2012年1月23日 (月)

パトリック・ゲデス『進化する都市』西村一朗他訳、鹿島出版会、1982

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原書は今日から約100年前に書かれ、「都市計画」の教科書の一つとされてきた。書名はハーバート・スペンサーの影響を連想させるが、スペンサーの名前は後ろの方でオーギュスト・コントとともに触れられるに留まる。

いくつかメモ的に。

著者の考えでは都市研究の始祖は古代ギリシアのアリストテレスとされ、アリストテレスは163の都市を比較し都市構成を比較しただけでなく、概括的に都市を見ることを主張したという(37頁)。

有名なコナベーション概念が本書において初めて登場するのは第2章においてで、大ロンドンに関してである(55頁)

8章ではイギリス、フランス、アメリカ、ドイツの都市の状況について概観される。アメリカとドイツの都市、および都市技術についての記述が面白い。続く第10章はそのドイツについて「ドイツ的組織化とその教訓」として述べられ、最後のところで再度イギリスの課題に戻ってくる。

11章ではイギリスの植民地都市についても一瞥が与えられる。「たとえばニューデリーは大英帝国的な手法において単にキャンベラを大きくしたものにすぎない」「かつて都市計画は帝国の政策の一部であったことを思い出しておくのは良いことであろう。都市計画は全体としては、ローマ帝国から近代のパリに至るまで、また現代としてはホワイトホールからニューデリーに至るまで支配者や国家の偉大なる力と栄光の表現であったが、いつまでもこんなことに限定される問題ではない。都市や町に住む人々は「われわれが入るのはどこ、そしていつ」という質問を素朴な直接さでもって、増やし続けているに違いない。イギリス本国においては、それに対し、住宅供給-旧技術ではなく新技術によるもの―が主要部分をなす解答が現れ始めている」(220頁)。

著者が本書において主張しているものの一つが「市政学」である。第13章は「都市計画の教育と市政学の必要性」と題し、この「市政学」を主張する。「都市計画教育は、これまで建築教育に悪影響を及ぼしてきたあまりにも形式的で技術的な訓練に陥ることのないようにしなければならない。ではどうしたらこれを確かなものにできるだろうか。方法は一つしかない。すなわち、都市の生命や作用にまで触れた生気に満ちた教育を行うこと、一言で言えば、市政学の研究によってなしうるのである。建築は常に正当にも芸術を規制すると主張してきたが、今や一転して都市計画が建築を規制するものであると主張している。もし、そうならば、都市計画を規制し教育するものとして、今度は市政学をさらに主張することを避けたり、逃れたりすることはできない」(263頁)。

同じ章におけるオスマンのパリ計画についての総括は興味深いので、少し長いがそのまま引用する。

「当初はすべてが完全にみえ、すべてが成功だった。ナポレオンとオスマンが夢み、計画し、努力したものはすべて実を結び、最上の予想をも上回るものだった。人口の流入・増加とともに先例のないほど熟練・非熟練の別なく労働に対する需要があり、しかも雇用の調和がとれていた―たとえば地主にとっては地代と地価が上昇して栄え、市の増大する予算につれて税金も増えていった。そしてそれは新しい公共事業や安定した給料をもらっている公務員の増加のために費やされた。政府は、両方をしながら、それでもなお陽気にやっていた。建物や建設事業で財産があっという間につくられ、土地の投機や金融においては概してそれ以上だった。そしてこれらの利得はあらゆる種類の贅沢な出費に―食物や酒に、召使いや馬車に、衣装に、宝石に、そして芸術品にどんどん消費された。その結果、フランス人や外国人にとってのパリの魅力がますます増大し、商店、ホテル、カフェ、劇場、寄席などさらに盛んになった。都市計画家がこれほど成功を収めたことはかつてなかったことである。その後、他の都市が他のすべてにも増してオスマンのすばらしい先例に従おうとしたことに何の不思議があろうか。

しかし、この大都市的発展のすべてが、いかに1870年から71年の瓦解と関係し、いかにしてコミューンに導かれたか。そして、そのために幕を閉じることになった悲劇的な混乱と容赦のない抑圧を準備することにいかに力を貸したかということは歴史の汚点であり論じ尽くされるどころかなお戒めとなるところである。

より日常的な成り行きに戻り、公衆衛生についてのべよう。埃っぽい並木道や風通しの悪い中心部の見かけは申し分ない中庭が庭園や遊び場と大がかりにとって代わり、どんなに子供や母親の健康を脅かし、人々の間に酒飲みや結核その他の害悪を蔓延させているかいうことを医師は指摘している。また経済学者は高価で贅沢な新しいアパートの家賃が高騰し、そのためにいかに家計の他の支出が抑えられ、多方面にわたって社会不満と不安定とが増大したか―とりわけ小っぽけな部屋の小さなアパートが一般化して、いかにパリ人の家族の限界を強制し、そのことが今度はフランスの力と成長の限界の実例となったかということを記録している」(270-271頁)。

同じ章の少しあとでは、ダブリンとエディンバラがこの時代、既に衰退しつつあったことが記されている。

さて最後に「都市の精神」と題された終わり近くの章から、これも長めに引用。

「我々はわれわれ自身いかにこの陰鬱な町が美と若さを持続して来たかを知っている。我々はいかにこの町が名誉の時代を生きてきたか、いかに友情の偉大な時代を過ごしたか、またいかに新たな犠牲と闘争を繰り返しつつ勝利に震え敗北に泣いてきたか、またいかに変化してやまぬ運命を担いつつ、より変化しやすい心情と勇気の中に世代世代を通じて辛苦を重ねて来たか知っている。イギリスやアメリカの繁栄している都市の集団を見るとき、我々はあまりにも容易に歴史的過去を忘れ、単に町を近年の工業と鉄道の発展の中にのみ考えているので、現在の町の形式がなお変化と流動の中にあるものなのにもかかわらず、原理的には終局の姿にあるものと考えるようになっている」(312頁)。

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2011年12月26日 (月)

ルイス・マンフォード『都市の文化』生田勉訳 鹿島出版会 1974

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原著は1938年の出版である。つまりニューディール時代に書かれている。訳者の生田勉によれば原書は戦後復興計画の指針の一つとなったといい、終章あたりではのちのWelfare-stateやケインズ体制の基本ともいえる記述が確かにある。

本書に先立って書かれた『技術と人間』における技術の発展段階におそらく対応したと思われる都市の発展段階に沿い、中世から20世紀にいたるまでの都市史とそれに続く展望として、全体は構成されている。

「保護と中世都市」と題された第一章は題名通り中世の都市を主に軍事と商業の観点から分析したものである。初期中世都市の郭内人口の8割は生産者、つまり定期市を開いたりする商人は都市間の存在であったという。また中世都市はその明確な外殻にもかかわらず必ずしも土地に固定していなかったという。「一般に信じられている印象とは逆に、静的どころかその反対であった。中世の初期の間に幾千という新しい都市の基盤がつくられたばかりでなく、すでに基礎のできた都市でも自然の環境として窮屈であるとか、位置が不便と感じられたときには、他の土地に移動した。その例としてリューベックは貿易と防衛の改良のために位置を変え、古セアラムは乗り棄てられ」た(57頁)。

生産者を多く抱え込んだ中世都市の「生産」が製造業とその外側の農奴による農業とすると、中世都市に構造的な変化をもたらしたのは、商業つまり貿易、それも国際貿易とその交通路の整備であったとされる。「15世紀から重要さを増してきた国際貿易は、手工業ギルドや城壁都市に固有の弱点につけ込んだ。第一の弱点は、ギルドや都市がいずれも地方的基盤にたつものであって、その城壁内で独占的支配をはたらかせるためには、その枠外の領域をも支配できることが不可欠であった」「しかし大体において、ギルドが権威を行使できたところは、城市の城壁内に実際に仕事をしにやってきた人たちだけにたいしてであった。ひとたび交通路が開け田舎が安全になると、都市はかえって無力になった」「ギルドがより排他的になるにつれて、除け者にされた人びとは、保護のない産業へと転じていった」「この大きくなりつつあった階級は生活水準の切り下げを助長し、資本主義産業独特の集団編成の型である自由労働者予備軍をつくりはじめた。もうひとつ別の因子は」「腕のある旅職人の移動性は職人が喰い物にされるのを救った」(66頁)。さらに「ギルドの持つ弱点のほかに、中世の都市政策の欠陥は、それがイタリアのある地方を除いて田舎地方のひろい地域を包括しえなかったことである。それは敵意にみちた大海中の一つの島でしかなかった」(67)

都市はそれゆえハンザ同盟やスワビア同盟のように連合を形成していく。中世風秩序から近代的秩序へと移行していくのはこの自治都市と田舎地方の統一で、その範例はスイスとオランダであるという。

第二章「宮廷・盛儀・首都」では著者がバロック都市と呼ぶ近世の都市について述べられる。著者の述べる「バロック」は美術史で言われるバロックでは必ずしもなく、時代的にはルネサンスから18世紀あたりまでで、大雑把に言ってスペクタクル性がその根本にあるようにも見える。

中世都市の構造の延長で見ると、大砲の登場は都市に大きな変化を強いた、とされる。「15世紀までは、防御が攻撃よりも優位にあった」「15世紀後期の新しい砲は、都市を弱みあるものにしたのである。都市は戦闘条件を敵と対等にせんがために、それまで専ら市民軍によって防衛されていた旧式の城壁を、この時からやめざるをえなかった」「普通の家屋をつくる石工が計画し建造したような簡単な石造の城壁ではなくて、いまや、膨大な工学技術の知識と莫大な費用を要する複雑な防御組織を生み出すことが必要であった」(85)。「旧式の都市はブロックとスクェアとに分かち、周囲を城壁でとり囲んだのに反して、新しい築城都市ははじめから城郭として計画され、都市の体はこの伸び縮みしない殻に合わせられた」(86)。かくして都市は一方において密集していく。人間が「都市外郭の土地から流れ込んでくるにつれて、都市内部の空地が急激に建て込みの状態に変わった」(86)

築城術に伴う変化に続いて起こるのが「資本主義が軍国主義的になった。資本主義は武力なしで有利に取引できなくなると、もっぱら国家の武力を頼りにした」(92)という変化である。そしてこれらの背後で起こっていたのは「空間を組み立てること、空間を連続的にすること、空間を量と時間に還元すること、極大の遠距離と極微の世界を取りいれて量の大小の限界を拡張すること、最後に運動を空間に結びつけること、これらはバロック精神の偉大な勝利の一つであった」(93)とされる。

軍事と交通とスペクタクル性との関係で述べるなら、アルベルティは道路を主道路と二次道路に分け、前者をviae militaresと名づけたという。つまり都市の主道路は軍事パレードというスペクタクルの場となったのであり、これはこののち長く続いたと言える。これに続いて馬車と主街路、消費の関係が分析される。章題にも窺われることだが、中世/キリスト教の都市組織の中心にあったのが教会とすれば、バロック都市の組織の中心にあるのは宮廷であろう。著者によればこの原理は基本的には20世紀まで続いたのであり、「成り上がりの実業家がまず貴族階級の真似をし、つづいて市民全体が相似た特権を都市全般に要求し始めた。いわゆる「民主主義」の興隆は、都市に関するかぎり、バロック秩序の拡張普及にほかなら」(139)ない。

第三章「非情なる産業都市」は産業革命後に登場する、モノカルチャー的な産業都市についてである。その典型的光景は「暗黒のとばりが石炭都市にひろがり、黒色がそれを支配していた。工場の煙突からは、黒煙がもうもうとうずまいていた。また町をすっぽりと切断することが多かった操車場は、有機体をずたずたに寸断し、煤と灰とをいたるところにばらまいた」(198)といったものである。都市の光景についてさらに続けられる。「建築風景だけでは「混沌状態」にはまだ足りないといわんばかりに、電信線の交叉、電車の架線柱、鉄道ガード、高架構築物、われ勝ちの広告物などが、ついに視覚的乱雑さを完璧にしたのであった」(207)。さらに「家の中では、それが醜悪な擬バロック式の彫刻の急増と心地よさの礼賛と結びついたのである。この現実主義的な時代は、手で触れる娯しみのために耳や目でする昔からの美点快楽をもすべて犠牲にしたように見え、ここでは美ではなくて「心地よさ」という新しい性格が要求された。枕の並んだトルコ椅子は、身体のあたるクッションには馬毛や毬毛のふかふかの褥をもってし、毛をつめ、いなつめこみ過ぎぐらいの超はりぼて式の椅子であった」(208)と述べられる。一方で「裸身は、ヴィクトリア式装飾では、非難の的であった。コナン・ドイルの初期の作品中の人物は、むきつけな何もない白壁の部屋におかれて気が変になるし、トルストイはヴィクトリア朝風に言えば寝室に「ひとつも調度がおかれていない」からというので、弟子たちから聖者と見なされたのであった。裸体は、たとえそれが彫像の形で示された場合にせよ、喧喧ごうごうたる非難をまきおこし、それと同じように、無装飾の裸の建築様式は「がさつ」に思われたばかりでなく、下品に見えた」(208)。「こうしていやったらしい装飾過多、おき場所違いの美術品、無目的な製作、装飾的汚濁の芸術、これが心地のよさと結びついたのであった」(208)

工業化時代がもたらした光景を言わば隠蔽するものとして、ピクチャレスクの美学とロマン主義も批判される。

こうした暗澹たる状況にもかかわらず、この時代の出来事で著者が高く評価するものがある。『The Brown Decades』でもそうだったが、鉄の登場である。この鉄の登場が都市や建築にもたらしたものは、著者の記述を読んでいると単に構法上の大きな変化というにとどまらず、建築の概念自体を根本から変えるほどのようだったように思えてくる。いわく「まったく新しい型の構成、つまり鉄のケージ(枠組)とカーテン・ウォールが出現した。これは古いアメリカの農家の郷土的な軸組と羽目板による構造方式を、巨大な旧技術期的な形態にうつしいれたものということができよう。こうして水晶宮のように、外壁は室内空間との単なる境目になり、建物そのものは外殻というより、強靭な皮膚で外が覆われて温度調節や交通循環の内臓器官を内にもつ骨組になった(216)。もっともヴィクトリア朝時代全体についてはこうした新しい材料や構法の使用をまったく知らないどころか誤った使用がなされたことが批判的に述べられている。

第四章「巨大都市の興亡」は文字通りメトロポリス論である。原書が書かれたのが1930年代のニューヨークだったことを考えれば、これはほぼ同時代の都市現象について書かれたものと言え、その印象を述べるならかなり的確なメトロポリス分析ではないかと思われる。大雑把に言って資本と労働の集中によって生成し、結果としてさらなる拡大を目指すというその構造分析などは、レーニンの『帝国主義論』で展開される論などをも髣髴させる。実際、本書ではレーニンの名前も二度ほど登場する。

マンフォードはパトリック・ゲデスに私淑していたと言われるが、都市史を世界史的な発展あるいは生成衰退として捉えるあり方は広義のヘーゲル主義のようでもあり、さらに本書の分析でも歴史的唯物論に近いものを感じなくもない。ゲデスを含めこのあたりは、再検討した方がよいのではなかろうか。

これら都市史が示されたあと続く三つの章では、文明の地域的構造、地域開発政策、新しい都市の社会的基礎、という自らの考えとニューディール時代下の開発政策のあり方、そして戦後のケインズ体制での指針となるものが示されていく。後二章では、ニューディールと戦後ケインズ体制は著者が巨大都市分析で批判的に示す「戦争」を挟んでいるとはいえ、実に滑らかに連続していたことを窺わせる。さらにそうした考えの基本にマンフォードの地域主義があったと言うのも特徴的である。

地域主義について述べられた章では、地域主義の起源が19世紀それもオーギュスト・コントと同時代であったことが示唆されているが、このあたりはあまり知られていないのではなかろうか。

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2011年11月 3日 (木)

“Towards Modern Architecture,” The Brown decades, A Study of the Arts in America 1865-1895, Lewis Mumford, Dover Publications, Inc., New York, 1931

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いわゆるアメリカンスタディーズである一書の中の一章。ジェームズ・オゴールマンによるThree American Architectsの元となった章と言っていい。リチャードソン、サリバン、ライト、という流れで明確に書かれ、かつ三者が米国の「国民的建築家」として位置づけられている。また本書の書名であるThe Brown Decadesは南北戦争終結後のアメリカンルネサンス前半を指しているが、その戦後と本書が書かれた「第一次大戦後」との重ね合わせも示唆されている。

冒頭はこの時代初期の、掉尾はこの時代直後の状況をうまく纏めている。米国の都市化は南北戦争終結とともに加速し、北部の都市部では地価が高騰、都市住居は小さくなりしまいには薄暗く換気の悪い部屋が並んでいく。いわゆるスラム化であるが、当時これは全く問題とされていなかったと言う。また共同住宅ではチョコレート色の砂岩でファサードを覆う一方、オフィスやデパートでは鋳鉄がモダニティと同義となったとされる。

19世紀中葉、鋳鉄とガラスによる建物が眩しく見えたことは想像に難くない。1848年にニューヨークにジェームズ・ボガーダスによって建てられた5階建のビルが、その嚆矢だった。ボガーダスはさらにこの構法を解説するパンフレットを作成さえしたという(50頁)。こののち1875年まで鋳鉄ファサードは一般的なものとなったが、ボガーダスがなした以上の改善は施されなかったという。著者はさらにボガーダスを同時代パリの市場建築の技師、ロンドンの水晶宮におけるパクストンと比肩している。また圧延加工された鉄材の梁はピーター・クーパーによるトレントンでの工場で1854年に最初に用いられたという。南北戦争前においてはいずれにせよ、来る工業化時代の建築が鉄を用いたものになることが漠然と語られていたに留まったとされる。「建築は1820年代以来下り坂だったが、1860年までに最低のものとなった。工業化社会と都市と建物の全ての新しい宣言の前で、「醜悪」という言葉は避けがたいものとなった」(51頁)。

何度か繰り返されることだが、近代建築(Modern Architecture)はこの時代(The Brown Decades)に起源(beginning)を持つとされる。オフィスや工場やホテルといった新しい都市の要求や可能性にいかに回答を与えるか、というところでヘンリー・ホブソン・リチャードソンが召喚される。

「リチャードソンは近代生活と総合的に向き合おうとしたアメリカの明らかに最初の建築家であり、ボストンとオルバニーの駅の設計を1881年に始めるや、すぐさま建築の新しい概念に向かった」(53頁)。「教会や学校をゴシック、公共建築をルネサンスとし、工場やオフィスや駅舎を美的観点を持ち合わせない技師や施工者に任せることは「ビクトリア朝時代の妥協」の一つだったが、リチャードソンはそれを拒否した」(53-54頁)。

「ルネサンス・デザインにあるような窓を反復単位と扱うことを放棄し、内部の展開の統合点とすることは、どの建築家よりおそらくリチャードソンに帰せられる。ファサードの純粋形態上の要請ではなく、内部の必要から窓をどこにどの大きさで配するか、ということである。シカゴのグレスナー邸ではL型隅部のファサードにおける窓を極小としたが、これは通りの埃や騒音を避けるためだった。図書館では書架に十分な光が供給されうまく扱われるようにした」(54頁)。「ハーバードのオースティンホールの窓で、彼は機能主義建築の標準を確立した」(54頁)。リチャードソンと同時代の建築家はセント・ゴーダン、ラファルジ、そしてリチャード・モリス・ハント、である(55頁)。

だが「リチャードソンは石造から鉄フレームへの移行がなされる前に亡くなった。その第一段階を超え、その力に満ちた男性的想像力を適用するには、彼の死は早すぎた」(59頁)。またM.M.W.900ブロードウェイビル(1886)とリチャードソンのジョン・H・プレイ・アンド・カンパニー・ビル(1886)の関係も言及される。

リチャードソンがシカゴ派に与えた影響から、シカゴ派へとここで話が移っていく。当時の批評家モンゴメリー・シュイラーの『アメリカの建築』では、最も優れた高層ビルはモナドノックビルであるとされたという。「彼は正しい」(61頁)。「シュイラーのモナドノックビルについての言葉はかくも的確でかくもノイエザッハリヒカイト一般に適用可能なのでそれを引用せねばなるまい。「単なる箱、単なる蜂の巣以上の何物でもなく単なる工場と見紛う」」「これは物自体を見ていると言わざると得ない」「極端な厳格性にもかかわらず、表現的かつ印象的なはっきりした建築作品を生産すること」(62)

二人のシカゴ派の建築家、ドレーク・アンド・ライトはエアチャンバと耐火被覆を持ったスチールの骨組構造に貢献し、ウィリアム・ル・バロン・ジェニーのホームインシュアランスビル(1885)で、これは明確に表現されたという。外壁は支持材に変わって互いに支持しあう耐火壁である(62頁)。

ミネソタの建築家L.H.バッフィントンは鉄骨骨組構造の特許を出願するが、却下されている。摩天楼と鉄骨骨組造も同じものではない(63頁)。

続いて召喚されるのがルイス・ヘンリー・サリバンである。「彼をアメリカ建築におけるホイットマンと呼べるかもしれない」(65頁)。「ホイットマン曰く、物語(romances)は最早必要ない。事実と歴史に語らせようではないか」(66)。「この頃までにサリバンとルートは時代の頂点に乗っていた」「1891年、ルートが逝去、そして95年にサリバンとアドラーは会社を割る。これが不運の始まり」(67頁)

「ルート同様、サリバンは高層オフィスビルを理論化し、セントルイスのウェインライトビル(1891)、バッファローのプルーデンシャルビル(1892)、シカゴのシラービル(1891)とゲージビル(1898)でそれを試みた。彼の分析を吟味してみよう「実践上の考慮」と1896年の『リッピンコッツマガジン』誌でサリバンは言う。「概してまず、地下はボイラーや様々なエンジン、つまり動力や熱源、照明その他の工場。第二に地上階はいわゆる店舗や銀行といった、大面積や大きな間隔、強力な光、自由なアクセスを必要とするその他のエスタブリッシュメントのために。第三に、階段ですぐにアクセスできる2階には、ガラスや大開口を持った素材による大きく分割したスペースとそれに対応する自由な構造を。第四に、この上部にはオフィスが積み重なる。これらオフィスは単なるコンパートメントからなる蜂の巣以上の何物でもない。第五に、最上部にはアティックが来る。最後に、地上階には主開口あるいはエントランスホールが来る」(68)。「それで高層オフィスビルの主たる性格は何か?即答すれば上昇性(lofty)である。この上昇性は芸術家気質にはスリリングな側面である」(69)。「サリバンは摩天楼の垂直性を強調した最初の建築家の一人である。ウェインライトビルでは必要ないにもかかわらず主柱のあいだに付柱を挿入することでこれを強調した」(69)

「鉄の篭構造はそれ自身では垂直構法システムとは関係ない。それはむしろ分節された立方体システムである」「垂直性を強調したい誘惑は付柱やマリオンの使用に至る。これは石造を示唆する一方、カーテンウォールはその薄い皮膜でプレイビルや900ブロードウェイで先取されるように構法を表現する。繰り返すなら、垂直線は下二層における連続した窓スペースと摩擦を起こすのである。故にサリバンの摩天楼では基壇部での水平強調は上部における垂直性の強調と対立する。結果、ウェインライトでのオーバーハングした笠木やプルーデンシャル頂部での奇妙な曲線は基壇、柱、柱頭という古典概念のようでもある」(69)

そして多くそう語られてきたのとは裏腹に、「サリバンにとって装飾は多く個人的領域に属していた」(70頁)と語られる。「彼の作品のほかのどの部分にもまして同時代と無関係であるなら、19世紀建築における「個人性」や「個性」の希求は崩壊の最後の段階にあったのであり、というのも建築は社会芸術であり、集団的に成就されねばならないものだからである。「個人性」は共通規則にはなり得ない。それは共通規則が確立した後の還元不能な残滓物に過ぎない」(70)

「ではサリバンの貢献とは何か?彼は都市/文明との関係を意識的に考えた最初のアメリカの建築家だった。リチャードソンもルートもこの点でいい嗅覚を持っており、実際効果的にそれを見せた。だがサリバンは自分のなすことを承知し、さらに重要なことはすべきことを承知していた。「一度悟れば」と彼は書く。大なり小なり不出来や出来の単なる芸術ではなく、それは社会的宣言であり、批評的な目でよく見え、よく見えなかった現象が輝きだすものである」(74)。「建築家の仕事は近代社会の諸力を組織し、建物の造形性と利便性という形で表現することで、それを人間のために馴致することであると見ていた」(74)。このあたりはマンフォードらしい評価と言うべきであろうか。

フランスに留学した経験のあるサリバンは「フランス思想の古典的ディシプリンを吸収し、ミシュレやホイットマンやテイヌやダーウィンや、こうしたロマン主義的科学的そして古典的衝動の混合によって、環境に作用する特別な力を得た」(75)。最終的に、「サリバンはリチャードソンとフランク・ロイド・ライトという二人の巨匠を繋いでいる。ライトの建築の展開とともに、この移行は完遂される。アメリカの近代建築が、まさにそこに生まれるのである」(75)として、ライトへと話が移行していく。

ライトとマンフォードの関係からして、ライトについての記述はここでは端折る。最後に、The Brown Decades後のことがいくつか言及されるのが興味深い。

近代建築はヨーロッパにおけるアジェンダを抹消して単なるスタイルとしてアメリカに「輸入」されたと記述されることがある。だがそれは一面に過ぎないし、事情はもっと複雑である。

最後に述べられるのはこの章が書かれた直前、20世紀における最初の20年におけるアメリカの状況についてである。この20年において建築は大きな変化の入口に立っていたと述べられる。「記念的建物や個人的構造は最早建築家の問題ではなくなっていた」「新しい方向がやってきた。都市と郊外の再生であり、全体へと統合する新しい共同性の展開である」(79)

そしてその具体的な試みとして述べられるのが、西海岸におけるアービング・ジョン・ギルとバーナード・メイベックの仕事である。思想的にもデザイン的にも、モダニストはもうそこまで来ていたのである。

そしてこれらのことが、The Brown Decadesに起源を持つことが再度確認される。

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2011年10月 3日 (月)

ブレンダン・ギル、『ライト仮面の生涯』、塚口眞佐子訳、学芸出版社、2009年

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メモ

「一般に20世紀の自叙伝作家は子供時代に過剰にページを割きがちである。この点からもサリバンのケースは特に注目に値する。彼は後年The Autobiography of an Ideaを出版する。世に生まれ出たその瞬間から、いかに気高い赤ん坊であったか、妄想にとりつかれたように長々と記述している。彼の誕生もライトと同じく警戒に値しそうなことがらが渦巻いている印象がある。その上、これは確信できる説であるが、ライトが誕生に関連したいかにもありそうな話をでっち上げる気になったのは、サリバンに誘発されてのことである」(58頁)

Ideaでサリバンはメイジャーのことを、パーティー大好き人間で開催も参加も頻繁、料理とワインの鑑定家、とびきり上等の会話上手、と陽気に描写している。サリバンがわれわれに期待した自己イメージ、華やかな像のその度合いは、公平に見てメイジャーと同等では、と勘ぐらざるを得ない。不当でないなら、次のように疑うことさえ無理ではない。すなわち、サリバンがメイジャーを茶化した扱いにせざるを得なかったのは、直接的にも間接的にもメイジャーは自分の理念の主な源の一人、というのが理由で、その理念は完全に自分独自のものと認識されたかったのである。形態は機能に従うという、という主旨の大事に温めた理念である。毛並みがよく裕福な東部人のジェニーは、ハーバード大学のローレンス・サイエンティフィック・スクールに入学、ずいぶん後にチャールズ・マッキムもそこで学んでいる。工学のコースに飽き足らずにパリに行き、エコール・サントラール・デ・アール・エ・マニュファクティールに入学、1856年に優等で卒業する。サリバンはメイジャーを単なる技術者として片付けてしまっている。しかし、エコール・サントラール・はヨーロッパでは、どの点をとってもボザールと並び、優秀でプレステージが高く評判を呼んでいた。メイジャーはエコール・サントラールで3年間学び、工学とともに建築のコースも受講、これは当時のアメリカで事務所開設に問題なく十分な資格だった。事実、唯一のライバルはリチャード・モリス・ハントではないかと言われていた。ハントはアメリカ人として最初にボザールで学んだ建築家だった。彼がパリで過ごした時期はジェニーと一致する。二人がともにニューイングランド人で、同じ階級に属し職業的関心が同じであったことを思えば、パリに存在した小さなアメリカ人ソサエティのメンバーとして出会わなかったのが不思議であるが、出会った記録は残っていない。40年後の1893年シカゴで開催のコロンビア世界博で二人は共に働くことになある。当時、全米ではないとしても、ジェニーは西部を代表する一流建築家の一人でハントは東部を代表する建築家であった。

カール・W・コンディットが私に語ったことだが、エコール・サントラールでジェニーはルイ・シャルル・マリー教授の建築論の授業に出席していた。この教授はエコール・ポリテクニクでジャン・ニコラス・ルイ・デュランの弟子にあたり、半世紀も前に「建築物に具体化された構造システムは、建築の芸術性において、形態に現れた建築デザインと相互依存性がある」という教義を公式化した人物である。建築のデザインプロセスとは、マリーの論に従うと、「構造技術を応用して、結果として平面計画と形態表現の一致を表明すべきもので、また逆に、平面と形態の一致のプロセスは、建設材料や意図した機能から展開したものでなくてはならない」となる。コンディットは、ここから演繹し、「ジェニーが後にシカゴの事務所に導入した経験主義の実用的な精神は、直接的または間接的にフランスの理論家から浸透したものである」(Macmillan Encyclopedia)とする。」65-66頁

「サリバンと同じくライトも、構造という職務を、必要だけれども実用的で補助的なものと見下げていた。1930年代、物理学中心の建設手法に「美的連続性」を導入する願望についてライトは書き記している。「変革はゆっくりだった。なぜなら、従来の柱と梁を打破するために、エンジニアから助けを得られなかったからである」と文句を言い、続けて厳しく糾弾している(78頁)。

「ライトがダーウィン・D・マーティンに1903年に設計した住宅は、「大草原に建つ家」というタイトルで『レディス・ホーム・ジャーナル』誌に掲載用に1901年に設計したものと、驚くほどそっくりであった。この掲載はフィラデルフィアのカーティス出版社のエドワード・ボックが前年に旗揚げしたプロジェクトの一部である。彼はアメリカの住宅のデザインの向上、特に機能性と衛生面の向上に心を傾けていた。ボックはスリーピング・ポーチや、サニタリー・バスルームルーム、キッチン、そして人間的な広さの召使いの寝室の擁護者だった。『レディス・ホーム・ジャーナル』誌に建築家を集め、数十万の読者の手の届く住宅を掲載し、実施設計の完全セットを1セット5ドルで提供することを企画したのである」(136頁)

「ヴィクトリアン盛期の見方では、芸術家というのは、ある種、聖職者と売春婦がミックスされたものである。ライトが例のない修辞法ながら語っているのはその例である」(155頁)

「発信地を示す行はスプリング・グリーンとなっており東京ではなかった。オリジナル文書はタリアセン・アーカイヴでは発見されていない。少なくともライト自身がその電文を書き、ロサンジェルスに届くようアレンジした可能性がある。レイモンドによれば、ホテルは幾分被害を受けたという(比較的軽微であった。これは事実である)。歴史にとってもっと重要なことは、東京にある鉄骨造の建物は圧倒的多数があっさりと持ちこたえることができたこと、地震に対しては、ライトの「浮き」基礎に対抗力がなかったことは、他の鉄骨造建造物の従来的な基礎とさして変わらない、ということであった。さらに、ホテルは巨大な重量のため、この後の年月のうちに、安定しないコンクリートのマットの上にあって沈下し続け、場所によると4フィートに及ぶところもあった。この沈下に直面する中、ホテルの基本的な施設維持の高コスト性が、取り壊しの主な理由であった。どのように見ても、ライトが言明したようなエンジニアリングの驚異ではなかった。」(249頁)

「(ハンナ)夫妻がスタンフォード大学に譲渡したのは1974年で翌年に転居している。1977年、夫妻のプロモーションと日本の友人である日産自動車株式会社のおかげもあり、50万ドルが基金に寄贈された。この寄贈はライトの生涯にわたる日本文化への支持に敬意を表するものであった。」(369-370頁)

「ミース(ライトよりほぼ20歳下)には「年寄りミース」と言い、ル・コルビュジエには「画家というべきだ。程度の悪い画家だ。でも、続けるしかない」、そして国際的に成功している設計事務所スキッドモア、オウィングス+メリルには、スキッディング(没落の道)、オウンモア(もっとある)だと、スターライル(不作)」だと、とあざけり、その他頭に浮かぶ敵を嘲笑していたのである。」(432-433頁)

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2011年8月20日 (土)

谷川正巳 『フランク・ロイド・ライトの日本、浮世絵に魅せられた「もう一つの顔」』、光文社、2004

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フランク・ロイド・ライトと浮世絵に関係をあてた新書である。ライトと浮世絵の関係は戦後まもなくに書かれたアルフレッド・バーの『絵画から建築へ』(1948)では日本の建築以上に浮世絵からライトは影響を受けたと述べられ、ケビン・ニュートの『フランク・ロイド・ライトと日本文化』(大木順子訳、鹿島出版会、1997)ではライトの建築と日本の建築形態、ライトの自叙伝中の文章とモースの文章が比較検討されていたように思う。またあとがきではジュリア・ミーチの『フランク・ロイド・ライトと日本美術、建築家のもう一つの情熱』(2001)が本書執筆の契機となったと書かれている。

いずれにしてもこれまで漠然と言われてきたライトと浮世絵について光があたり始めたということであり、本書でも多くの頁を割かれているボストン美術館コレクションの元となったスポールディング兄弟のものを含め、ライト自身が豪語するように「アメリカ合衆国にある主要な浮世絵は私が蒐集した」というのは誇張でないほどの関りぶりだったということである。

ライトの浮世絵やジャポニズムとの邂逅は最初に就職したシルスビー事務所においてで、さらにシルスビーはフェノロサの友人でありライトはフェノロサに会ったことがある可能性があるが、ライトはしかしこうしたことは自伝では例によって周到に隠蔽しているのだという。

さらに浮世絵鑑賞の手ほどきをライトに施したのは執行弘道なる人物であるとされ、執行は佐賀藩士の出自で1880年にニューヨーク起立工商会支店長となり、ウィンズロー・ホーマーらとも親交があったという。他にも日本側でライトに浮世絵を通して関った人物が明らかにされ、またライトの最初の来日は1905年初頭で、箱根、日光、京都、奈良、岡山、松山などをまわったことが宿泊台帳や写真撮影の背景他から明らかにされる。翌1906年にはシカゴで最初の広重展を開いている。その広重展のカタログで序文を著し、また1912年には浮世絵論をライトは執筆している。興味深いところである。

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2011年8月13日 (土)

James F.O`Gorman, H.H.Richardson, Architectural Forms for an American Society, The University of Chicago Press, 1987

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ジェームズ・オゴールマンによるリチャードソンの評伝。全体は、1・生涯、2・作品、3・折衷主義、4・都市、5・田園、6、交通、7・遺産、の全7章からなる。

1では生涯の見取図が瞥見される。リチャードソンは47歳の短命だったが、元々あまり健康ではなく腎臓病が死因という。晩年の欧州旅行ではその腎臓病の権威に会ったり、ロマネスク建築を見たり、ロンドンでラスキンと会っている。

フランス留学時代に勃発した南北戦争以降、故郷である南部には二度と戻らなかったといわれる。ところで当時のボザールはフランス人と外国人とを問わず15-30歳で試験に合格すれば授業料無料で入学できたという記述も目を引く。

2と3ではリチャードソンの歴史的な位置付けが与えられると言っていい。当時(1850年代以降)の建築の二大潮流はイギリスとフランスのもの、前者は多彩色でピクチャレスクでビクトリアン・ゴシック、後者は第二帝政期の古典主義、そしてこの二者を追っていたのがドイツ系の丸アーチ・ロマネスク(Rundbogenstil、これはケネス・フランプトンの『テクトニック・カルチャー』でも一章が割かれている)であった。こうしたそれぞれの覇権と結びついた様式に対し、リチャードソンが依拠しようとしたものはフランス的なロマネスクである。

また19世紀前半は歴史様式(historicism)の時代だったのに対し後半は折衷主義(eclecticism)であっという時代背景が簡潔に纏められている。アメリカ合衆国においてはたとえば1820年代の公共建築はヘレニズムを髣髴させるよう造られることが多かったが、これはまさにその歴史様式との連想を惹起させるためだった。これが歴史主義である。一方南北戦争後はこうした単独の歴史様式はいかにも単純に見え、各様式を単一の建物において折衷する手法が主流となりだす。その代表はフランク・ファーネスである。

ヴィオレ=ル=デュクの翻訳者だったヘンリー・バン・ブラントの言説は示唆的である。「芸術は・・・派生や発展によって進歩すべきである。現代では建築のモニュメントも伝統も莫大となっており、問題はわれわれ(アメリカ人)がそれらを使うか否かでは全くなく、そこからいかに選択し、またそうした選択が今日の実践にどの程度影響を与えるかである」(63頁)。

リチャードソンの建築はこうした折衷主義との対比においてある。ロマネスクという「自らの選択に固執したことは、この様式が19世紀アメリカ建築の現地化にとって最良の可能性を持っているという彼の確信の深さを示している」(67頁)。

この点で最も影響力を持っていたのはトリニティ教会である。「トリニティにおいてリチャードソンは「リチャードソニアン・ロマネスク」を始め、この様式は一世を風靡した」(67頁)。

4、5、6は、南北戦争後大陸横断鉄道建設等によって発展したシカゴの都市、そしてシカゴや東部の郊外田園住宅地、さらにその間を繋ぐ鉄道施設という当時のアメリカの新しい建築類型においてリチャードソンの建築が吟味されていく。この時期「アメリカ社会は都市と郊外という領域に分化を始め、彼はそれぞれに適した建築的回答をしようとした」(72頁)。

20世紀のオフィスやホワイトカラー中間層といったものは、この時代のアメリカを通して形成されていったというアーサー・シュレジンジャーの『都市の登場』への言及は興味深い。

都市の章で取り上げられるのはマーシャルフィールド商会(1887)である。1ブロックまるまるから形成されるこの建物の参照元としてベネチアが示唆されている。

同じく大陸横断鉄道の敷設等による西部のピクチャレスクな自然への関心は、イギリス的なこの美学の現地化とともにあった。A.J.ダウニングの『北アメリカに適用されるランドスケープ造園論』(1841)はその典型の一つとされる。「アメリカの条件、アメリカの敷地、アメリカの素材に浸され内在化された文化の形をこれら著者たちは要求した。(さらに)エマーソンはSelf-Relianceで例えばこう問うた。なぜドリス式とかゴシック等のモデルを必要とするのか?」(92-3頁)。

さてこの章を代表して吟味されるリチャードソンの作品はエイム邸(マサチューセッツ,1881)およびエイム・メモリアル(ワイオミング1882)である。いずれも粗石によるピクチャレスクな表現が特徴的である。

交通の章はまさに鉄道の駅舎を扱う。都市から遠心していく郊外が寝室となり、萌芽期の都市中心に業務が積み上がるという、南北戦争後の典型的な問題の一つが通勤だったという。

リチャードソンの駅舎のデザインではそれまでの時計塔のような垂直な語彙は放棄され、鉄道に沿うよう水平性が強調され、また多くは田園にあるためその環境と微妙に呼応するよう緩い勾配屋根のデザインが腐心されたという。「その結果はこの建築家の作品に特徴的な静かで記念的な扱いとなった」(114頁)。

7・遺産ではその後に与えた影響が検証されている。アメリカ以外ではドイツへの影響が言われ、後続の建築家では言わずもがなサリバンとライトへの影響が検証される。サリバンのオーディトリアム・ビルについて「サリバンは初期ドローイングにあったピクチャレスクなシルエットを一掃し、建物を濃密なブロックへと還元し、リチャードソンがマーシャル・フィールド商会ビルのファサードで採用したソリッドとボイドの関係を借りてきた。これがその後のサリバンにおけるリチャードソンの影響の始まりである」(130-131頁)と、述べられる。

ライトについて。「ここ(ウィンズロー邸)においてライトはリチャードソンの駅舎や図書館に派生するイメージを統合した。外部は水平の三層積層に組織される・・・・」(137頁)というのは、グレスナー邸との関係で見た「箱の破壊」の一歩手前といったところだろうか。

さらにリチャードソンのグレスナー邸外壁デザインと、ライトのV.Cモリス・ギフトショップ(カリフォルニア、1949)との関係も一瞥される。

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2011年7月31日 (日)

“Function and Form(1),” “Function and Form(2),” “Growth and Decay,” KINDERGARTEN CHATS AND OTHER WRITINGS, Louis H. Sullivan, Dover, 1979

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“Form follows function(形は機能に従う)”という有名な言葉は独り歩きしている感じあるが、その前後の文脈はどうなっているのか。

サリバンのこの言葉にある考えは新プラトン主義的と言える。サリバン自身はしかし、「新プラトン主義」とか「プロティノス」という言葉をまったく使わない。彼が使うのは“organic(有機的)”という言葉である。この時代の思潮の影響を受けていたと思われるが、彼が使うこの「有機的」という考えはこれら影響も含めて新プラトン主義の変形であったと言えるのではないか。

植物や動物を例にまずこう語られる。「外見は内的目的に相似する。ブナの形はブナの機能の目的と相似する。松の木もそうである。馬や蜘蛛もそうである」(43頁)。植物や動物、自然現象など一般に「自然」とされるものがまず例として述べられるのは注意していいかもしれない。さらに「形はあらゆるいかなる物、全ての場所全ての瞬間にある。ある形ははっきりしておりある形は曖昧、ある形は星雲状、ある形は具体的で鮮明、あるものは相称、あるものは純粋にリズミカル」「だが結局間違いなく非・物質と物質、主観と客観、無窮の大文字の精神と個別の心の関係を表している」「あらゆる物は生成衰退する。機能は機能から生まれ、今度は他のものに席を譲るか死ぬ。形は形から現れ、そして他のものがここからまた現れる」(45頁)と述べられる。アールヌーボーに特徴的な生成論が一方にあると言えるのではないか。

そして「纏めるなら目に見える全ての形の背後には何か生気あるいは目に見えぬ物があり、しかしそれ自身がまさに形として可視化される。言い換えるなら自然状態において形は機能という理由で存在し、そして形の背後にある何かは一般に創造的精神と呼ばれ私が大文字の神と呼ぶものの、宣言以外の何物でもない」(46頁)。新プラトン主義風に言い直すなら「形は機能のemanacio(流出)である」と言い直せるだろうか。

さらにここから全体と部分の関係が吟味される。

「結果、それぞれの部分がその部分の機能をはっきり表現すべきで、その機能はその部分を通して読まれ得る。よかろう。だがこう付け足せる。作品が有機的でなければならないとすれば、部分の機能は全体の機能と同じ〈質〉を持たねばならない。そして部分はそれ自身において、それ自身によって全体の質、その自己同一性に参与せねばならない」(47頁)。この部分と全体の関係もまた何とも新プラトン主義的ではなかろうか。この部分と全体の関係はさらにディテールにまで敷衍され、この思考が再び「有機的」と呼ばれる。

さらにこの「有機(的)」という概念について。「はじめにこの言葉と関連している組織(organism)、構造(structure)、機能、成長、発展、形という言葉の価値に留意せねばならない。生きた力の初発の圧力と、この不可視の力から生ずる構造や機構が、そこにおいて明確化され有効になることをこれら全ての言葉は暗示している。この圧力をわれわれは機能と呼び、この結果を形と呼ぶ。それゆえ機能と形の法則は自然界全体を通して分かち難いのである」(48頁)。

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2011年7月25日 (月)

“JENNEY AND THE NEW STRUCTURAL TECHNIQUE,”The Chicago School of Architecture, A History of Commercial and Public Building in the Chicago Area 1875-1925, Carl W. Condit, The University of Chicago Press, 1964

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シカゴ派についての記述では必ず登場するあのフレーム構造の設計者、建築家ウィリアム・ル・バロン・ジェニーについてまるまる1章が割かれている。この建築家はコーリン・ロウの「シカゴ・フレーム」ではミース・ファン・デル・ローエとの比肩でわずか1行ほど言及されるに留まる。

よくお目にかかるあの写真とアイソメ図はフェア・ストア(1890-91)のものである。鋼鉄柱に大梁と小梁をを渡してコンクリートスラブを打ち、スラブ上(またはスラブ下)に配管配線スペース、耐火被覆(外部ではテラコッタ、内部ではプラスター)を行うというのは、原理的には今日にいたるまでそれほど変わらない。冒頭で著者はこのシステムの発明を12世紀におけるゴシックの構法の発明と比肩している。

ジェニーのフレーム構造について著者は二つの参照源を挙げている。一つはニューイングランドの木造建築である。もう一つはこの建築家のパートナーでもあったウィリアム・B.マンディーが語ったものとして、ジェニーの父親は捕鯨船乗りでそのためジェニーはフィリピンで過ごしたことがあり、当地での建物のフレーム構造にこれは影響されたというものである。ゴットフリート・ゼンパーの「カリブの小屋」、フランク・ロイド・ライトの「日本建築」、そしてこのジェニーの「フィリピン建築」と、海洋性結構が近代建築に与えた影響を再確認できるだろうか。著者によればさらにこうした結構は新石器時代に起源を持つと言う。

コーリン・ロウも言及していたファースト・ライター・ビル(1879)は著者によればほとんどグラスボックス(それがロウがミース・ファン・デル・ローエと比肩した理由でもあろう)である。スパンドレルはまったく消去され、床上から天井下までがグレージングとなっている。

ただし各ベイにはピラスターが残っている。そしてこれらピラスターはやがてブレースにとって変わられていく。続くホーム・インシュアランス・ビルではしかし構造とファサード・デザインの装飾との関係から著者はいささか辛い評価を与えている。また著者も示唆していることだがジェニーのシステムはのちのスカイスクレーパーの構法に与えた影響という側面からも見ることができるだろう。こののち彼はあのシアーズ・アンド・ローバックの設計も手掛けることになる。

鋼鉄はまだ高価なもので当初のシカゴ・フレームは鋳鉄と鍛鉄によるものだったが、世紀末にかけて鋼鉄によるものが建設されていく。1893年のイザベラ・ビル(11階建)は鋼鉄フレームに耐風圧用に膝当型ブレースを用い、これはまたアメリカにおいてこのタイプのブレーシングの最初のものであったろう、と述べられる。この小さなブレーシングはRC造ラーメン構造ではハンチに翻案されるのではなかろうか。「歴史家はジェニーを文句なしに賞賛というわけにはいかないがしかし、アメリカ建築史において大きな位置を永久に占めていることを決して否定できない」(94頁)。

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2011年7月23日 (土)

“ADLER AND SULLIVAN,”“ARCHITECURE IN THE NINETEENTH CENTURY,”The Chicago School of Architecture, A History of Commercial and Public Building in the Chicago Area 1875-1925, Carl W. Condit, The University of Chicago Press, 1964

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気になってシカゴ派についての古典的な書であるカール・W.コンディットの著作の「アドラー+サリバン」の章をざっと読んでみる。リチャードソンからの影響関係はまったく記述されていない。概説書ということもあってシカゴのブックショップで売られている(あるいは売られていた)シカゴ派建築についての記述と同じ程度のことが一通り述べられるに留まる。コンディットの書は冒頭でも著者自身によって明記されているが、技術を主題として記述した概説書である。半世紀前の建築史のいわば教科書。

ところでサリバンの晩年について。

1893年のシカゴ・コロンビア万博は、大西洋のオーシャンライナーでニューヨークに着いた西欧の観客をさらにアパラチア越えの鉄道でシカゴまで運ぶと言う、当時の西欧の組織的到達点としては最先端かつ最西端であったシカゴをプレゼンテーションするものであった(ロサンゼルスの台頭は20世紀に入ってから。また日本は「日清戦争」によってようやく世界史に登場したところ)。ところが建築的には東部の建築家をはじめとしたボザールの圧勝となり、これによってシカゴ派はかえって沈滞、いわんやサリバンをや、というのがこれまで一般的な解説ではなかったかと思う。

冒頭の19世紀米国建築を概観した章はホレーショ・グリーノウやラルフ・エマーソンらとの関係が基本として一瞥される。

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2011年7月16日 (土)

JAMES F. O`GORMAN, THREE AMERICAN ARCHITECTS RICHARDSON, SULLIVAN, AND WRIGHT 1865-1915, The University of Chicago Press, 1991

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著者のジェームズ・F・オゴールマンはヘンリー・ホブソン・リチャードソンについての著作があり、本書でも全体を通してリチャードソンは通奏低音のように続く。また最終章の「プレーリー・ハウス」は昨年710日のアンソロジー(こちら)に収められたものと同じである。

ヘンリー・ホブソン・リチャードソン、ルイス・ヘンリー・サリバン、フランク・ロイド・ライトという3人の米国の「国民的建築家」について、” muse, master, and man”というルイス・マンフォードの言葉をなぞりながら冒頭で簡単な見取図が示される。言わずもがなミューズはリチャードソン、マスターはサリバン、そしてマンはライトである。あるいはこの3人は米国建築史におけるホップ、ステップ、ジャンプのような存在とも言い直せるだろうか。リチャードソンが早世し、サリバンが晩年廃人となり、そしてライトによって二人が目指したものが最終的に実現された、と素描するとできすぎた物語構造になるだろうか。

各建築家に2章ずつ割かれ、全体は計6章からなる。

冒頭の「ピクチャレスクの訓育(Disciplining the Picturesque)」はリチャードソン以前の英米建築を風靡していたピクチャレスク・エクレクテイシズム(別名「ビクトリアン・ホラー」)を、リチャードソンがいかに訓育したかが述べられる。このいわば雑多なごった煮をリチャードソンはいわば原始的なものへの回帰によって超克しようとしたといえる。とはいえリチャードソン自身、様式建築を放棄するわけはなく、リチャードソニアン・ロマネスクと呼ばれる独特のロマネスク様式でそうしたのだった。その特質は柱や壁、マスやボイドといった基本要素の強調、静謐さ等である。さらに述べればこれら基本要素は20世紀モダニズムの基本語彙でもあろう。

また同時代者であるM.M.W.との相違も指摘される。M.M.W.もリチャードソンもともにヨーロッパの建築語彙を用いてアメリカの建築を造る点では同じだったが(M.M.W.もリチャードソンもボザールで教育されている)、M.M.W.がアメリカン・ルネサンスと呼ばれた当時の米国の状況を後期ルネサンスと位置づけ、ルネサンスの語彙で設計したのに対し、リチャードソンはあくまで中世的あるいは「原始的な」ロマネスクでそうしようとしたのだった。本書ではエマーソンとの関連も示唆されるが、彼がルイジアナ出身のフランス系米国人であったこともロマネスクと関係しているのだろうか。

リチャードソンが後続世代に与えた影響も一瞥される。マーシャルフィールド商会ビルはサリバンらのオーディトリアム・ビルの原型となり、クレーン記念図書館やグレスナー邸などはライトに影響を与えたとされる。「だがより重要なことは、クレーン記念図書館、オールドコロニー駅、マーシャルフィールド商会ビル、グレスナー邸やポッター邸、エームズゲート・ロッジにおいて彼は自身のよく練れたしかしまた新鮮で多様な建築形態を当時の米国社会のために創造したということであり、とりわけルイス・サリバンとフランク・ロイド・ライトというよく似た目的を持った建築家たちに、その個人的でありまた不完全な遺産、まだ十分に極められていない可能性を残したことである」(67頁)。

言説少ないリチャードソンに対し、サリバンは多くの言説を残している。

サリバン独特のアールヌーボー装飾や複合形態に影響を与えたのはフランク・ファーネスだったことがまず述べられる。ファーネスに影響を与えていたのは当時の装飾理論、オーウェン・ジョーンズの『装飾の文法』(1856)、クリストファー・ドレッサー『装飾デザインの原理』(1873)、V.M.C.ルプリッシ・ロベール『花装飾』(1866-76)、そしてヴィオレ==デュクの『建築講話』(1863-72)だったという。

当時のシカゴは大火災のあと急速に都市化が進みつつあり、サリバンが手掛けたものの多くはオフィスや商業施設など広義の商業施設だった。「彼は骨組みをデザインしており、リチャードソンの作品例をきわめて一般的な方法でのみ適用できた。リチャードソンが決して直面することのなかった建物プログラムや構造テクノロジーに相応しい表現を明らかに探した」「これら事実は都市の建物をサリバンの秩序に合うよう求めた。つまり1、機械室を格納する地下、2、店舗のための地上階、32階は主にその1階の延長、4、上部は各階毎にオフィス、5、最上階はその終点であるとともに機械システムのリターンを格納、そして共通の玄関である」(97-98頁)。今日にまでいたる都市建築の基本構成であるとともに、古典建築の構成の反映であろう。

そしてライトによれば「ウェインライトのファサード・パターンをサリバンが見せたとき、リチャードソンからのブレークスルーだと(ライトは)気づいた。だがこうも言う。ファサードはサポーティングシステムと無関係と見えた」「ファサードは、とサリバンは書く。先の分析を反映すべき。高層ビルの外部表現はそのものの本性からしてその建物の機能に従う。機能が変わらないなら形態/形式も変わらない。これは建物内部の機能には有効だったかもしれないが、構造外殻を無視している」「ウェインライト・ファサードのこの両義性はギャランティー・ビル他にも当て嵌まることにライトは気づいていた」(98-99頁)

最終的に「シュレジンジャー+メイヤー商会(カーソン・ピリー・スコット百貨店)では上昇感を目的とすることは放棄され、アーチも採用せず、幅広の水平連続バンドとそのあいだに挿入された細い不連続な垂直線によるグリッドを形成した。これは彼のいかなる公式よりもほとんどフレームを強調した」(102頁)。

著者の立場からして結局、サリバンはリチャードソンとライトの繋ぎ役のような述べ方がされる。

最後の2章はライトについて。いくつか引用を。

「ウィンズロー邸はリチャードソンを基本としてサリバンのタッチを取り入れており、明らかに独立直後、先行者の作品への関係を表している。リチャードソンの静謐な形態を消化するとともにサリバンの装飾アクセントを採用したのである」(124頁)。

1901年の『レディーズホームジャーナル』上の有名なプレーリーハウスの記事について述べた部分では、この建物の多くの部分が、リチャードソンに負っていたことが分析される。だがまたロビー邸について述べながら、「ライトの水平線の強調・・ロングスパン、長い片持梁、十字平面、開放的な室内、プレーリーハウスに特徴的なダイナミックな三次元の形態構成は、リチャードソンに典型的な伝統的耐力壁による閉じたブロックとは無関係である」「これはもっぱら鋼鉄の使用で可能となり」「これはリチャードソンの時代では能わぬものだったのである」(140頁)

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«“Norman Shaw and his Contemporaries,””H.H.Richardson and McKim Mead and White,” ARCHITECTURE: NINETEENTH AND TWENTIETH CENTURIES, Henry-Russel Hitchcock, Yale University Press, 1958