2012年5月10日 (木)

Lewis Mumford Sticks and Stones, a study of American architecture and civilization, Dover Publications Inc., New York,1924

Mumford

The Brown Decades と並ぶルイス・マンフォード初期の代表的著作であり、米国近代建築史についてのおそらく必読書の一つと言っていい。1954年の序文がついている。

その序文によれば初版が出た1924年まで、米国建築史を包括的に扱う書はなかったという。フレスク・キンボール(Freske Kimball)やトーマス・トルマッジ(Thomas Tallmadge)のささやかな論文があり、ヴァン・ワイク・ブルックス(Van Wyck Brooks)らの新しい世代がそれに続いた、と記されている。キンボールの『植民地と初期共和国の国内建築』はこれらの代表作だった、という。また1924年までシカゴ派の仕事は全くこれらの仕事の視野になかったとも言われる。シカゴ派という命名自体この後ということだろう。

モンゴメリー・シャイラーのよく知られた『アメリカの建築』は1893年の出版で、リチャードソン世代における最後の参照であったとここで言われ、マンフォードはこれに軌道修正を試みたことが記されている。

また1923年にパトリック・ゲデスとニューヨークで会ったことが同じく序文に記されている。この時ゲデスは機械文明に既に批判的だったと述べられる。マンフォードの当時の見解との相違は興味深かろう。サリヴァンについてのヒュー・モリソンの評伝も高く評価されている。

さて本文の方は全体で8章からなる「米国建築史」である。最初の三章は18世紀までを扱い、個人的な関心からはいわば前史であり、「建築と文明」と題された最終章は、マンフォードの視点が当時既に一定していたことを窺わせる。

第四章「パイオニアの消滅」から。まずいくつかの発明品について。フランクリンのストーヴ(1745年、84頁)、「セントラルヒーティングはアメリカの住宅に古代ローマの快適性を与えた」(同頁)、「アストラル・石油ランプはエドガー・ポーを虜にした」(同頁)、「据付型バスタブやウォータークロゼットは19世紀半ばまでに東部都市部の住宅に入ってきた」(同-85頁)。

続いて都市、とりわけ格子街路について。

「都市そのものの発明について言えば、格子街路が労働節約の方法として導入された」「格子街路の単純性はパイオニア達の心をつかんだ」「街路で囲まれた1ブロックは接道長さでの売買を可能にし、またギャンブル(売買の損得)を容易にもした」「さらに最も無能な測量士さえこの新たなエデンの成長の予測ができるようにした」「19世紀の都市計画において技師は土地独占者へ進んで仕えた」「これは建築家にも枠組みを与えた」「地価が全てを説明し、そして地価が後知恵でさえないものとして」(85頁)。

格子街路はここでは主に土地投機の観点から述べられている。と同時に「シンシナチやセント・ルイス、シカゴといった新しい都市では19世紀中葉までに、これらギャンブラーに対し、街路の改善、公共施設のことなどまったく考えていなかった当初のプランのツケを払うことを要求したのは驚くに値しない」(86頁)という記述も、引用しておく。「ビジネスが流行り廃れ、人々が来ては去り、土地所有者が変わりゆくのであれば、建築の安定した成就をなそうとするだろうか?」(88頁)

これに続いてゴシックリバイバルに一瞥が与えられる。「ルネサンスが有機的成長を本来的に否定するのに対し、ゴシック建築は成長という系譜にある」(88頁)。これは都市の生成衰退という先に見た様相との関連もあろう。

シカゴについて。「出来たばかりのシカゴ。大陸横断鉄道の結節点。新しい倉庫や摩天楼を当時の素材を使って造る事を建築家や技師に鼓舞した。平板な実用的機能に適するようにである。統合と自信に満ちた建築の誕生へと、パイオニア魂は結実した」(96頁)。

第五章はロマン主義の敗北。ロマン主義は過去へと向かい、無・時間的な古典主義と対をなしている。まず「1860-90年のあいだに産業主義にあったいくつかの焦点がアメリカ建築で実現した」(99頁)。続いて英国のジョン・ラスキンと米国のヘンリー・ホブソン・リチャードソンがそれぞれのロマン主義/中世主義を象徴するものとして対比的に論じられていく。いわば理論のラスキン(それゆえ英国においてはロマン主義は実作より理論)、実作のリチャードソン(それゆえ米国では理論より実践)というわけである(100-101頁)。

リチャードソンのロマン主義と次に対されるのはレーベリング父子によるブルックリン橋(1883年)の産業主義である(116頁)。章の末尾ではロマン主義の起源がルソーに求められ、またリチャードソンのロマン主義がサリバンに受け継がれたことが述べられる(119頁)。「彼らはロマン主義の古拙や歴史主義の陥穽を避け、またジョン・ウェルボーン・ルートとともに、実務的と人間精神の理想的要求を折り合せる真に有機的建築の基礎を築いた」(119-120頁)。

6章は「帝国のファサード」。この時代に言われた「帝国」とシカゴ万博以降顕在化してくる新古典主義との関係を考えるうえで、本章の記述は興味深い。「1890年から1900年にかけてアメリカ建築の新時代が登場する。この時代は大仰なランファンに仄かに先行され、だが皮相な形態は初期共和制のものに相似し、また先行する古典主義建築がまたも導きとなったとしても、続く時代はリバイバルでもその連続でもない」(123頁)。また「南北戦争後にボザールに留学した学生の新しい世代が、リチャードソンの敷いた路線に入ってきた」。この過程では「鉄の篭構造が石造にとって変わっていた」(同123頁)。

この時代の帝国について語られる場合によく言われるように「1890年までにフロンティアは消滅した」(続いて独占資本について語るこの口調はホブソンやレーニンの引用だろう。次頁における金融資本への以降についての言及もおそらくそう)。

いずれにせよシカゴ万博がこの文脈で言及される。「これらの主な建物が建築とすれば、これほど多くをかつてアメリカが一度に見たことがないほどだった」(127頁)。「MMWやハント、それにバーナムはルネサンスの語彙やローマの威光以上の皇帝に仕えるかのうようで、間違い形態をその活動に選択した」(128頁)。

「これら全てにおいて世界は区はまさに古典主義の例であり、それゆえ帝国の秩序のミニチュアを複製したのである」「その展示は帝国の盾の反対側を髣髴させたかもしれない。古代ローマのペトロニウスである」「続く10年におけるこの白いファサードの灰白色への変容。その影は「コニーアイランド」というまた別の成果物なのである」(134-135頁)。「(帝国主義の幻想とは逆に)それは西洋文明の全ての分野で自身を表現する性向なのであり、それがアメリカで最も露骨に表れたことは、ひとえにそれまでと同じく障害がなかったということにすぎない」(135頁)。シカゴ万博と帝国(主義)とコニーアイランドを論じたこのあたりは興味深い。

「帝国期におけるアメリカ建築の大勝利が鉄道駅であるのは偶然ではない。とりわけニューヨークのペンシルベニア駅とグランドセントラル駅、それにワシントンのユニオン駅。それがマッキムやバーナムによるものであるのは、彼らが帝国の威光を崇拝していたことからして偶然でもない。彼らはローマのアメリカン・アカデミーを設立した。つまり彼らは自らの故郷に気付いていたのである」(139頁)。「つまり古典様式は、建物がローマ世界の必要や利益にかなっている時によく仕える。」(140頁)

「ワシントンのオリジナル・プランの復元は1901年に始まった。同時期にマッキムの弟子であるヘンリー・ベーコンがリンカーン記念堂の設計者に選ばれた。リンカーン記念堂、オハイオ州ナイルのマッキンリー記念堂、NYUのホール・オブ・フェイム、それにグラントの墓、これらが古典様式で建てられた」(141頁)。

「これは帝政ローマで起こった。そしてナポレオン三世下のパリで再起した」(143頁)。

「帝国期がシカゴ万博に先取されているとすれば、その神格化は博物館にある」「帝国の博物館は本質的に戦利品の山である」(149頁)

この「帝国期」はしかし1910年ごろまでに弱まったとされる。続く7章は「機械時代」と題され、次の時代について論じている。「帝国期の建築がなぜ全ての建築に刻印されなかったのか。それは折衷主義のおかげではない。本物のヨーロッパやアジアの建築に、アメリカの建築家が親しんだからである」(155頁)。このあたりはフランク・ロイド・ライトと日本建築の関係を髣髴させるだろう。

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2012年5月 9日 (水)

フランク・ロイド・ライト『フランク・ロイド・ライトの現代建築講義』山形浩生訳、白水社、2009

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  大雑把に言って収穫は、ライトにおけるゼンパーの建築論の影響の再確認、同じく日本建築と日本文化の影響の再確認、そして新たなところでは東部の古典主義の建築家達との距離および摩天楼や都市主義への懐疑といったところか。

訳者あとがきにもあるplasticをあえて「素直」と訳出した件。これは山本学治訳では「塑造」だったように思う。本書でもその言葉の後ろにあるおそらくtectonic(本書の訳では「構築」)と、この概念は対になっている。「結構」(tectonic)はものを組み合わせて造る「構築」、「塑造」(plastic)は粘土をこねたり焼いたりあるいは金属他を鋳造する「構築」のあり方である。いずれにせよこのあたりはやはりゼンパーの建築論の影響を感じさせる。

いくつかメモ。

「ここでもあらゆる矛盾を避けるべく・・こんどは古代日本の誕生にたちかえり・・そしてそこで自由を安全に守るためにこの文には単に「芸術家にとっては制約こそが最良の友」という一句をとって、この一文を神武天皇に献呈することにしましょう。

 このゆっくりと沈みゆく振り子のような細長い島は、北は常冬の雪の地として海から立ち上がり、はるか南の常夏まで続きますが、この古代文明はこの文に対して他のどこよりも優れた裏付けを提供してくれます。ここでいう「制約」の意味は、素材、道具、個別目的の制約だと考えています。

 神武の島では完璧な産業におけるスタイルが至高かつ土着の形で存在していたのですが、それは我が国のペリー提督の着弾距離内に「日本」が発見されるまでのことでした」「何世紀にもわたる孤立の中でニッポンで幸せに濃縮しつつ発達した工芸は、スタイルにおいて比類のない普遍的で客観的な教訓を与えてくれるでしょう」(96-7)

「我々のこの発展段階において、特に日本は「大いに軽視されている」存在です。偉大な芸術家や偉大な目的において、臆病な逃げ口上はふさわしくないようですし、もちろん将来についての大きなテーマにアプローチするにあたり、そんな黙殺は許されません。起源を知らないのは何ら自慢できることではない・・そして起源に関する新しい考えから情報を隠すことも。したがいまして、スタイルというのが何かという探求にあたり、この古代文化の根っこをさらに掘ってみましょう」「それがそのような形になったのは宗教的な戒めによるものです「浄め」。「浄め」こそは神道・・神武天皇の古代祭祀形態の魂です。神道は善良な人や道徳については語らず、浄い人を重視しました。神道は浄い手のみならず、浄い心を重視しました」「清らかさという単純な理想を社会のあらゆる人々が抱くことで、無駄を場違いなものとして嫌悪するようになり、それを醜いものと見なしました・・したがって我々が「汚れ」と呼ぶものだと思えたのです」「かれらはもちろんながら、木は木であるがままにしました。金属は、金属のままであることを許しました・・それどころかそれを奨励しました。石は、石以上にも石以下にもなることを求められませんでした。また当時の設計者は、素材やプロセスをそれ以外のものにさせようとは一切しませんでした。ここには「産業における芸術」の既成概念まみれの土壌を一掃して、新しい成長をもたらすための、しっかりした最初の原則があります」(103-4)

「さっき繊維の話をしました。第一章の言説の中で木工、石工、金属加工の話をしたので、ここでは紡績機にとって今日の成功した例としてロディエ織物にちょっと戻りましょう」(107)

 ゼンパーの建築論で日本建築を見ているのではないかとさえ思える発言である。この後ろの章では、反古典主義の言いが続く。

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ブルーノ・タウト『都市の冠』杉本俊多訳、中央公論美術出版、2011年

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ブルーノ・タウトの有名な書籍の邦訳である。

ケネス・フランプトンは『テクトニック・カルチャー』においてヨーン・ウツソンによるシドニー・オペラハウスを、(シドニーの)ここで述べられるような「都市の冠」として記述していた。シドニー・オペラハウスの場合、形態自体もmiterのようであり、さらにそのプログラムも本書で述べられる「都市の冠」中心部に位置するオペラハウスだった。

全体の構成は中世ヨーロッパ都市におけるカトリック教会堂やイスラムのモスク、東洋のパゴダなどの例を図版で示す導入部と、自らが計画した「都市の冠」プロジェクトの紹介部分(これが主部である)、そしてアドルフ・ベーネやパウル・シェーアバルト等による文章が後ろにつけられている。

一見、ロマンティックな中世主義のようにも見えるかもしれないし、そうした部分もあるだろうが、出版された20世紀初頭(原書の初版は1919年)という時代を考えると、大都市における複合・大型施設の提示案の一つととれなくもない。つまりロックフェラー・センター等に連なっていく流れである。

実際、求心的な都市(ヒュー・フェリスの『明日のメトロポリス』やル・コルビュジエの『300万人の現代都市』を彷彿させる)として新しく建設された都市の中心に、そのどの部分よりも高度的に高く計画されたものとして、「都市の冠」は計画される。

その中心となるプログラムも、オペラハウス、大ホール、劇場、社交場、博物館、レストラン等の収益性の高くないものを主として含み、これはまたメトロポリスにおける都市型複合・巨大施設とも相似的である。

ただし、タウトが示す「都市の冠」の中心をなしているのは「クリスタルハウス」と呼ばれる空虚な中心である。これはタウトが設計した工作連盟館の構想を敷衍したもののように見える。

この部分についてタウト自身、「最終のものはいつも静かで空である」(68)と、述べている。

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ウラジミール・イリイチ・レーニン『帝国主義論』角田安正訳、光文社古典新訳文庫 2006

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岩波文庫版だったか、でかつて読んだものの再読。

19世紀末から20世紀初頭にかけての帝国主義期といわれる時代は近代における建築・都市とも深く関係しているのではないか、という現在の個人的関心から再読。

かつて読んだときは、フロンティアの消滅と資本の蓄積によって世界の再分割と資源の供給地にして商品の捌け口としての植民地獲得が「帝国」という形態によって進行する云々という話だったように認識したが、再読するとこの時代のディテールがあらためて見えてくる。

レーニンの帝国主義論は本書の冒頭でも述べられているように、J.A.ホブソンによる1902年の『帝国主義論』等当時の書物のあとに書かれ、つまりこの時代を「帝国主義期」として位置付けたのはレーニンが初めてではなく、レーニンはホブソンらによって分析されたこの「帝国主義時代」をいささかジャーナリスティックに分析した、とも言える。本書によればその時期は「経済や政治を扱った欧米の出版物に目を通すと、現代の時代的特徴を明らかにしようとして「帝国主義」という概念を考察する文献が次第に多くなっていることが分かる。そうした傾向は、この15-20年の間、特に米西戦争(1899-1902年)以降の時期に目立つ」(31頁)、「ここ数年、帝国主義論がにぎやかである」(32頁)。

ジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』において国家をその規模に応じて都市国家、国民国家、帝国に分類していたが、そもそも帝国という形態が登場するのは古代ローマの帝政においてであり、規模において国民国家より大きい帝国は結果として多民族・多文化国家ということになろうし、20世紀初頭における帝国はフレドリック・ジェームソンがウィンダム・ルイス論で述べたように19世紀の外交システム=国民国家を堀崩した面があったとも言え、それが20世紀初頭の超・国家主義という考えを準備したとも述べ得る、というのは前提としてあろう。

「全ての道はローマに通じる」という諺が示すように、帝国の成立には中央集中的な道路あるいは交通インフラの整備が必要なはずである。19世紀後半は第二次産業革命=鉄道革命期とも呼ばれ、それを資本の観点から見ると本書では、「鉄道は、資本主義における最重要の工業部門(石炭産業と鉄鋼業)が生み出した成果であり、また世界貿易とブルジョア民主主義文明の発展ぶりを示す隠れもない指標である。鉄道は大規模産業や独占体(シンジケート、カルテル、トラスト)、銀行、金融寡占性と結びついている」(16-17頁)となる。

第一章は「生産の集中化と独占の出現」と題され、競争から独占へといたる19世紀の資本主義を主に扱っている。「マルクスが半世紀前に『資本論』を執筆していたとき、圧倒的多数の経済学者にとって自由競争は「自然法則」と思われていた。だから、官製の学問の側では『資本論』を黙殺しようとした。だが『資本論』は、資本主義を理論と歴史の両面から分析し、次のことを証明した。すなわち、「自由競争は生産の集中化を生み、そしてその集中化は、一定の段階に達すると独占へとつながっていく」ということである」(42頁)、「個々の資本主義国同士の違いは、「保護主義か、それとも自由貿易か」といった点に見られるが、それによって生じるのは、独占の形態あるいは独占の到来時期に見られる瑣末な違いにすぎない」(43頁)、「新型の資本主義が最終的に旧来の資本主義に取って代わったのはいつのことだろうか。ヨーロッパの場合、その時期は、かなり正確に特定することができる。ほかでもない、20世紀の初頭である」(43頁)。「自由競争の発達が極限に達したのは、1860年代から70年代にかけてのことである」(44頁、ただしこれは主としてヨーロッパについての記述)。

以上をまとめると、「独占企業の歴史を総括すると、おおよそ次のようになる。1、1860年代および1870年代は、自由競争が最高度に、つまり極限まで発達した段階である。独占企業はかろうじて目につく程度にすぎず、まだ揺籃期にあった。2、1873年の大暴落のあと、カルテルの発達期が長期にわたって続く。しかし、カルテルは依然として例外的であった。まだ足場が固まっておらず、過渡的な存在であった。3、19世紀末に景気浮揚が、次いで1900年から1903年にかけて恐慌が起こる。この時期、カルテルは経済活動活動全体の基盤の一部となる。資本主義は変容を遂げ、帝国主義となった」(45-6頁)。ここで言われる「カルテル」はドイツにおける形態の名前であり、米国においては「トラスト」と呼ばれ、また時期も微妙にずれる。「アメリカの統計では第二次産業企業の三種類に分類している。すなわち、1、個人の会社、2、パートナーシップ、3、株式会社などの有限責任会社、である。有限責任会社は、1904年の時点において企業総数の23.6パーセントで、1909年には25.9パーセント(企業総数の四分の一強)であった。それら企業の労働者は、1904年の時点で労働者総数の70.66パーセント。1909年には75.66パーセント(全体の四分の三)であった。生産額は109億ドル(1904年)と163億ドル(1909年)で、これは比率で言うと、それぞれ総生産額の73.7パーセントと79.0パーセントである」(47頁)。また米国について石油部門でのスタンダード・オイル(ロックフェラー系)と、鉄鋼部門でのUSスチールについてのトラストが48-9頁にかけて記述されている。

 引用した記述から恐慌と景気浮揚の繰り返しのなかで資本の集中化が進行していった様子が窺えるが、ただ資本は単に集中化しただけでなく、重要なことに「発達の最高段階に達した資本主義のきわめて重要な特徴は、いわゆる複合化である」(37頁)、とされる。

 再度、「競争は独占へと変容する」「これはもう、旧来の自由競争とはわけが違う。かつての自由競争の主体は、細分化されていて相互に面識のない経営者たちであった。それら経営者は、未知の市場で製品を販売するために生産活動にいそしんだものだ。ところが今では生産の集中が高度に進み、一国単位で原材料(たとえば、鉄鉱石)がどれほど必要になるか、おおよその見積もりを出すことが可能である」(51頁)「我々が目のあたりにしているのは、もはや小規模企業と大企業の競争とか、技術的に遅れた企業と進んだ企業との競争なのではない。眼前に見られるのは、独占体に反抗し、独占資本家による迫害と専横に抵抗した人々が、独占資本家の手にかかって息の根を止められる図である」(53-54頁)。

 ただ重工業つまり重厚長大産業は本来的に資本の集中と複合がなければ成立し得ない産業であるのであり、そこで生産される莫大な成果品は同時に多大な市場がなければ成立し得ない分野ではあるのではなかろうか。それは「カルテル化の最先端を行くいわゆる重工業、特に石炭と鉄は、特権的立場にある」(58頁)となる。

恐慌による資本の整理について再度、「それらの純粋な企業はかつて、工業の急発展のうねりに乗って躍進したこともあったが、価格の下落や需要の低下などに見舞われて苦境に陥った。複合的巨大企業はそのような苦境に襲われることはまったくなかった。あったとしても、その影響はごく短期間のことにすぎなかった。したがって1900年の恐慌の結果、1873年の恐慌のときよりもはるかに大規模な工業の集中化が起こった。1873年の恐慌のときにも、ある程度企業の淘汰が起こり、優良企業が生き残った。しかし当時の技術水準のもとでは、淘汰が起こったからといって、危機を脱した企業が独占体を形成することはなかった。今日では、製鉄業界や電力業界の巨大企業を舞台として、まさにそのような永続性のある独占が・・・しかも、いちじるしい形で・・・起こっている」(60頁)。

第二章は「銀行とその新しい役割と題され、第一章で分析された「独占体」との関係で銀行が分析される。

「銀行の基本的で本来的な業務は、決済の仲介である。銀行はその際、不活動資本を活動資本(つまり利益を生む資本)に変える。また、ありとあらゆる金銭収入を集めて、それを資本家階級の運用に任せる

 銀行事業は、その発達にともなって一部の銀行の手中に集中する。すると、銀行は仲介という地味な役割を放擲して、全能の独占企業へと様変わりする。そして、資本家と小規模事業家から成る集団全体の貨幣資本を、ほぼすべて掌握する」(62頁)。「資本主義の歴史が長い国では、この「銀行のネットワーク」がもっと密なものとなっている」(68頁)、そして交通インフラの整備の結果、「この表から分かるように、緻密な網の目のような経路が急速に成長しつつある。全国を網羅するその経路を通じて、あらゆる資本と貨幣収入が集中制御される。そして、数千万の分散した事業所が統合され、一国全体を包括する単一の資本主義的な事業体が出現する」(67頁)。「銀行はいかなる状況のもとでも、またいかなる国においても、資本の集中と独占体の形成が進行する勢いを何倍にも強め、速める。その際、銀行法の違いなどお構いなしである」(72頁)。

米国については、「集中化のプロセスが進んだ結果、資本主義経済全体を統率する立場に立とうとしている。それらの銀行の間では、独占協定(すなわち、銀行のトラスト化)に向けた動きがますますいちじるしく、かつ強くなろうとしている。アメリカでは、九大銀行ではなくて、モルガンおよびロックフェラーの二大銀行が110億マルク相当の資本を支配している」(79頁)。

ちなみにモルガン、ロックフェラーともにニューヨーク資本である。

この章のまとめとして「このようなわけで20世紀という時代は、在来型の資本主義から新型の資本主義への転換期となっている。この時期を過ぎると、資本一般に代わって金融資本が支配的な立場を占めるようになる」(92頁)。

第三章はこれを受けて金融資本の分析を行う。いくつか備忘録的なメモ。T.J.クラークの『絶対ブルジョア』においては、19世紀フランス社会を分析しながらusuryという単語が頻出していた気がするが、「資本主義は、取るに足らぬ高利貸しの資本を出発点として発達し始めた。そして現在では、金融で暴利をむさぼる巨大資本となっておのれの発達を完成させようとしている。(フランス人は、ヨーロッパを対象とする高利貸しである)とは、リジスの言である」(108頁)。「金融資本の業務の中で利益が非常に大きいものとしては、土地投機もある。投機の対象となっているのは、急成長する大都市の、近郊の土地である」(112頁)である。「金融資本の時代がやって来た。どこの国でも「アメリカ風の流儀」が、文字どおりあらゆる大都市を席捲している」(113頁)。

この最後の引用はヨーロッパで「アメリカニズム」と呼ばれたものは一面において金融資本だったことを窺わせる。また金融資本による土地投機は、この時代の巨大化・複合化の結果登場した「メトロポリス」というあり方が文字通り自己増殖していくメカニズムをよく示している、とも言える。

続く第四章の「資本輸出」と第五章および第六章の「世界の分割」はおそらくかつて読んだ時に印象に残った部分かもしれない(特記についてはマーカー部分を適宜参照/メモ)。

第七章は実質的な纏めの章である。「帝国主義の五つの特徴を含んだ定義をすればよいだろう。1、生産と資本の集中化が非常に高度な発展段階に到達し、その結果として、独占が成立していること。そして、そのような独占が経済活動において決定的な役割を果たしていること。2、銀行資本と産業資本が融合し、その「金融資本」を基盤として金融寡占体制が成立していること。3、商品輸出ではなくて資本輸出が格段に重要な意義を帯びていること。4、資本家の国際独占団体が形成され、世界を分割していること。5、資本主義列強が領土の分割を完了していること」(175頁)。

ついでに。歴史的経緯からすれば「福祉国家」も帝国から派生したもののように見えなくもない。

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2012年4月 8日 (日)

レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』鈴木圭介訳、ちくま学芸文庫 1999

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かの書の再読。

対象となるマンハッタングリッドの公理に、本書の構成自体が合わせられている。

マンハッタングリッドは全体として錯乱的であり、個々において妄想的あるいは分裂的であるというこの公理は、は終わりの方で、1・グリッド、2・ロボトミー、3・垂直分裂、としてあらためて公理化される。論ずる対象や条件に表現形式を揃えるというこうしたやり方はバーナード・チュミも行っていた。またマンハッタングリッド自体についてはマンフレッド・タフーリの先行研究がある。

あらためて錯乱、妄想、分裂症、死、夢、オートマティスム、ロボトミー、精神的外傷、臍の緒の切断、シュールレアリスム・・・と、精神分析関係の言葉の多さに目が行く。またグリッドは1970-80年代建築の大きなアジェンダで、アイゼンマンやチュミにも現れる。

グリッドに関して本書を読んでいると、超越的/超越論的、さらにラング/大文字の他者のようにも思えてくる。ただマンハッタンとグリッドの外部が一番目につくところに挿入されており、それがコニーアイランドである。ニューヨーク湾入口に位置するように、本書でもコニーアイランドは冒頭で述べられ、全体を先取/反照しているようにも見える。

ウォーレス・ハリソンやレイモンド・フッドらによるロックフェラーセンターについて、「ロックフェラーセンターは天才なしの傑作である」と、中間の章で著者は述べている。組織/集団による設計はこうしてみると都市のオートマティスムと捉えることもでき、「ビッグネス」の考えの端緒が窺えるようでもある。

ベンヤミンが近代について語ったことはこの点でメトロポリスについても当て嵌まると思える。個人は覚醒していながら集団として夢を見ている、というベンヤミンの謂いである。

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2012年4月 3日 (火)

Hugh Morrison LOUIS SULLIVAN, Prophet of Modern Architecture W.W.Norton and Company, New York・London,1935

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 1930年代に出版されたルイス・ヘンリー・サリバンについての古典的評伝。

 全体は8章からなり、1・生い立ち、2・初期作品、3・ザ・オーディトリアム、4・拡張期、5・摩天楼へ、6・孤独なサリバン、7・理論、8・評価、それにダンクマール・アドラーの伝記的素描が付記される。

 序文ではルイス・マンフォードの『褐色の時代(The Brown Decades)』での「サリバンはおそらくその精神において最初のアメリカの建築家である」という有名な一文が引かれ、この時代にサリバンの評価が方向付けられていたことを窺わせる。

 第一章の生い立ちは舞踏家だったアイルランド系の父親パトリックのロンドンから新大陸への移民から話が始まる。ルイス・ヘンリーは185693日生まれ、正式な洗礼は受けていないという。

 建築家を意識したのは12歳の頃、ボストンのコモンウェルズ・アベニューで威厳に満ちたある大男が近くの建物から馬車に乗るところに遭遇し、この誰か分からぬ男が建築家だったからという(5頁)。

 1872年にMITの学生時代に有名なボストン大火に遭遇している(11)。またウィリアム・ウェアによるMITの建築教育はボザール流であり、「ボザールの薄っぺらな反映に過ぎない」(12頁)と見做した彼はMITを中退し、本場に行くことを決意したという。MIT中退後、ニューヨークに立ち寄ってリチャード・モリス・ハントに面会し、叔父のいるフィラデルフィアへと向かい、そこで短期間だがフランク・ファーネスの事務所に勤務している。

 フィラデルフィアでは街を歩いて気になる建物を見つけ、それで設計事務所のドアを叩いたようだ(16頁)。その事務所がメイジャー・ウィリアム・ルバロン・ジェニーの事務所でサリバンはここに6ヵ月勤務し、またのちのメンターでもあり友人でもあるジョン・エーデルマンをはじめ、シカゴ方面の建築界への知遇を得ている。本書ではメイジャーはエコール・ポリテクニーク出身で技師であるとサリバンの記述そのままに書かれているが、メイジャーは実はハーバードからエコール・サントラール出身であり、彼を「技師」としたサリバンの意図的な過小評価を繰り返している(この点に関してはブレンダン・ギル『ライト仮面の生涯』参照)。

メイジャーは親切・温厚・寛大な人柄で、サリバン以外にも、マーティン・ローチ、ウィリアム・A.ホラバード、アービング・K.ポンド、ハワード・バン・ドレン・ショウ、ジェームズ・ギャンブル・ロジャース、アルフレッド・グランジャーといった建築家を育てた、という(17頁)。エーデルマンとは毎週日曜日にコンサートに出かけ、リヒャルト・ワーグナーがサリバンの最初の好みとなり、ワーグナーに全能性、自由な精神を見た、とされる(18頁)。

 ワーグナーの次に夢中になったのはミケランジェロで、これはボザール留学中である。ボザールではエミール・ボードレメーのアトリエに入り(22頁)、パリには2年滞在している(24)

 第二章はいわばシカゴ前史である。1880年までにシカゴと中西部の建築はどん底を経験した(30頁)。さらにシカゴ大火と湖畔の軟弱な地盤は耐火と基礎構造の実験の場となる。「ジョージ・H・ジョンソンの1872年のケンデルビルは最初の耐火中空タイル工法であり、バーナム+ルートの1880-81年のモントークビルは近代的手法による最初の耐火オフィスビルであり、全ての鉄骨が耐火被覆されていた。基礎の問題はフレドリック・ボーマンが1873年に開発した独立拡大型基礎によって部分的に解決された。バーナム+ルートは高層建築用基礎をさらに改善し、1884年にコンクリート中に鉄のグリルを埋め込んだ。一方でメイジャー・ウィリアム・ルバロンは1884年のホームインシュアランスビルにおける画期的な摩天楼の発明にいたる一連の鉄骨の実験を行っていた。

 シカゴは1873年の破壊から完全に回復し、建設ブームとなっていた。バーナム+ルート、バン・オスデル、ジェニー、ボイントンらが注文を多数抱え、街のループ部分は完全に変わりつつあった」(32)

 1880-81年のサリバンのラシッドストアビルについて「「垂直システム」はここではっきりしている。窓のマリオンは2階から頂上まで途切れることなく続く。床レベルは付柱(ピア)で記され、ただし装飾が付加される」(36)。「一つの線が成長して付柱上部で別の線に貫入して連続するのは注目すべき。このタイプの装飾は80年代前半のサリバンの建物のほとんどにあり、1884年以降は消滅する。その起源は8年前のジェニーの事務所でのジョン・エーデルマンとの交友にあり、パリからの帰国後に成熟する」「カルメット川への夏の戸外休暇を「ロータス・クラブ」と名づけた事から推察されるようにエーデルマンはエジプトにいささかロマンティックな嗜好を持っていた」「初期においてエーデルマンがサリバンに影響したのは殆ど疑いようがない」(37)

 (サウスワバッシュ・アベニューのデクスタービルは)リチャードソンの影響の痕跡はなく、次の10年にサリバンが展開する葉状装飾もない」「サリバンはここで初期の建物にあったエジプト風装飾を最終的に放棄し、商業オフィスビルの課題から直接出てくる新しい単純性や記念性を獲得する。明らかにこれに先立つ時代に手掛けた工場の設計での経験によってこの単純性に向かったとともに、しかし彼の考えの明確化やその建築的信条の形成にも影響されており、これは1885年か1886年にははっきりするだろうものである。現実の構造とロマンティックな装飾のあいだの摩擦は装飾の実質的な放棄によってここで消滅し、代わって純粋な構造記念性が起こってくる」(40)。「デクスタービルはこれまでの頂点でありかつ過去を清算して新しいものを表象している。それゆえサリバンの展開においても重要なモニュメントなのである」(41)。「1880年代の他のシカゴの建築家と同じく、アドラー+サリバンはオフィスと同じほどの多くの倉庫や工場の設計に関っている。この都市の拡張は商業だけでなく工業的でもあり、通常行われるように技師に対してだけでなくもっと上等な建築の設計を手掛ける建築家にも発注された」(41)

 「1891年のモナドノックビルのような構造はル・コルビュジエが思いつくはるか以前に「技師の美学」の夜明けを記した。モンゴメリー・シュイラーからポール・ブーゲットにいたる批評家が、真の近代的建築に向けたシカゴのニューヨークに対する先進性を述べた」(41)

 近代的な建築に向かうにあたって、工場や倉庫などの産業建築が大きな影響を与えたのはアルバート・カーンなどでも言及されるが、ここでもそれを確認することができる。

 さらに有名なザ・オーディトリアムの設計の前にアドラー+サリバンはいくつかの劇場建築、それも多くはリモデルを手掛けており、それはもっぱらアドラーの音響に対する知見のおかげで仕事の依頼があったこと、また当時音響工学という言葉がまだない時代、アドラーは兵役に服していた時期にユタ州のモルモン教の寺院に足繁く通って音響上の知見を得ていた事などが、アペンディックスで述べられている。

 いずれにしてもアドラー+サリバン事務所は劇場建築を多く手掛けており、その技術的側面は、あるいはその仕事の依頼はアドラーの技術によるところが大きく、そしてそれが最終的にはザ・オーディトリアムの成功に至ったことが続く記述によって分かる。

 「その最初のものは1880年のウィリアム・ボーデンのザ・グランドオペラハウスのリモデルだった」「アドラーが一般的なレイアウトを負っていたとはいえ、疑いなくサリバンはデザインの多くをなしていた」(43)。このオペラハウスの杮落としは大成功を収めたようだ。演目にはワーグナーの『ローエングリン』が見える。

装飾について「サリバンの装飾使用は彼の世代の美学的条件に大きく負っている。彼の建築の全経験は装飾は何か建物に適用するものであって、それをピクチャレスクに見せたり高価に見せるためのものではないというものだった。彼はこのことを決して忘れなかった」(53頁)。

 ザ・オーディトリアムはアドラー+サリバンにとっても、シカゴにとっても、そして建築・都市史上においても画期的なものだった。建築家の経歴を画期するものがその都市にとっても、そして建築史にとっても画期的というのは何とも幸福なことではなかろうか。

 「話は古い博覧会建物でのオペラホールに遡る。1885年のオペラフェスティバルの大成功はスポンサーに火をつけた。フェルディナンド・W.ペックである。彼は恒久施設としての大オペラハウスを構想した」(61)。ペック提督はさらに建物の「文化的」部分に、全体を維持するに必要な収益をあげる為の商業的部分を付加する事を思いついた。それゆえコンセプトは劇場の周りを覆うホテルやオフィスまで拡大され、かつ全部を統一組織で統御するものとされた。この考えはよく整理された上で1886529日のコマーシャルクラブで提案され、シカゴオーディトリアム・アソシエーションが組織された。200万ドルの株券と90万ドルの債券が発行され、約300人が債権者となった」「ペックは博覧会オペラハウスの成功からアドラーを信頼し、1886年晩夏にアドラー+サリバン事務所にこの大構造物の依頼が持ち込まれることになった」(62)。一つの構造体を文化的非収益部門と商業的収益部門による複合大型都市施設として計画するというのは、おそらくこのオーディトリアムビルが初めてではなかろうか。ホテルには宴会部門がさらに付加され、予算は300万ドルに跳ね上がり、基礎工事が始まっても変更が繰り返された、とある。

 小さな変更と異なり、決定的な変更はリチャードソンの影響、とりわけ1887年に竣工したマーシャルフィールズ商会ビルの影響だったという。以下本書ではマーシャルフィールズとザ・オーディトリアム(1886-1890)の影響関係と異同に頁が割かれていく(これに関する記述は64頁から、また69頁の記述、「デザインはリチャードソンのマーシャルフィールズに極めて近い。高部のアーチ下に4層を纏め、続く2層を小アーチに纏め、頂部では小さな方形窓を使用する点など」)。また66頁からはこの巨大構造体を建設するに当たっての構造の問題に頁が割かれていく。

 72頁からは各部の描写と分析に頁が割かれる。「レストランの長いバーの装飾は特筆に価する。木の曲線やくり型を付けられたプラスターの形態は全く新しい建築装飾で、伝統的形態やプロポーションに対するサリバンの反逆を示し、新しい語彙開発の彼の豊穣さをも示している」「ホテルのパブリック部分で最上の部屋は疑いなく10階の大ダイニングホールで、これはミシガンアベニュー前面に渡って走っており、湖畔公園の大ガラスから見下ろす素晴らしい眺望を与えている」(72)。「その存在理由(raison d`etre)であり、最も顕著な建築的業績は大劇場である。物理的にも精神的にもこれが建物の中心であり、シカゴのオペラ愛好者の何世代もが「オーディトリアム」と呼んだのは建物全体ではなく、この劇場だった」(73)

 音響の技術的側面はアドラーが担当している。「アドラーはスコット・ラッセルの「同響曲線」に基づいて徐々に上昇する曲線をデザインした。結果、舞台からの音響はフロア全体に行き渡る」(74)。この音響仕様を設計するにあたり、アドラーはヨーロッパを視察している(80)

 オーディトリアムでの成功を基に事務所はさらに拡大していく。アドラーとサリバンが事務所を割るのは、1990年代の経済恐々から来た仕事の激減だったようだ。結果としてアドラーは一旦事務所をたたんでいる。

 メモ的に「1880年代後半のサリバンにリチャードソンの影響が顕著なのではオーディトリアムビルだけではない。スタンダードクラブやヒース邸にも明らかで、両者はオーディトリアム竣工前に完成している」(87)。この拡張期の主な作品は、ウォーカー倉庫、マックビッカー劇場、ウェインライトビル、3つの墳墓、それに黄金の門。これらについてシュイラーは批判的だったという(108)

 摩天楼について述べた章の冒頭では、摩天楼前史がまず述べられる。最初は1874年、リチャード・モリス・ハントのニューヨーク・トリビューンビルで、これは昇降機付の初期のビルの一つだったという(111)。蒸気式昇降機は1850年以降次第に開発されてきていたが、1871年までオフィスビルに用いられることはなかった。水力式昇降機は1872年に特許がとられている。

 外皮を金属骨格に吊るす試みはウィリアム・ルバロン・ジェニーのホームインシュアランスビル(1884-85)が最初だったとされる(112頁)。シカゴの二番目の摩天楼はホラバード+ローチによるタコマビル(1887-88)。ニューヨーク最初の摩天楼はブラッドフォード・ギルバートによるタワービル(1889)

 ジェニーとバーナム+ルートそれぞれによるライタービル、ランドマクナリービルにおいて、鋼鉄が初めて一貫したものとして用いられた(1889)。そしてこれらの試みにもかかわらず、摩天楼のロジックはまだ認識されていなかった(112)

 アドラー+サリバンによる最初の摩天楼はウェインライトビル(1890-)である。「それまでに新しい工法が「シカゴ構法」として知られるようになっていた。19世紀中葉まで石造耐力壁構造は造られ、フレームに鋳鉄を用いるのは1904年まで完全に放棄されることはなかった」(112)

 ここから先、ウェインライトビルについて記述されていく。いくつかメモ的に。

200のオフィスがあり、基準階でのオフィスレンタブル比は53パーセント。これは今日(この書が書かれた当時)をときに凌ぐ高効率のプランニングだった。10階は大トイレと散髪屋に用いられ、スカイライトから陽が差し込むが、主にはスチーム暖房のための機械室に用いられた」(118)1896年に発表された「人工的に考慮された高層ビル」というサリバンの記事で、サリバンはこれを説明しているとされる。「ウェインライトビルの影響はいたるところにある。続く四半世紀のビルはその垂直線、分節されないファサード、基壇と頭部のあいだに一貫したシャフトとして置くやり方を踏襲した」(125頁)。

 このサリバンのデザインを公式化し、また古典建築の類比とする見方に著者は続く部分で批判的に述べる。

 ウェインライトの次に計画されるのがシラービルで、ウェインライト、シラー、そして未完に終わったユニオントラストビルの三つにおいて、アドラー+サリバンは摩天楼の扱いの基準に達したとされる」(137)

 アドラー+サリバンの最後の仕事であり、また同事務所の摩天楼の最後でもあるギャランティービル(バッファロー、1894-95)において、最初の摩天楼のウェインライトとの共通点が指摘される」(141頁、ついでにサリバンの「高層建築」の記事が登場するのは1896年の『リッピンコッツ』誌)。

 同ビルはアドラー+サリバンの最も豊穣な作品であり、また最後のものであったという。「18957月、アドラーは建築をやめ、別のビジネスに行くことを決める。当時アドラーは51歳、サリバンはほぼ39歳。事務所は14年続き、中西部における指導的位置を獲得していた。全部で100を超える1881年から1895までの建物デザインにもかかわらず、1890年代半ばには条件のよい案件はなかった。1893年に始まり世紀が終わるまで続いた不況は、事務所に深刻な影響を与えた」(143)

 アドラーは1900416日に没している。

 さて、いくつか当時の重要な雑誌。インランド・アーキテクト、リッピンコッツ。

 またサリバン晩年の悲惨な状況はしばしば述べられるが、実はサリバン単独でも質の高い仕事を多く残しており、代表作の一つであるカーソンピリースコット百貨店も、単独事務所となってからのものである。晩年の悲惨さを強調するのは、ライトとの対比を強調するという、のちの記述の問題もあるのではないか。またサリバンのヨーロッパへの影響については「特定のスタイルより、理論や哲学の問題であった」(168頁)。カーソンピリーと同時期のクレーンカンパニー・オフィスビルについて「コーニスを完全に放棄し、外壁は単にパラペットと笠石で終わっている。これは最もシンプルに達した建築で、次の10年に登場するドイツの産業建築を先取りする形態である」(171頁)。1905年にエリ・B.フェルセンタルのために設計したタペストリーレンガによる小さな商店建築は「サリバンの摩天楼時代の終焉を画し、摩天楼スタイルの創始者が余生に手掛けることになる郊外低層建物の最初のものだった」(171頁)

 「1895-1924年の死までサリバンの個人生活の全体は決して知られることはなかろう。『自伝』にはそのディテールはなく、彼を個人的に知っていた何人かから漏れてくるのみである」「『キンダーガーテンチャット』は1901-02年に渡って建築雑誌に連載された記事を単行本にしたものである」「彼の棚にあった本には壊疽手リックな関心を示している。日本や日本芸術に関する本が含まれている。さらにオリエンタルラグのコレクション、支那と日本の焼物、ブロンズ、それに翡翠彫刻など」「宝石や高価な石についての本もあり、これが彼の装飾のモティーフになったかもしれない」(191頁)。

 理論の小では再びマンフォードの引用。「サリバンは文明との関係で建築を考えた最初のアメリカの建築家である。リチャードソンもルートもいい嗅覚をしておりよい結果を残したが、サリバンは何が重要でどうすべきかを知っていた」(195)

いくつかメモ的に。

 「彼のものは建築の単なる理論でもまして哲学でもなかった。彼の書いたものは建築の宗教だった」(196頁)。サリバンが書いたものは「18の公刊された記事と宣言と、二冊の交換された書籍、6つの公刊されなかった手記」(196)

 「『キンダーガーテンチャット』はサリバン初の長い書き物だった。「チャッツ」はそれぞれ1-2頁の長さに及び、『ザ・インターステート・アーキテクト・アンド・ビルダー』に1901216日から190228日まで続いた。自らの考えを披露するにあたり、サリバンは想像上の教師と生徒を想定し、後者は「若く」よく教育され自信があり前途洋で、その心に師匠が種をまき建築芸術のコンセプトを育成するものと仮定された」(199)。これは編集者のクロード・ブラグドンによって纏められ、1934年にスクラブ・フラテニティから出版された(201)。「1908年からその死にいたるまでサリバンは何も書いておらず、疑いなく彼の人生の暗黒時代だった」(203)。「19234月、フランク・ロイド・ライトの作品についての記事を発表する。「東京の帝国ホテルについて」である。これは「関東大震災について」という記事の一年後である」(205)。この二つの記事においてサリバンは自分の生涯が無駄ではなかったという、新しい楽天主義を見せている」(206)

 装飾について「装飾は表現の微妙で優雅な側面である。建物基本形態が十分に表現的に造られたのち、創造の衝動は装飾へと移る。有機的で、それに適用されると言うよりそこから生成するものである。素材の本性を表現し、建物自身の根本的律動に参加する。ただし構造の精神を受容する何かとしてではなく、それとは異なる生成によってその精神を表現する」(219)

 評価の章は主に死後の扱いについてである。

 「1925年にアメリカの大建築史家フィスケ・キンボールの記事によって興味深い解釈が現れた。私の意見ではこの解釈は誤りだが、ただサリバンをその時代に真面目に位置付けようとした最初の試みだった」(225)

 続いて面白いのは、著者がサリバンを最後の19世紀人として位置付け、その後のシカゴ博覧会でのボザールと古典主義の勝利を20世紀的なるものとして見做す関係について、論じていることである(この件はキンボールが論じているのか?)。

 「三つの論点がある。第一にサリバンの建築理論は本質的に科学的であり、彼は19世紀リアリズムの芸術家の一群に属していた。第二に、20世紀技術の主流は「純粋形態」による幾何学関係による抽象美学を探求してきた。第三に、マッキム・ミード+ホワイトによる古典とルネサンス・リバイバルと世界コロンビア博覧会の建築は、この20世紀の本質的傾向の建築分野での最も特徴的な証拠として捉えられるかもしれない。

 19世紀芸術の特質はここで詳述できないが、ただ科学によって支配されていたとは言えるだろう。19世紀は「理性の時代」の限界に意識的であり、新しい方向にリアリティを模索していた。科学とロマン主義は対立しているように見えるかもしれないが、この探求の二つの側面に過ぎない。同じコインの表裏のようなものである」(227)

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2012年2月15日 (水)

Siegfried Giedion, Building in France, Building in Iron, Building in Ferroconcrete, introduction by Soktatelis Georgiadis, translation by J.Duncan Berry, The Getty Center for the History of Art and the Humanities, 1995

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『デル・チチェローネ』誌に連載され、1928年に初版されたギーディオンの有名な書の英語での再版である。近代建築史では必読書の類ではあるかもしれない。書名通り、フランス、それも主として19世紀から20世紀初頭にかけての鉄と鉄筋コンクリート構法について、ギーディオン独特の筆でまとめたものである。

最初の方で、西洋における建築概念が石という素材に結びつき、かつこの概念とこの素材が持つ永続性という考えが一瞥されたあと、鉄の普及がそうした伝統的概念に与えた衝撃について触れられる。「石」とか「永続性」で思い浮かぶのは「墓」であり、アドルフ・ロースの有名な「森の中の墓」の喩えを持ち出すべくもなく、伝統的な建築がこの点で実は「死の欲動」と結びついていたとすると、劈頭において著者が建築に置く基本価値の源は「LIFE」である。広い意味ではこれも人間主義の範疇にあると言えるが、LIFEという価値から始まる近代の建築が究極において見出すのは、造形でも空間でもなく、あるいは造形や空間がその方便であるものとしての「AIR」であると、あるところで明白に述べられている。

いずれにしても冒頭は「構法」と「工業(産業)」の章から始まる。

個人生産から集団生産へ、工芸生産から機械生産への移行を条件付けたのは産業化(工業化)であり、これによりそれまでのギルドが解体し、自由競争が始まったとされ、それはまたフランス大革命において始まったと述べられる。さらにこのことを明言したのはサン・シモンであったという。「社会全体が産業に拠っている」(サン・シモン)。

工業化と構法の変化による建築の変化、LIFEとAIRの建築について「1世紀前に構法と産業に向かっていた見えざる力は、今は住宅に向かっている。今日の内的態度は住宅を要求する。重力の超克。軽いプロポーション、空気の軽やかな流れ。まず前世紀の構法が抽象的方法で示され、そして一般的なLIFEのプロセスに一致するところまで来た」(93頁)。

建設者の章では、アナトール・ド・ボー(『テクトニック・カルチャー』にも登場する)の強い主張が繰り返されるが、ド・ボーの1880年代の主張が、1920年代のル・コルビュジエにおいてほとんどそのまま主張されているのを見る。

さて(鋳)鉄である。

19世紀フランス建築の両極として、ボザールとポリテクニークが措定される。ボザールはナポレオンによって設立され、それゆえアンシャン・レジーム期の機関を復活させるものとなったという。他方、ポリテクニークにはガスパール・モンジュ、ジョセフ=ルイ・ラグランジュといった大数学者や物理学者、サンシモン主義者が集まり、7月革命の原動力の一つになったという。

19世紀フランスの建築雑誌を通して見られるのは、「1、(ボザールかポリテクニークか)どちらの線に沿って教育するべきか、2、技師と建築家の関係は何か? その権利はどう分配するか? あるいは一体のものか?」(100頁)だったという。他の全ての議論は二次的だったという。

石と鉄、ボザールとポリテクニークという両極を措定した場合、後者は前者を前提とした建築からの逸脱を示したことだろう。鉄によって「壁は透明なガラスのスキンとなり、耐力壁をデザインすることは耐えられない茶番となる。これは新しい設計法則にいたる」(101頁)。「素材をいくつかの点へと凝縮することでかつて知られなかった透明性が現れる。他の物への宙吊りされた関係、エアロスペースの創造、オクターヴ・ミルボーが1889年に既に認識していたdes combinaison aeriennesである。(エッフェル塔のような)高い構造体の中を通り抜けるような、浮遊するエアロスペースに包まれるこの感覚は、飛行が実現される前に既にその概念を先取している。まさに新しい建築の形成を刺激した飛行の概念。表層的な形態派生ではなく、内的法則によるものである」(102頁)。

続いて19世紀フランスにおける鋳鉄建築が概観されていく。まずはラブルーストのサント・ジュヌヴィエーヴである。これも『テクトニック・カルチャー』で詳述されたものである。ここではラブルーストのよく言われる考えについて。「アカデミーの学生は古代ディテールの美しいドローイングを描くが、彼らは建物の内的有機性を完全に見落としている。「芸術的観点から見た最良の建物は、最も簡素で最も真実に満ちそして最も合理的に建てられたものである」ことをラブルーストは看取した。彼は新たな可能性によって与えられた構法の意味を最初に拡げて見せた。構法の本質は石工や鍵屋の孤立した工芸ディテールのスタディにあるのではなく、建物のそれぞれの部分の相互性に見出されることを」(106頁)。

こののち鋳鉄とガラスの建築は、市場や駅舎やデパート等において急速に普及していく。ルイス・マンフォードが『都市の文化』において酷評していたガレ・デュ・ノルドのような駅舎建築を高く評価しているあたりは興味深かろう。

鋳鉄とガラスの建築の集大成かつ完成形と著者が見做すのは、1889年パリ万国博における機械館(The Palais des Machines/Galerie des Machines)である。建築家はシャルル=ルイ=フェルディナン・デュテール、また建設者が鉄筋コンクリートの開発で名前が出てくるコッタンサンであるのは興味深い。スパン115m、高さ45m、長手方向420mのこの大構造物を著者は絶賛する。とりわけ断面形における鋳鉄のアーチとピン接合の構造形を絶賛する。長くなるが引用してみる。「各部材はホール頂部でボルトで固定される。ヒンジ接合。下では大梁は次第に細くなっていき、地面にほとんど接していないかのようである」「石や木の構法と反対に充填材はない。これらトラスは極めて軽いがそれと言うのも鋼鉄フレームがこれほどの規模で使われた最初のものだからである」「柱は残滓さえない。支持と荷重が一体化し、分ける事は不可能である」「これは我々のカリアティードの象徴である。古代の威厳によってでもバロックの威光によってでもなく荷重を支えている。力との一体化。下に向かって細くなる大梁の先端は最早剛接合ではなく、動く。重さとともに120,000キロの水平スラストを、ヒンジジョイントを通して地面に直接伝達する。この支持構造で応力なしに基礎の動きさえ起こる。あらゆる点の力を制御するこれが唯一の方法である。

1878年のディオンのホールにはまだあった支持と荷重の分離は、ここでは抹消されている。鋳鉄スケルトンはその真実の形態を見出した。巨大な力が均衡しているが、支持と荷重のように剛ではなくほとんど浮遊しているかのようである。つねに変化する力に大胆に措定された均衡なのである。。。。」そして太い字体で「構法は表現となった」さらに太い字体で「構法は形態となった」と締めくくられる(142頁)。

鉄の構造体の最後にくるのはエッフェル塔である。世紀の変り目に登場したこの構造物は、ポリテクニークの勝利を謳っているかのうようでもある。

続いて鉄筋コンクリート構造について述べられる。まず鉄筋コンクリートの性質と、ジョセフ・モニエやフランソワ・エヌビックといった『テクトニック・カルチャー』にも登場する初期の歴史が概観される。鉄筋コンクリートは「自然界から単一素材として引き出せない。つまり人工的に構成されたものである。起源は研究室。細い鉄棒、セメント、砂、砂利、「集合体」からなり、漠然とした複合体が、これほどの耐火性能と耐荷重性能をもった自然素材はかつてないとほどの、単一のモノリスへと突然結晶化する」(151頁)。

鉄筋コンクリートの開発についてその計算と施工の方法の開発について述べたあたりに目が行く。「エヌビックは天井、小梁、柱を連続した単位に繋げることに成功した。モノリスとしての建物が可能となった。独立した鋳鉄柱は鉄筋コンクリートの支柱に変わった」「さらに最近では、木構法の残滓であった小梁の消去に成功した。大梁のない天井!」(150-151頁)。

鉄筋コンクリートについてまずオーギュト・ペレ(とトニー・ガルニエ)について述べられる。有名なフランクリン街の住宅の描写を引用する。「深く後退したり張り出している。剥き出しの角柱で片持ちの6層が吊られ、ファサード全体が運動している」(154頁)。続くポンチュ通りのガレージでも、シャンゼリゼ劇場でもそうだが、著者の評価は薄いコンクリートや、構造体があたかも吊られたものであることなど、さらにフレーム構造ゆえの空洞性などにある。ペレの建築は基本的に鉄筋コンクリートをフレーム体、篭構造として扱うものだった。木構法の残滓とも言えるし『テクトニック・カルチャー』の記述では、耐力壁構造に対してフレーム構造に高貴な含みがあることが示唆されていた。ただこれとは別に、シカゴフレームが鋳鉄による篭フレームであったことを考えると、初期鉄筋コンクリート造におけるフレーム構造のあり方は今一度吟味されてもいいかもしれない。

終章は、鉄筋コンクリートと主としてル・コルビュジエについてである。著者とル・コルビュジエの関係からして、ここではわざわざ記さない。

さて、本書にはソクラティス・ゲオルギアディスによる序文がついている。主に19世紀ドイツ系の建築論、とくに鉄が登場して以降の様式と形態と構法関係の諸理論についてである。ゴットフリート・ゼンパーの建築論に対してカール・ベティヒャーの建築論がまず対比的に示され、そこから話が進んでいく。個人的に興味深いのは、アルバート・ホフマンらによる「線の美」という概念。これは建築家の美に対して技師と技術に出自する美学として示されるが、この鉄材の直線による美には、ウェブとフランジの構成とか断面二次モーメントとかの断面形もおそらく関係しているだろうし、その点では当時可能であった構造上の計算方法にも関係しているであろうし、製造方法とも関係しているであろうし、さらには柱梁構造の先行体である木構造によって形成された美学にも、実はあるいは関係しているのかもしれない。

もう一点、19世紀末欧米に対する当時の日本の影響である。コーネリウス・グーリットが1890年代、ゼンパーとベティヒャーの論をある程度肯定しつつも拒否し、持ち出すのが「日本」である。

「グーリットにとって新しいパラダイムは日本芸術だった。その形態は利便性の法則から単に引き出され、抗いがたく芸術的である。さらに象徴的意味を伝えている。これによってこそ「技師によって発明された」形態を芸術の領域にグーリットが言わば統合したものである」「当然、この説明はかつてのベティヒャーやその「科学的芸術」の主張者達への批判と矛盾を来たす。グーリットは語る美についてこう譲歩はする。数学的計算による純生産物ではある。そうだとしてこう言えるだろう。グーリットの貢献は当時の議論となりつつあった新しいある理念に典型的なものであると。「利便性」「ザッハリッヒカイト」、それに「合目的性」というマジカル・ワード、さらにこれらの言葉の含み一切の議論の、土壌を形成したことにあるのだと」(24-25頁)。

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2012年1月23日 (月)

パトリック・ゲデス『進化する都市』西村一朗他訳、鹿島出版会、1982

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原書は今日から約100年前に書かれ、「都市計画」の教科書の一つとされてきた。書名はハーバート・スペンサーの影響を連想させるが、スペンサーの名前は後ろの方でオーギュスト・コントとともに触れられるに留まる。

いくつかメモ的に。

著者の考えでは都市研究の始祖は古代ギリシアのアリストテレスとされ、アリストテレスは163の都市を比較し都市構成を比較しただけでなく、概括的に都市を見ることを主張したという(37頁)。

有名なコナベーション概念が本書において初めて登場するのは第2章においてで、大ロンドンに関してである(55頁)

8章ではイギリス、フランス、アメリカ、ドイツの都市の状況について概観される。アメリカとドイツの都市、および都市技術についての記述が面白い。続く第10章はそのドイツについて「ドイツ的組織化とその教訓」として述べられ、最後のところで再度イギリスの課題に戻ってくる。

11章ではイギリスの植民地都市についても一瞥が与えられる。「たとえばニューデリーは大英帝国的な手法において単にキャンベラを大きくしたものにすぎない」「かつて都市計画は帝国の政策の一部であったことを思い出しておくのは良いことであろう。都市計画は全体としては、ローマ帝国から近代のパリに至るまで、また現代としてはホワイトホールからニューデリーに至るまで支配者や国家の偉大なる力と栄光の表現であったが、いつまでもこんなことに限定される問題ではない。都市や町に住む人々は「われわれが入るのはどこ、そしていつ」という質問を素朴な直接さでもって、増やし続けているに違いない。イギリス本国においては、それに対し、住宅供給-旧技術ではなく新技術によるもの―が主要部分をなす解答が現れ始めている」(220頁)。

著者が本書において主張しているものの一つが「市政学」である。第13章は「都市計画の教育と市政学の必要性」と題し、この「市政学」を主張する。「都市計画教育は、これまで建築教育に悪影響を及ぼしてきたあまりにも形式的で技術的な訓練に陥ることのないようにしなければならない。ではどうしたらこれを確かなものにできるだろうか。方法は一つしかない。すなわち、都市の生命や作用にまで触れた生気に満ちた教育を行うこと、一言で言えば、市政学の研究によってなしうるのである。建築は常に正当にも芸術を規制すると主張してきたが、今や一転して都市計画が建築を規制するものであると主張している。もし、そうならば、都市計画を規制し教育するものとして、今度は市政学をさらに主張することを避けたり、逃れたりすることはできない」(263頁)。

同じ章におけるオスマンのパリ計画についての総括は興味深いので、少し長いがそのまま引用する。

「当初はすべてが完全にみえ、すべてが成功だった。ナポレオンとオスマンが夢み、計画し、努力したものはすべて実を結び、最上の予想をも上回るものだった。人口の流入・増加とともに先例のないほど熟練・非熟練の別なく労働に対する需要があり、しかも雇用の調和がとれていた―たとえば地主にとっては地代と地価が上昇して栄え、市の増大する予算につれて税金も増えていった。そしてそれは新しい公共事業や安定した給料をもらっている公務員の増加のために費やされた。政府は、両方をしながら、それでもなお陽気にやっていた。建物や建設事業で財産があっという間につくられ、土地の投機や金融においては概してそれ以上だった。そしてこれらの利得はあらゆる種類の贅沢な出費に―食物や酒に、召使いや馬車に、衣装に、宝石に、そして芸術品にどんどん消費された。その結果、フランス人や外国人にとってのパリの魅力がますます増大し、商店、ホテル、カフェ、劇場、寄席などさらに盛んになった。都市計画家がこれほど成功を収めたことはかつてなかったことである。その後、他の都市が他のすべてにも増してオスマンのすばらしい先例に従おうとしたことに何の不思議があろうか。

しかし、この大都市的発展のすべてが、いかに1870年から71年の瓦解と関係し、いかにしてコミューンに導かれたか。そして、そのために幕を閉じることになった悲劇的な混乱と容赦のない抑圧を準備することにいかに力を貸したかということは歴史の汚点であり論じ尽くされるどころかなお戒めとなるところである。

より日常的な成り行きに戻り、公衆衛生についてのべよう。埃っぽい並木道や風通しの悪い中心部の見かけは申し分ない中庭が庭園や遊び場と大がかりにとって代わり、どんなに子供や母親の健康を脅かし、人々の間に酒飲みや結核その他の害悪を蔓延させているかいうことを医師は指摘している。また経済学者は高価で贅沢な新しいアパートの家賃が高騰し、そのためにいかに家計の他の支出が抑えられ、多方面にわたって社会不満と不安定とが増大したか―とりわけ小っぽけな部屋の小さなアパートが一般化して、いかにパリ人の家族の限界を強制し、そのことが今度はフランスの力と成長の限界の実例となったかということを記録している」(270-271頁)。

同じ章の少しあとでは、ダブリンとエディンバラがこの時代、既に衰退しつつあったことが記されている。

さて最後に「都市の精神」と題された終わり近くの章から、これも長めに引用。

「我々はわれわれ自身いかにこの陰鬱な町が美と若さを持続して来たかを知っている。我々はいかにこの町が名誉の時代を生きてきたか、いかに友情の偉大な時代を過ごしたか、またいかに新たな犠牲と闘争を繰り返しつつ勝利に震え敗北に泣いてきたか、またいかに変化してやまぬ運命を担いつつ、より変化しやすい心情と勇気の中に世代世代を通じて辛苦を重ねて来たか知っている。イギリスやアメリカの繁栄している都市の集団を見るとき、我々はあまりにも容易に歴史的過去を忘れ、単に町を近年の工業と鉄道の発展の中にのみ考えているので、現在の町の形式がなお変化と流動の中にあるものなのにもかかわらず、原理的には終局の姿にあるものと考えるようになっている」(312頁)。

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2011年12月26日 (月)

ルイス・マンフォード『都市の文化』生田勉訳 鹿島出版会 1974

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原著は1938年の出版である。つまりニューディール時代に書かれている。訳者の生田勉によれば原書は戦後復興計画の指針の一つとなったといい、終章あたりではのちのWelfare-stateやケインズ体制の基本ともいえる記述が確かにある。

本書に先立って書かれた『技術と人間』における技術の発展段階におそらく対応したと思われる都市の発展段階に沿い、中世から20世紀にいたるまでの都市史とそれに続く展望として、全体は構成されている。

「保護と中世都市」と題された第一章は題名通り中世の都市を主に軍事と商業の観点から分析したものである。初期中世都市の郭内人口の8割は生産者、つまり定期市を開いたりする商人は都市間の存在であったという。また中世都市はその明確な外殻にもかかわらず必ずしも土地に固定していなかったという。「一般に信じられている印象とは逆に、静的どころかその反対であった。中世の初期の間に幾千という新しい都市の基盤がつくられたばかりでなく、すでに基礎のできた都市でも自然の環境として窮屈であるとか、位置が不便と感じられたときには、他の土地に移動した。その例としてリューベックは貿易と防衛の改良のために位置を変え、古セアラムは乗り棄てられ」た(57頁)。

生産者を多く抱え込んだ中世都市の「生産」が製造業とその外側の農奴による農業とすると、中世都市に構造的な変化をもたらしたのは、商業つまり貿易、それも国際貿易とその交通路の整備であったとされる。「15世紀から重要さを増してきた国際貿易は、手工業ギルドや城壁都市に固有の弱点につけ込んだ。第一の弱点は、ギルドや都市がいずれも地方的基盤にたつものであって、その城壁内で独占的支配をはたらかせるためには、その枠外の領域をも支配できることが不可欠であった」「しかし大体において、ギルドが権威を行使できたところは、城市の城壁内に実際に仕事をしにやってきた人たちだけにたいしてであった。ひとたび交通路が開け田舎が安全になると、都市はかえって無力になった」「ギルドがより排他的になるにつれて、除け者にされた人びとは、保護のない産業へと転じていった」「この大きくなりつつあった階級は生活水準の切り下げを助長し、資本主義産業独特の集団編成の型である自由労働者予備軍をつくりはじめた。もうひとつ別の因子は」「腕のある旅職人の移動性は職人が喰い物にされるのを救った」(66頁)。さらに「ギルドの持つ弱点のほかに、中世の都市政策の欠陥は、それがイタリアのある地方を除いて田舎地方のひろい地域を包括しえなかったことである。それは敵意にみちた大海中の一つの島でしかなかった」(67)

都市はそれゆえハンザ同盟やスワビア同盟のように連合を形成していく。中世風秩序から近代的秩序へと移行していくのはこの自治都市と田舎地方の統一で、その範例はスイスとオランダであるという。

第二章「宮廷・盛儀・首都」では著者がバロック都市と呼ぶ近世の都市について述べられる。著者の述べる「バロック」は美術史で言われるバロックでは必ずしもなく、時代的にはルネサンスから18世紀あたりまでで、大雑把に言ってスペクタクル性がその根本にあるようにも見える。

中世都市の構造の延長で見ると、大砲の登場は都市に大きな変化を強いた、とされる。「15世紀までは、防御が攻撃よりも優位にあった」「15世紀後期の新しい砲は、都市を弱みあるものにしたのである。都市は戦闘条件を敵と対等にせんがために、それまで専ら市民軍によって防衛されていた旧式の城壁を、この時からやめざるをえなかった」「普通の家屋をつくる石工が計画し建造したような簡単な石造の城壁ではなくて、いまや、膨大な工学技術の知識と莫大な費用を要する複雑な防御組織を生み出すことが必要であった」(85)。「旧式の都市はブロックとスクェアとに分かち、周囲を城壁でとり囲んだのに反して、新しい築城都市ははじめから城郭として計画され、都市の体はこの伸び縮みしない殻に合わせられた」(86)。かくして都市は一方において密集していく。人間が「都市外郭の土地から流れ込んでくるにつれて、都市内部の空地が急激に建て込みの状態に変わった」(86)

築城術に伴う変化に続いて起こるのが「資本主義が軍国主義的になった。資本主義は武力なしで有利に取引できなくなると、もっぱら国家の武力を頼りにした」(92)という変化である。そしてこれらの背後で起こっていたのは「空間を組み立てること、空間を連続的にすること、空間を量と時間に還元すること、極大の遠距離と極微の世界を取りいれて量の大小の限界を拡張すること、最後に運動を空間に結びつけること、これらはバロック精神の偉大な勝利の一つであった」(93)とされる。

軍事と交通とスペクタクル性との関係で述べるなら、アルベルティは道路を主道路と二次道路に分け、前者をviae militaresと名づけたという。つまり都市の主道路は軍事パレードというスペクタクルの場となったのであり、これはこののち長く続いたと言える。これに続いて馬車と主街路、消費の関係が分析される。章題にも窺われることだが、中世/キリスト教の都市組織の中心にあったのが教会とすれば、バロック都市の組織の中心にあるのは宮廷であろう。著者によればこの原理は基本的には20世紀まで続いたのであり、「成り上がりの実業家がまず貴族階級の真似をし、つづいて市民全体が相似た特権を都市全般に要求し始めた。いわゆる「民主主義」の興隆は、都市に関するかぎり、バロック秩序の拡張普及にほかなら」(139)ない。

第三章「非情なる産業都市」は産業革命後に登場する、モノカルチャー的な産業都市についてである。その典型的光景は「暗黒のとばりが石炭都市にひろがり、黒色がそれを支配していた。工場の煙突からは、黒煙がもうもうとうずまいていた。また町をすっぽりと切断することが多かった操車場は、有機体をずたずたに寸断し、煤と灰とをいたるところにばらまいた」(198)といったものである。都市の光景についてさらに続けられる。「建築風景だけでは「混沌状態」にはまだ足りないといわんばかりに、電信線の交叉、電車の架線柱、鉄道ガード、高架構築物、われ勝ちの広告物などが、ついに視覚的乱雑さを完璧にしたのであった」(207)。さらに「家の中では、それが醜悪な擬バロック式の彫刻の急増と心地よさの礼賛と結びついたのである。この現実主義的な時代は、手で触れる娯しみのために耳や目でする昔からの美点快楽をもすべて犠牲にしたように見え、ここでは美ではなくて「心地よさ」という新しい性格が要求された。枕の並んだトルコ椅子は、身体のあたるクッションには馬毛や毬毛のふかふかの褥をもってし、毛をつめ、いなつめこみ過ぎぐらいの超はりぼて式の椅子であった」(208)と述べられる。一方で「裸身は、ヴィクトリア式装飾では、非難の的であった。コナン・ドイルの初期の作品中の人物は、むきつけな何もない白壁の部屋におかれて気が変になるし、トルストイはヴィクトリア朝風に言えば寝室に「ひとつも調度がおかれていない」からというので、弟子たちから聖者と見なされたのであった。裸体は、たとえそれが彫像の形で示された場合にせよ、喧喧ごうごうたる非難をまきおこし、それと同じように、無装飾の裸の建築様式は「がさつ」に思われたばかりでなく、下品に見えた」(208)。「こうしていやったらしい装飾過多、おき場所違いの美術品、無目的な製作、装飾的汚濁の芸術、これが心地のよさと結びついたのであった」(208)

工業化時代がもたらした光景を言わば隠蔽するものとして、ピクチャレスクの美学とロマン主義も批判される。

こうした暗澹たる状況にもかかわらず、この時代の出来事で著者が高く評価するものがある。『The Brown Decades』でもそうだったが、鉄の登場である。この鉄の登場が都市や建築にもたらしたものは、著者の記述を読んでいると単に構法上の大きな変化というにとどまらず、建築の概念自体を根本から変えるほどのようだったように思えてくる。いわく「まったく新しい型の構成、つまり鉄のケージ(枠組)とカーテン・ウォールが出現した。これは古いアメリカの農家の郷土的な軸組と羽目板による構造方式を、巨大な旧技術期的な形態にうつしいれたものということができよう。こうして水晶宮のように、外壁は室内空間との単なる境目になり、建物そのものは外殻というより、強靭な皮膚で外が覆われて温度調節や交通循環の内臓器官を内にもつ骨組になった(216)。もっともヴィクトリア朝時代全体についてはこうした新しい材料や構法の使用をまったく知らないどころか誤った使用がなされたことが批判的に述べられている。

第四章「巨大都市の興亡」は文字通りメトロポリス論である。原書が書かれたのが1930年代のニューヨークだったことを考えれば、これはほぼ同時代の都市現象について書かれたものと言え、その印象を述べるならかなり的確なメトロポリス分析ではないかと思われる。大雑把に言って資本と労働の集中によって生成し、結果としてさらなる拡大を目指すというその構造分析などは、レーニンの『帝国主義論』で展開される論などをも髣髴させる。実際、本書ではレーニンの名前も二度ほど登場する。

マンフォードはパトリック・ゲデスに私淑していたと言われるが、都市史を世界史的な発展あるいは生成衰退として捉えるあり方は広義のヘーゲル主義のようでもあり、さらに本書の分析でも歴史的唯物論に近いものを感じなくもない。ゲデスを含めこのあたりは、再検討した方がよいのではなかろうか。

これら都市史が示されたあと続く三つの章では、文明の地域的構造、地域開発政策、新しい都市の社会的基礎、という自らの考えとニューディール時代下の開発政策のあり方、そして戦後のケインズ体制での指針となるものが示されていく。後二章では、ニューディールと戦後ケインズ体制は著者が巨大都市分析で批判的に示す「戦争」を挟んでいるとはいえ、実に滑らかに連続していたことを窺わせる。さらにそうした考えの基本にマンフォードの地域主義があったと言うのも特徴的である。

地域主義について述べられた章では、地域主義の起源が19世紀それもオーギュスト・コントと同時代であったことが示唆されているが、このあたりはあまり知られていないのではなかろうか。

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2011年11月 3日 (木)

“Towards Modern Architecture,” The Brown decades, A Study of the Arts in America 1865-1895, Lewis Mumford, Dover Publications, Inc., New York, 1931

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いわゆるアメリカンスタディーズである一書の中の一章。ジェームズ・オゴールマンによるThree American Architectsの元となった章と言っていい。リチャードソン、サリバン、ライト、という流れで明確に書かれ、かつ三者が米国の「国民的建築家」として位置づけられている。また本書の書名であるThe Brown Decadesは南北戦争終結後のアメリカンルネサンス前半を指しているが、その戦後と本書が書かれた「第一次大戦後」との重ね合わせも示唆されている。

冒頭はこの時代初期の、掉尾はこの時代直後の状況をうまく纏めている。米国の都市化は南北戦争終結とともに加速し、北部の都市部では地価が高騰、都市住居は小さくなりしまいには薄暗く換気の悪い部屋が並んでいく。いわゆるスラム化であるが、当時これは全く問題とされていなかったと言う。また共同住宅ではチョコレート色の砂岩でファサードを覆う一方、オフィスやデパートでは鋳鉄がモダニティと同義となったとされる。

19世紀中葉、鋳鉄とガラスによる建物が眩しく見えたことは想像に難くない。1848年にニューヨークにジェームズ・ボガーダスによって建てられた5階建のビルが、その嚆矢だった。ボガーダスはさらにこの構法を解説するパンフレットを作成さえしたという(50頁)。こののち1875年まで鋳鉄ファサードは一般的なものとなったが、ボガーダスがなした以上の改善は施されなかったという。著者はさらにボガーダスを同時代パリの市場建築の技師、ロンドンの水晶宮におけるパクストンと比肩している。また圧延加工された鉄材の梁はピーター・クーパーによるトレントンでの工場で1854年に最初に用いられたという。南北戦争前においてはいずれにせよ、来る工業化時代の建築が鉄を用いたものになることが漠然と語られていたに留まったとされる。「建築は1820年代以来下り坂だったが、1860年までに最低のものとなった。工業化社会と都市と建物の全ての新しい宣言の前で、「醜悪」という言葉は避けがたいものとなった」(51頁)。

何度か繰り返されることだが、近代建築(Modern Architecture)はこの時代(The Brown Decades)に起源(beginning)を持つとされる。オフィスや工場やホテルといった新しい都市の要求や可能性にいかに回答を与えるか、というところでヘンリー・ホブソン・リチャードソンが召喚される。

「リチャードソンは近代生活と総合的に向き合おうとしたアメリカの明らかに最初の建築家であり、ボストンとオルバニーの駅の設計を1881年に始めるや、すぐさま建築の新しい概念に向かった」(53頁)。「教会や学校をゴシック、公共建築をルネサンスとし、工場やオフィスや駅舎を美的観点を持ち合わせない技師や施工者に任せることは「ビクトリア朝時代の妥協」の一つだったが、リチャードソンはそれを拒否した」(53-54頁)。

「ルネサンス・デザインにあるような窓を反復単位と扱うことを放棄し、内部の展開の統合点とすることは、どの建築家よりおそらくリチャードソンに帰せられる。ファサードの純粋形態上の要請ではなく、内部の必要から窓をどこにどの大きさで配するか、ということである。シカゴのグレスナー邸ではL型隅部のファサードにおける窓を極小としたが、これは通りの埃や騒音を避けるためだった。図書館では書架に十分な光が供給されうまく扱われるようにした」(54頁)。「ハーバードのオースティンホールの窓で、彼は機能主義建築の標準を確立した」(54頁)。リチャードソンと同時代の建築家はセント・ゴーダン、ラファルジ、そしてリチャード・モリス・ハント、である(55頁)。

だが「リチャードソンは石造から鉄フレームへの移行がなされる前に亡くなった。その第一段階を超え、その力に満ちた男性的想像力を適用するには、彼の死は早すぎた」(59頁)。またM.M.W.900ブロードウェイビル(1886)とリチャードソンのジョン・H・プレイ・アンド・カンパニー・ビル(1886)の関係も言及される。

リチャードソンがシカゴ派に与えた影響から、シカゴ派へとここで話が移っていく。当時の批評家モンゴメリー・シュイラーの『アメリカの建築』では、最も優れた高層ビルはモナドノックビルであるとされたという。「彼は正しい」(61頁)。「シュイラーのモナドノックビルについての言葉はかくも的確でかくもノイエザッハリヒカイト一般に適用可能なのでそれを引用せねばなるまい。「単なる箱、単なる蜂の巣以上の何物でもなく単なる工場と見紛う」」「これは物自体を見ていると言わざると得ない」「極端な厳格性にもかかわらず、表現的かつ印象的なはっきりした建築作品を生産すること」(62)

二人のシカゴ派の建築家、ドレーク・アンド・ライトはエアチャンバと耐火被覆を持ったスチールの骨組構造に貢献し、ウィリアム・ル・バロン・ジェニーのホームインシュアランスビル(1885)で、これは明確に表現されたという。外壁は支持材に変わって互いに支持しあう耐火壁である(62頁)。

ミネソタの建築家L.H.バッフィントンは鉄骨骨組構造の特許を出願するが、却下されている。摩天楼と鉄骨骨組造も同じものではない(63頁)。

続いて召喚されるのがルイス・ヘンリー・サリバンである。「彼をアメリカ建築におけるホイットマンと呼べるかもしれない」(65頁)。「ホイットマン曰く、物語(romances)は最早必要ない。事実と歴史に語らせようではないか」(66)。「この頃までにサリバンとルートは時代の頂点に乗っていた」「1891年、ルートが逝去、そして95年にサリバンとアドラーは会社を割る。これが不運の始まり」(67頁)

「ルート同様、サリバンは高層オフィスビルを理論化し、セントルイスのウェインライトビル(1891)、バッファローのプルーデンシャルビル(1892)、シカゴのシラービル(1891)とゲージビル(1898)でそれを試みた。彼の分析を吟味してみよう「実践上の考慮」と1896年の『リッピンコッツマガジン』誌でサリバンは言う。「概してまず、地下はボイラーや様々なエンジン、つまり動力や熱源、照明その他の工場。第二に地上階はいわゆる店舗や銀行といった、大面積や大きな間隔、強力な光、自由なアクセスを必要とするその他のエスタブリッシュメントのために。第三に、階段ですぐにアクセスできる2階には、ガラスや大開口を持った素材による大きく分割したスペースとそれに対応する自由な構造を。第四に、この上部にはオフィスが積み重なる。これらオフィスは単なるコンパートメントからなる蜂の巣以上の何物でもない。第五に、最上部にはアティックが来る。最後に、地上階には主開口あるいはエントランスホールが来る」(68)。「それで高層オフィスビルの主たる性格は何か?即答すれば上昇性(lofty)である。この上昇性は芸術家気質にはスリリングな側面である」(69)。「サリバンは摩天楼の垂直性を強調した最初の建築家の一人である。ウェインライトビルでは必要ないにもかかわらず主柱のあいだに付柱を挿入することでこれを強調した」(69)

「鉄の篭構造はそれ自身では垂直構法システムとは関係ない。それはむしろ分節された立方体システムである」「垂直性を強調したい誘惑は付柱やマリオンの使用に至る。これは石造を示唆する一方、カーテンウォールはその薄い皮膜でプレイビルや900ブロードウェイで先取されるように構法を表現する。繰り返すなら、垂直線は下二層における連続した窓スペースと摩擦を起こすのである。故にサリバンの摩天楼では基壇部での水平強調は上部における垂直性の強調と対立する。結果、ウェインライトでのオーバーハングした笠木やプルーデンシャル頂部での奇妙な曲線は基壇、柱、柱頭という古典概念のようでもある」(69)

そして多くそう語られてきたのとは裏腹に、「サリバンにとって装飾は多く個人的領域に属していた」(70頁)と語られる。「彼の作品のほかのどの部分にもまして同時代と無関係であるなら、19世紀建築における「個人性」や「個性」の希求は崩壊の最後の段階にあったのであり、というのも建築は社会芸術であり、集団的に成就されねばならないものだからである。「個人性」は共通規則にはなり得ない。それは共通規則が確立した後の還元不能な残滓物に過ぎない」(70)

「ではサリバンの貢献とは何か?彼は都市/文明との関係を意識的に考えた最初のアメリカの建築家だった。リチャードソンもルートもこの点でいい嗅覚を持っており、実際効果的にそれを見せた。だがサリバンは自分のなすことを承知し、さらに重要なことはすべきことを承知していた。「一度悟れば」と彼は書く。大なり小なり不出来や出来の単なる芸術ではなく、それは社会的宣言であり、批評的な目でよく見え、よく見えなかった現象が輝きだすものである」(74)。「建築家の仕事は近代社会の諸力を組織し、建物の造形性と利便性という形で表現することで、それを人間のために馴致することであると見ていた」(74)。このあたりはマンフォードらしい評価と言うべきであろうか。

フランスに留学した経験のあるサリバンは「フランス思想の古典的ディシプリンを吸収し、ミシュレやホイットマンやテイヌやダーウィンや、こうしたロマン主義的科学的そして古典的衝動の混合によって、環境に作用する特別な力を得た」(75)。最終的に、「サリバンはリチャードソンとフランク・ロイド・ライトという二人の巨匠を繋いでいる。ライトの建築の展開とともに、この移行は完遂される。アメリカの近代建築が、まさにそこに生まれるのである」(75)として、ライトへと話が移行していく。

ライトとマンフォードの関係からして、ライトについての記述はここでは端折る。最後に、The Brown Decades後のことがいくつか言及されるのが興味深い。

近代建築はヨーロッパにおけるアジェンダを抹消して単なるスタイルとしてアメリカに「輸入」されたと記述されることがある。だがそれは一面に過ぎないし、事情はもっと複雑である。

最後に述べられるのはこの章が書かれた直前、20世紀における最初の20年におけるアメリカの状況についてである。この20年において建築は大きな変化の入口に立っていたと述べられる。「記念的建物や個人的構造は最早建築家の問題ではなくなっていた」「新しい方向がやってきた。都市と郊外の再生であり、全体へと統合する新しい共同性の展開である」(79)

そしてその具体的な試みとして述べられるのが、西海岸におけるアービング・ジョン・ギルとバーナード・メイベックの仕事である。思想的にもデザイン的にも、モダニストはもうそこまで来ていたのである。

そしてこれらのことが、The Brown Decadesに起源を持つことが再度確認される。

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«ブレンダン・ギル、『ライト仮面の生涯』、塚口眞佐子訳、学芸出版社、2009年