)が最初だったとされる(112頁)。シカゴの二番目の摩天楼はホラバード+ローチによるタコマビル(1887-88)。ニューヨーク最初の摩天楼はブラッドフォード・ギルバートによるタワービル(1889)。
ジェニーとバーナム+ルートそれぞれによるライタービル、ランドマクナリービルにおいて、鋼鉄が初めて一貫したものとして用いられた(1889)。そしてこれらの試みにもかかわらず、摩天楼のロジックはまだ認識されていなかった(112頁)。
アドラー+サリバンによる最初の摩天楼はウェインライトビル(1890-)である。「それまでに新しい工法が「シカゴ構法」として知られるようになっていた。19世紀中葉まで石造耐力壁構造は造られ、フレームに鋳鉄を用いるのは1904年まで完全に放棄されることはなかった」(112頁)。
ここから先、ウェインライトビルについて記述されていく。いくつかメモ的に。
「200のオフィスがあり、基準階でのオフィスレンタブル比は53パーセント。これは今日(この書が書かれた当時)をときに凌ぐ高効率のプランニングだった。10階は大トイレと散髪屋に用いられ、スカイライトから陽が差し込むが、主にはスチーム暖房のための機械室に用いられた」(118頁)。1896年に発表された「人工的に考慮された高層ビル」というサリバンの記事で、サリバンはこれを説明しているとされる。「ウェインライトビルの影響はいたるところにある。続く四半世紀のビルはその垂直線、分節されないファサード、基壇と頭部のあいだに一貫したシャフトとして置くやり方を踏襲した」(125頁)。
このサリバンのデザインを公式化し、また古典建築の類比とする見方に著者は続く部分で批判的に述べる。
ウェインライトの次に計画されるのがシラービルで、ウェインライト、シラー、そして未完に終わったユニオントラストビルの三つにおいて、アドラー+サリバンは摩天楼の扱いの基準に達したとされる」(137頁)。
アドラー+サリバンの最後の仕事であり、また同事務所の摩天楼の最後でもあるギャランティービル(バッファロー、1894-95)において、最初の摩天楼のウェインライトとの共通点が指摘される」(141頁、ついでにサリバンの「高層建築」の記事が登場するのは1896年の『リッピンコッツ』誌)。
同ビルはアドラー+サリバンの最も豊穣な作品であり、また最後のものであったという。「1895年7月、アドラーは建築をやめ、別のビジネスに行くことを決める。当時アドラーは51歳、サリバンはほぼ39歳。事務所は14年続き、中西部における指導的位置を獲得していた。全部で100を超える1881年から1895までの建物デザインにもかかわらず、1890年代半ばには条件のよい案件はなかった。1893年に始まり世紀が終わるまで続いた不況は、事務所に深刻な影響を与えた」(143頁)。
アドラーは1900年4月16日に没している。
さて、いくつか当時の重要な雑誌。インランド・アーキテクト、リッピンコッツ。
またサリバン晩年の悲惨な状況はしばしば述べられるが、実はサリバン単独でも質の高い仕事を多く残しており、代表作の一つであるカーソンピリースコット百貨店も、単独事務所となってからのものである。晩年の悲惨さを強調するのは、ライトとの対比を強調するという、のちの記述の問題もあるのではないか。またサリバンのヨーロッパへの影響については「特定のスタイルより、理論や哲学の問題であった」(168頁)。カーソンピリーと同時期のクレーンカンパニー・オフィスビルについて「コーニスを完全に放棄し、外壁は単にパラペットと笠石で終わっている。これは最もシンプルに達した建築で、次の10年に登場するドイツの産業建築を先取りする形態である」(171頁)。1905年にエリ・B.フェルセンタルのために設計したタペストリーレンガによる小さな商店建築は「サリバンの摩天楼時代の終焉を画し、摩天楼スタイルの創始者が余生に手掛けることになる郊外低層建物の最初のものだった」(171頁)
「1895-1924年の死までサリバンの個人生活の全体は決して知られることはなかろう。『自伝』にはそのディテールはなく、彼を個人的に知っていた何人かから漏れてくるのみである」「『キンダーガーテンチャット』は1901-02年に渡って建築雑誌に連載された記事を単行本にしたものである」「彼の棚にあった本には壊疽手リックな関心を示している。日本や日本芸術に関する本が含まれている。さらにオリエンタルラグのコレクション、支那と日本の焼物、ブロンズ、それに翡翠彫刻など」「宝石や高価な石についての本もあり、これが彼の装飾のモティーフになったかもしれない」(191頁)。
理論の小では再びマンフォードの引用。「サリバンは文明との関係で建築を考えた最初のアメリカの建築家である。リチャードソンもルートもいい嗅覚をしておりよい結果を残したが、サリバンは何が重要でどうすべきかを知っていた」(195頁)。
いくつかメモ的に。
「彼のものは建築の単なる理論でもまして哲学でもなかった。彼の書いたものは建築の宗教だった」(196頁)。サリバンが書いたものは「18の公刊された記事と宣言と、二冊の交換された書籍、6つの公刊されなかった手記」(196頁)。
「『キンダーガーテンチャット』はサリバン初の長い書き物だった。「チャッツ」はそれぞれ1-2頁の長さに及び、『ザ・インターステート・アーキテクト・アンド・ビルダー』に1901年2月16日から1902年2月8日まで続いた。自らの考えを披露するにあたり、サリバンは想像上の教師と生徒を想定し、後者は「若く」よく教育され自信があり前途洋で、その心に師匠が種をまき建築芸術のコンセプトを育成するものと仮定された」(199頁)。これは編集者のクロード・ブラグドンによって纏められ、1934年にスクラブ・フラテニティから出版された(201頁)。「1908年からその死にいたるまでサリバンは何も書いておらず、疑いなく彼の人生の暗黒時代だった」(203頁)。「1923年4月、フランク・ロイド・ライトの作品についての記事を発表する。「東京の帝国ホテルについて」である。これは「関東大震災について」という記事の一年後である」(205頁)。この二つの記事においてサリバンは自分の生涯が無駄ではなかったという、新しい楽天主義を見せている」(206頁)。
装飾について「装飾は表現の微妙で優雅な側面である。建物基本形態が十分に表現的に造られたのち、創造の衝動は装飾へと移る。有機的で、それに適用されると言うよりそこから生成するものである。素材の本性を表現し、建物自身の根本的律動に参加する。ただし構造の精神を受容する何かとしてではなく、それとは異なる生成によってその精神を表現する」(219頁)。
評価の章は主に死後の扱いについてである。
「1925年にアメリカの大建築史家フィスケ・キンボールの記事によって興味深い解釈が現れた。私の意見ではこの解釈は誤りだが、ただサリバンをその時代に真面目に位置付けようとした最初の試みだった」(225頁)。
続いて面白いのは、著者がサリバンを最後の19世紀人として位置付け、その後のシカゴ博覧会でのボザールと古典主義の勝利を20世紀的なるものとして見做す関係について、論じていることである(この件はキンボールが論じているのか?)。
「三つの論点がある。第一にサリバンの建築理論は本質的に科学的であり、彼は19世紀リアリズムの芸術家の一群に属していた。第二に、20世紀技術の主流は「純粋形態」による幾何学関係による抽象美学を探求してきた。第三に、マッキム・ミード+ホワイトによる古典とルネサンス・リバイバルと世界コロンビア博覧会の建築は、この20世紀の本質的傾向の建築分野での最も特徴的な証拠として捉えられるかもしれない。
19世紀芸術の特質はここで詳述できないが、ただ科学によって支配されていたとは言えるだろう。19世紀は「理性の時代」の限界に意識的であり、新しい方向にリアリティを模索していた。科学とロマン主義は対立しているように見えるかもしれないが、この探求の二つの側面に過ぎない。同じコインの表裏のようなものである」(227頁)。
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