2016年4月18日 (月)

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2015年7月 7日 (火)

福田晴虔 『ブルネッレスキ』中央公論美術出版 2011

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少し寄り道して、学生時代に『パッラーディオ』の評伝を拝読して以来の福田氏の著作、にざっと目を通す。

  ドイツ美術史学では「(イタリア語の)クワトロチェント」と呼ばれる初期ルネサンスのブルネレスキについての著作。著者自身は「粗述」と呼ぶ本書の記述を個人的にあえてまとめてみるなら、G.C.アルガンのルネサンス史観やパノフスキーらの図像学、それにルネサンスとオカルティズムを関連付けた一頃の論考とはまた異なる視点からの論考と言えるだろうか。

「象徴形式としての遠近法」ではなく世界に(数学的)秩序を与えるものとしての(線)遠近法であり、それは建築自身についてもいえ、ドゥオーモの建設について述べながら「建築とは「空間に尺度を与えるための手段」であるということだったに違いない。明確な数学的秩序による空間を提示すること、それが最大の目標であったと考えられるのである。そして建築をそのような計測可能な空間としてとらえること、それこそが新しい「建築発見」の第一歩であった。この構築物の巨大さやそれを実現するための構築技術は、たといそれらが「建築発見」のための触媒の役割を果たし、またそれらが伝統的職人世界に風穴を開け、「建築家」という新たな社会的存在の出現を予告したのであったとしても、その新しい職能の自立にとっては、あくまでも外在的な条件の一つに過ぎない。そしてブルネッレスキとそれに続くこの時代の人々の努力は、この「発見」を手がかりとして、「建築的なるもの」、つまり建築家をして「建築家」たらしめるところの技術の独自性を求めて、さらなる探求へと向けられることとなるのである」(38頁)と述べられている、その少し前にはブルネレスキが職人世界のアウトサイダーであったことも述べられる。

同じく後ろの方では、教会権力から世俗権力への移行にともない、パラッツォやヴィラという個人の邸宅が登場し、そこにおいて個人の富を象徴するものとしてあったdecorum(装飾)にはブルネレスキはさして興味がなかったこと、もっぱら空間のいわばorderにこそ興味があり、なおかつ社会における教会権力から世俗権力へのヘゲモニーの移行自身は必ずしもルネサンスについて言われる(ネオ・)プラトニズム的世界観とは一致していなかったことなども、述べられる。「住宅建築を通じて自らの権威を示すことに入れあげていた当時の有力な市民たちの思惑をよそに、ブルネッレスキはもっぱら抽象的な建築空間の自律的システム構築に取り組んでいたらしいということであり、エピゴーネンたちがブルネッレスキのつくりあげたそのシステムの上に様々な“decorum”を施し、「パラッツォ」らしさのタイプ創出に努めていることには、ほとんど無関心であったように見えることである」(167頁)。

他方では著者の世代をあえて勘案するなら、コーリン・ロウの「理想的ヴィラの数学」や、いわばアイゼンマン的な潜在的なミニマリズムやコンセプチュアルアートとの関係をいささか彷彿しなくもなく、そしてそのロウのシカゴ・フレーム論は他方では、意外にもフランク・ロイド・ライトを擁護しているようにも読めることに、思いがいかなくもない。

あえて述べるなら、G.C.アルガンについて述べながら「ルネサンス=人文主義=古典復興=ネオプラトニズム=透視図法といった様々な諸概念が、いわば網の目状に結びついてかたちづくられた文化構造の認識であり、互いに強固に結びつき切り離すことができない」(70頁)に対する、ブルネレスキの固有性(あるいは内面性と言ってもいいかもしれないし、亀裂と言ってもいいかもしれない)の記述や、そこから建築史を捉え直すことに可能性が見出せるかもしれない。たとえばルイス・マンフォードの『都市の文化』は唯物史観的なグランドストーリーとしてはその記述はグランドストーリーとしては勿論そうなのだが、そこからの亀裂(タフーリ)というのも、建築史学の醍醐味の一つではあるだろう。

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2015年6月15日 (月)

レオン・バッティスタ・アルベルティ『芸術論(新装普及版)』中央公論美術出版、2011

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少し寄り道してアルベルティの『芸術論』にざっと目を通す。劈頭の「彫刻論」が主論、末尾に建築の5オーダーについての論が収録され、アルベルティの生い立ち他の解説が途中に挿入される。

 『絵画論』ではhistoriaや三角形の相似を用いた線遠近法などが論じられていたが、本書の「彫刻論」では人体彫刻の作成に際して、いかに(理想的な)人体を測定し得るか、その道具や測定方法がおもに述べられている。

http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090301 の冒頭部分でも示唆されていたこと(「また遠近法から土地台帳にいたる表象システム、つまり世界像の時代の到来)について。この時代の特色つまり、二次元や三次元のものを測定するさまざまな道具や方法が試された時代であること、言いかえるなら測量術が精密化された時代であったことをもって、まずこの時代について述べ得る。絵画における線遠近法や彫刻における三次元物体測定法からはじまり、土地の測量術にいたって私有財産制を基礎付けていったとも、また述べ得るであろう。

アルベルティの人物像については、不遇な生い立ちや孤独な側面(それがルネサンス的内面性とも関連している)についても述べられ、これがアンソニー・グラフトンが批判的に述べた、ブルクハルトに対してタフーリが論じようとした側面なのかどうかhttp://d.hatena.ne.jp/madhutter/200808

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2015年6月10日 (水)

8 Commercial Work,1869-80、9 Noncommercial Work,1880-95

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ジェニー評伝の続き。

第一ライタービルが出てくる。コマーシャルビルとはつまり収益物件のことであり、歴史的には古代から多少はあったものの、18世紀後半から19世紀にかけて、つまり資本主義の発達と都市化の進行とともに前面化してくる構築物である。その典型の一つがオフィスビルであり、キャス・ギルバートの「建築とは地代を稼ぐ機械である」という箴言へと、これは向かっていく。

それゆえオフィスビルとは19世紀における最も重要な挑戦の一つであり、その機能的要求にくわえ、資本投資を表象していた、という。投資家は当然、賃貸であれ売買であれ、オフォスビルからの収益を期待する。そしてその要件のなかには構法や機能的平面、光、耐久性や耐火性能が含まれてくるのである(157頁)。近代建築とは、資本主義のなかから生まれてきたものだったと言えるだろうか。

そして鉄骨フレームに耐火性能を与えるのがテラコッタ・タイルであり、この工法はシカゴから始まり、ジェニーはその最初期の建築家の一人であり、事務所の最初のパートナーであったサンフォード・ロアリングはのちにテラコッタ・タイルの製造者となる(158頁)。

この時点で鉄骨システムが最も発展していたのはフランスであり、ジェニーはサントラール留学中に「パリ・システム」に遭遇している。シカゴ・システムはいわばその発展形である(159頁)。

以下、耐火の観点からみた床構造について述べられていく。

「大火後、ジェニーの仕事は1872年のメイソン・ビルに見られるように、さらに実験的になっていく。この年のシカゴの収益物件のなかでは最も輝かしいものであり、リチャード・モリス・ハントのニューヨークのロジッター邸(1857)に類比的である。彼らはともに啓蒙されていない人達に対し、ファサードが単なる石積の表面以上のものであることを示したのである。ハントもモリスもともににフランス留学組の第一世代であるゆえ、アカデミズムの三分割手法がそれらの建物にともに見られるのは驚くに値しない」(166頁)。1872年に始まったザ・ポートランド・ブロックは建築史にジェニーを登場させた。ルイス・サリヴァンが1873年にシカゴを訪れた時に感動したのはこの建物だったからである」(166頁)。

「批評家はもともとザ・ポートランド・ブロックを好意的に見ていなかった。というのも普通なら石を使うところに圧縮煉瓦を用いていたからである。大気汚染が進む都市の壁には煉瓦が相応しいと彼は考えたに違いない。圧縮煉瓦は1871年にフィラデルフィアからシカゴにもたらされたが、全面的に受容されたわけではなかった」「この形式に関していくつかの面白い事実がある。まず、ジェニーのパトロンであるボストンのピーター・C.ブルックスらである。彼らはバーナム+ルートによるザ・モントーク・ブロック(1881)、ザ・モナドノック・ブロック(1891)の二つを建てているが、すでに述べたようにモントークはシカゴで最初にガルシン=ルー・フレール扁平中空タイルを用いた例なのである」(169頁)、「これらの革新はブルックスのパトロネージの革新的性質を示している。だがザ・ポートランド・ブロックでより重要なものは、彼の姿勢である。カール・コンディットはパトロンと建築家のやりとりに洞察を加えることで、ブルックスの考えを分析している。ブルックスは記念的であるとともに機能的な建物を欲していたのである。」「それゆえ疑いなくブルックスはジェニーに指示を送っており、石の代わりに圧縮煉瓦を用いるよう促したのは彼であったかもしれない」(169-170頁)。

続いて第一ライタービルについて。

「リーヴァイ・Z.ライターは祖先のオランダ系カルヴィニストが18世紀に入植したメリーランド州ライターズバーグからシカゴへと、1854年に移民してきた。1865年までにマーシャル・フィールドの乾物買い付けビジネス上のパートナーとなり、1881年にこの職を退いたあと、ピーター・ブルックスやホルメス・エステートと同じく、同時代人を驚かせる建築家やそのパトロン達の一員となる」(177頁)。

第一ライタービルは1972年に解体される(同)。→シカゴ美術館のアーカイヴ資料。

第一ライタービルはメタルフレーム構造の最初期の建物と見なされがちだが、実は混構造であったことが述べられる。

「ジェニーの創意は鉄柱を外壁付柱と組み合わせることにあった。マンディーの描写では建物西側壁に沈み込ませ、同様に東側壁の付柱へと沈み込ませることにあった。地階から屋根まで伸び、内部の鉄と木構造の全荷重を受けているようである。ランドールの描写では壁と付柱(少なくとも西側と東側では)は、床荷重をまったく受けていない。これらの革新のおかげでジェニーはウェル通りとモンロー通りのファサードをかつてないほどに開放的にすることができ、それゆえスケルトン構造のへのアプローチを拓いたのである。

(だが)チャールズ・E.グレガーソンはHABSで第一ライタービルを研究したが、マンディーやランドールとは異なる結論にいたっている」(180頁)。

「通り、つまりウェルズ通の軸は最も重要で、それというのも主大梁を支えているからである。床面積をさらに絞り出すことにくわえ、外光をより採り入れることを試みている。比較的薄い付柱にもうすこし余分なふかしが必要なことをジェニーは感じていたに相違ない。それゆえ一連の鉄柱でそれを支え、鉄柱は壁や付柱のなかへ沈み込まされている。

段々に後退する内壁と付柱は一般的な方法だが、鉄のリンテルとの混用(フレームではなくファサードにおいて)、また鉄柱の補強という使用はそうではなかった。屋根と上二層の荷重は柱に吸収され、下部の柱と石の付柱に伝達される。同じ原理が下階でも繰り返される。ジェニーはそれゆえランドールの描写に入ってくる。彼は単純にそれまで実現されなかった点に入ったのである。

この構造的な解法はマンディーが述べるように独創的なものなのか? そうではないように見える。むしろ彼は自ら受けた教育に追いつき、おそらく同時代の建設文献の知識に追いついたのである。

鉄と石造を組合わせの似たような方法は1855年パリ万博の産業館でも見られる。サントラールでのマリーの講義は、しかしながら彼に明快な解法を授けたのだった。マリーの穀物倉庫の描写がそうであり、第一ライタービルの構造をこれはきわめて近く先取している。

マリーの倉庫の外壁は石造であり、内部は木造であったが、それというのもヴォールトの石造内部の水分凝縮は、穀物にとって有害だったからである。腐敗を防ぐために内部の自由な空気の流れが必要で、それゆえ開口は大きくとられねばならなかった。内部構造の床と柱は穀物の荷重を支えた。ただ外壁の付柱と床の接合部はまた異なる問題を孕んでいた。穀物倉庫の崩壊はしばしばここから始まったのである。」「マリーは各床の下部で柱が石造に結合されることを提案した」「既存技術の採用において巧みであったものの、第一ライタービルはその構法においてそれゆえ本質的に保守的だったのである。ジェニーは煉瓦や中空アーチタイルや鉄の小梁の使用を避け、彼が若いころにみたニューイングランドの遅燃性構法を採用したからである。ヴァン・オズデルのケンダールほどの進んだ建物をなぜ彼が創れなかったのかを考え得るだろう。

ジェニーの第一の関心は光にあったのであり、それは高い賃料を稼ぐためのこれが真っ先の要件だったからである。そうだとすると、当時の耐火方法は彼の特殊な要求には不十分だったのである。P.B.ライトが述べたように、中空アーチタイルの生産において米国がフランスに追いつくのは1881年になってからのことである。テラコッタへの関心とこの分野でのフランス技術への知識からジェニーは、目的に比してジョンソンのアーチは重すぎると感じたであろう。ケンドールもモントークもその壁は重い。ここに留意するなら、ジェニーが遅燃性構法を採用したことも頷ける。これは1880年代にいたるまで施行者の技術として確かなものだったのである」(181-184頁)。

第一ライタービルと続く1877年のシロットストアについての記述は、再度参照。

9章のノンコマーシャルワークは住宅と病院について。再度マリーの参照とリチャードソンとの同時代性、部屋の配列など。

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2015年5月 3日 (日)

Theory and Noncommercia Work, 1867-80

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 ジェニー評伝の続き。理論的背景と初期の住宅、教会、ミシガン大学での仕事について。

 ジェニーの理論的背景は留学先であるフランスの建築理論および当時の米国建築家協会でバイブルのような扱いであったらしいジョン・ラスキン、それに英国の建築論、である。また、これらとともに19世紀半ばに隆盛を見せていた装飾論は留意しておいた方がよい。

フランス系のヴィオレ=ル=デュクのゴシック観はラスキンと対照的とされる。つまり「彼はそれを合理的観点の完璧な表現として好んだのであって、多くのフランスの知識人らしく(ラスキンと対照的に)反・僧侶であった。大聖堂が深い宗教性を表現していることは彼にとってほとんど偶然のことだったのであり、むしろ聖堂を都市構造物として、それも僧侶や貴族に対する自由市民の闘争や勝利として、彼は見ていた」(117頁)。

英国におけるヴィオレの相応者はエドワード・レーシー・ガーベットであり、ガーベットの『初心者と学生のための建築基礎』(1850)を米国に紹介したのはエマーソンであり、ジェニーは少年時代にこれを読んでいたかもしれない、という。以下、ガーベットの建築論についての解説が続く(118-120頁)。もう一人の英国系理論家で影響を与えたかもしれない人物はジェームズ・ファーガソンで、よい建築は全て構造から出発しなければならないと考え、これはまたこの世紀の技術への熱狂を表現するものであったという(121頁)。

「ここからジェニーは建築の構成を素の構法と装飾された構法の二つに分ける。前者はデザイン、配置、一般形態、案、開口部と非・開口部の配列の解剖学に関わる。」(121頁)。

続いて装飾された構造について、というより19世紀中葉には装飾論の古典的書が続々と出版されているが、この時代にこれほど「装飾」に関心が集まったということは、装飾を独立したもの、それ自身の何かとして考察したとも言え、言いかえるなら装飾を考察することは装飾以外のもの、つまり「素の構法」への関心が同時にあったことを窺わせる。「オーウェン・ジョーンズの『装飾の文法』(ロンドン、1856)、ヴィクトール・ルプリチ=ロベールの『花の装飾』(パリ、1866)、ジェームズ・コーリングの『植物装飾』(ロンドン、1865)、フリードリヒ・フルメの『装飾芸術の原理』(ロンドン、1865)」、など。「装飾はそれ自身のために使われるものでは決してなく、構造を偽装してもならない。ジョーンズは単に大雑把な道筋を示しただけである。他の理論家たちは建築装飾の特定の規則をより深めようと試みた」「ルプリチ=ロベールは19世紀に相応しい新しい装飾を探求した」「多くの点で彼(ルプリチ=ロベール)はサリヴァンの動的装飾デザインを先取している」(122-123頁)。19世紀中葉の装飾論の隆盛はその対極で何が起こっていたかを暗示していた点で、興味深い。ここはもう一回洗い直す(?)。

後半は初期の教会建築と住宅建築について、およびミシガン大学での講義など。米国の大学での建築教育はMIT(1867)、コーネル(1870)、イリノイ大学(1871)と開講され、1875年、ミシガン州は工学部に建築学科を開設することを決定する、つまりミシガン大学の建築過程は全米で4番目に始まっている。

サントラールに留学し、工学部建築学科の初代教授としてのジェニーの教育方針はもちろん、ボザールの教育とは異なり、1、素材の扱い、2、建築家の社会的役割、に重点をおくものだったという。彼自身の実際の講義は水曜日の建築史、木曜日の建築構法、の授業の二つで、この二つを講ずるために事務所のあるシカゴから大学のあるミシガン州アノーバーへ、週二晩夜行列車に乗って通った、とある(148-149頁)。

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2015年4月 1日 (水)

「シカゴ・フレーム」、コーリン・ロウ、『マニエリスムと近代建築』、伊東豊雄+松永安光訳、彰国社、1981

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 ジュゼッペ・テラーニ論以来の再・再読。シカゴにおけるフレームとヨーロッパにおける「フレーム」の相違をのみ論じているのではなく、実は本論の主題は最後の一文において明らかとなるようにフランク・ロイド・ライト論なのか、と思わされる。

とともにいろいろと突っ込みどころも見えてきた。ここを初発の点にしてもよいかもしれない。フレームについての訳者と著者の位置づけをものをそのまま引用する。

まず訳者解説から。

「現代都市が均質なフレームの構造に覆いつくされようとしていることは疑うべくもない事実であるが、そこに見出された機能的な都市空間は今世紀初めからの近代建築の技術的発展の成果であると一般には受けとられている。

しかしこのように均質で合理性に富んだ、無装飾な管理空間は、すでに19世紀のシカゴのループ内(中心部)に都市的スケールで達成されていた」、しかしロウの場合、「あるいはル・コルビュジエのドミノ・システムに代表されるインターナショナル・スタイルの空間がいかにシカゴのフレームと異質なものであるかを探ることによって、シカゴ・フレームの本質を描こうとするのである」。

続いて本文の冒頭から。

 「鉄骨やコンクリートによるフレームの骨組は、現代建築において最も繰り返されたモチーフであり、またジークフリート・ギーディオンが「構成要素」と名付けたもののなかでも、最もどこにでも見られるものである。フレームの果たす役割は、ル・コルビュジエが描いた実験的なドミノハウスの構成システムによって極めて適切に語られている。だが一次的な機能は明らかであるとしても、この実用上の価値とは別に、フレームがある意味をはっきりと獲得したことは、あまり知られていないようである。

 骨組構造で囲われた空間のニュートラルなグリッドは、ひときわ力強く確信に満ちた象徴性を我々に呈示し、この象徴性によってフレームは関係性を確立し、規範を定め、形態を生み出した。すなわちフレームは建築の触媒として作用するのである。だが、フレームもまた「建築化」してしまい、現代建築はフレームなしで考えることができないと思われるほどである。それゆえ、構造的には不必要でもフレームを装った建築物は、数限りなく想起される。だから必要ないはずのフレームが外観に現れている建物をだれでも見た経験があるに違いない。こうして、フレームは実際以上の価値を獲得したために、我々はこのような偽装にも大して驚かなくなってしまった」。

 フレームは解説でも本文でも、現代建築(現代都市)の基本的要素として捉えられている。アイゼンマンのテラーニ分析はもちろん、その後の一連の住宅作品やコンセプチュアル・アーキテクチュアにおけるフレームとグリッドの重要性を考えるなら、ロウがシカゴ・フレームについて触れているのは何とも示唆的であろう。

 本論のクライマックスをなすかのような二つの建物の比較にはいささか難点があると思われる。二つの建物の比較とは、「そしてジークフリート・ギーディオンが『空間・時間・建築』の中でさらに二つの建物を比較するに至って、その簡潔な分析によって、これらの疑問には一層鋭い焦点が当てられていくことになる。この二つの建物とは、1894年のダニエル・バーナムのリライアンス・ビルと、1921年のミース・ファン・デル・ローエによるグラスタワー・プロジェクトである。

 「ギーディオンが関心をもったのは、これらの建物の相似性である。そして内容の問題を無視しがちな(ほぼ等しい形態はその意味するところも等しいという点で)ヴェルフリン流の背景からみても、注目に値するのは、アメリカの建物とドイツの建物の計画案に共通した類似性であろう。しかし、ここに言うまでもなく我々の注意を最も引き付けるのは、全面ガラスの二つのオフィス・タワーの類似性ではなく、その相違である。そして特にその相違を強調しさえすれば、どんなに鋭い批評上の課題にも心を奪われるには及ばない」。

 「リライアンス・ビルがイデオロギカルな意味をほとんど含んでいないのに対し、グラス・タワーは単に仮定に基づく建物であるばかりでなく、含蓄の深い社会評論なのである。

 これらの注釈の違いから、建物と計画案双方の弱さも強さも現れてくる」(141-143頁)。

 ギーディオンの『空間・時間・建築』中でのダニエル・バーナムのリライアンス・ビルとミース・ファン・デル・ローエのガラスタワー・プロジェクトの比較をそのまま用い、かつギーディオンが類似性において用いたものを、その実用性と理念性という相違において論難しているのであるが、この二つの例において共通しているのは「スカイスクレーパー」という形式であって、肝心の「フレーム」は共通していないということである。ミースのプロジェクトにおいては構造フレームはない、構造的にはむしろライトのマッシュルーム・コラムやシャフトによるであろう形態である。

 さらにロウが繰り返し強調するシカゴ(ループ内)の特質、すなわちこの引用部分以降に限ってみても、「投機に値する投資という合理的打算(もし必要ならば装飾すら添えて)であるアメリカのスカイスクレーパー」(114頁)、「シカゴで何かがなされている間(解放された経験主義の極致とでもいうべきか)」(同)、「アメリカでは骨組構造を実利的価値として考えているが、これはシカゴの実業界のすぐれて実利的な風潮の中で合理化されたものである」(145頁)、「ここでは、フレームは経験上便利なものという以上の意味はなく、理想的な意味など与えられることもまずなかった。ましてやそれが明日の都市を意味することなどあり得なかったのである」(同)、「フレームはあまりに容赦ない商業主義の、露骨で無責任な代行者と見なされるようになったので」(146頁)、「しかし、ループでは輝ける都市はと異なり、世界はあるがままに受け入れられており」(146頁)、等は、いささか荒い言葉で語られており、さらにこれらの言葉が含む価値評価によって、読者はそのままではある読み方に方向つけられてしまう。

方法論の問題も含め、ここをもう一度、このフレームの問題を新たに捉えなおしていく。

 

 

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2015年3月30日 (月)

“Mexico, Paris, and the Civil War”

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ジェニー評伝の続き。

1856年にサントラールを卒業してから事務所をシカゴに開設するまでの10年、メキシコに短期間技師として渡り、パリに一度戻り、さらにシャーマンに乞われて米国に戻って南北戦争を戦っている。

メキシコは短期間でほとんど特筆するものがないように見える。

パリに戻って1857年、ルクセンブルクで美術学校の学生と協働したことが建築家への転向を決意させた(58頁)。

このパリ時代を「トリルビ-時代」と呼ぶが、ジョルジュ・デュ・モリエのの小説中『トリルビー』に登場する「リトル・ビリー」がジェニーをモデルにしているという説があるからなのだという(59頁)。

パリでは初期のパリのアメリカ人、つまりパリのボヘミアンなアングロサクソン・サークルに出入りしている。このサークルではジェームズ・マクニール・ホイッスラーと懇意になり、しかしホイッスラーは「突然、パリから消え、1年後にロンドンで有名になった」という。また、このサークルを通じて同時代の印象派の画家たちとも接触があり、ジェニーの好みは古典派の絵画よりジェリコーなどのロマン派の絵画であったという。「19世紀フランス絵画の展開は興味深いことにのちのジェニーの建築と並行である。ロマン派の大きな量塊、豊かな色調、生き生きした筆使いは彼の住宅建築にしばしば現れる確固とした形態への好みを確かに示している」、「印象派が光と空気を描いたとすれば、ジェニーはこれらの要素を彼の建物に導入しようとしたのである」(60頁)。

当時のパリはオスマンの改造が進行中であり、ジェニーはフェアバンクスともどもこの改造を好意的に見ていた(ほぼこの章全体)。さらに「ジェニーの滞在中、パリを風靡した都市化の他にも知的潮流があった。エコール・デ・ボザールの教条はファサードを席巻していたが、その背後には新しい素材としての硝子と鉄への技師や施行者の嗜好が看取できた。その結果は、たとえば東駅(1847-52)、モンパルナス駅(1850-52)、レザール市場(1853-58)、それに1855年博覧会での展示場(1855)などである。これらのどれ一つとしてのちの彼の作風にそのまま表れることはないが、しかし確かに彼の目をこの新しい素材へと開いたに違いないのである。アンリ・ラブルーストのサント・ジュヌビエーヴ(1843-1850)に気付いていたと思わずにはいられない。その外壁の窓割の手つきには、ジェニーのザ・セカンド・ライタービルにおいて完成させるものの萌芽がある」(71頁)。

 そして「二回目の滞欧の終わり頃、ジェニーはビューロー・オブ・アメリカン・セキュリティ社に入社するよう乞われた。これはアメリカの鉄道へのヨーロッパからの投資を促進することを目的とした会社である。会社はウィリアム・テクメセー・シャーマンを社長に、ジェニーを3人いる技師の一人に任命したのだった」、「当時シャーマンはルイジアナの陸軍大学の校長で、ジェニーはすぐさま本国に戻ってオハイオ州シンシナチで1861年3月、シャーマンに会っている。未来の将軍は「極端に走る反逆者一味」に怒っており、「戦争が始まる。よって乞われたようにヨーロッパには我々は行かない。セントルイスに行って支度を整え軍隊に入ると語る。翌月には戦争が勃発し、数か月音信が途絶えたのち、シャーマンから参戦を促す手紙を受け取る」(72-73頁)。

 南北戦争に関する記述は73-74頁の2頁の記述のみ。

 ジョン・ルートが兵役逃れとして英国に留学し、リチャードソンもまた逃れるようにしてフランスに留学したことに比較すると、ジェニーのこの参戦と活躍ぶりは実はどこか確信めいたものを感じる。

 2月革命後のサントラールへの留学、ロマン派絵画への嗜好、この志願兵のような参戦。この点は留意しておいていいかもしれない。

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2015年3月27日 (金)

“The Ecole Centrale des Arts et Manufactures, The Architectural Course of the Ecole Centrale”

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ジェニー評伝の続き。エコール・サントラールでの教育を確認。第二章の後半で「ニューイングランド・スチューデント・システム」が瞥見され、第三章は主にサントラールについて、第四章は主にサントラールでのジェニーの教授であったルイ・シャルル・マリーについて述べられる。

英国は産業革命を主導し1851年ロンドン万博において世界の製造業の主導者となるものの、世紀後半からは競合者の後塵を拝するようになる。その主な理由は教育制度にあったという。

英国の技術者教育は米国とさほど変わらず、経験的な徒弟制度であった。

米国の技術者教育、「ニューイングランド・スチューデント・システム」とは、名のある土木技師に年100ドル払って弟子入りし、質問したり、オフィスと現場に随行できるものだった。フォーマルな教育はなく、多くを学ぶことができたかもしれないが、その保証もないものものだった(21頁)。

 フランスは他方で17世紀に遡行してフォーマルな技師教育の伝統があった。大革命/ナポレオン時代に設立されたエコール・ポリテクニークはさらに一つの節目となる。卒業生は軍隊または国家機関に就く義務があり、差し当たりの戦争経済の要求を満たすことを望まれたが、やがて実践から理論に重きを置くようになっていったという(25頁)。

 ジークフリート・ギーディオンが指摘するようにポリテクニークにはサン・シモン主義者やガスパール・モンジュ、ジョセフ=ルイ・ラグランジュといった数学者や物理学者が集まり、7月革命の原動力の一つになった( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/index.html )。またT.J.クラークによれば、ウジェーヌ・ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』(1931)で二丁拳銃を振り回している少年はポリテクニークの学生服を着用しているのだという( http://d.hatena.ne.jp/madhutter/200809 )。

 サントラールはこの延長上で1829年に設立された。「この学校と革命は関係している。サントラールの設立において国家は何の役割も果たしていない。というのも民間資本によって設立されたからであり、それゆえ中間層のリベラリズムと革命そのものの宣言と同じものをこの学校は表していたのである」、つまり「政治的経済的変化を主張する社会層の考えの結果だったのである」(26頁)。そして「サントラールの学生は1830年と1848年の革命のバリケードに多くが参加していた」(33頁)

民間資本によって私立学校として設立されたサントラールはしかし、1859年にはグランゼコールの一角に編入される(29頁)。設立者(ジャン=クロード=ユージン・ペクレ、テオドール・オリヴィエ、ジャン=バプティスト・デュマ、それにアルフォンス・ラヴァレー)は教育課程をポリテクニークとはまた異なる三年過程のものとして編成した(27、33頁)。

ポリテクニークとは別個のものとして設立されたサントラールであったが、その教授陣にはポリテクニーク出身者が多かったようである。ジェニーの土木と建築の教授であったルイ・シャルル・マリー(1791-1870)もそうである。

本書では彼の講義録(Cours de routes,1855-56, Cours d`architecture,1852-53)からその講義の内容をたどっていく。「これらはその明晰性と合理性においてたいへんフランス的であり、13世紀のヴィラール・オヌクールの画帳を彷彿させる挿画がある。それぞれの講義録はこの領域を百科全書に包括しようと試みていた」(35頁)。前者は「直接的に建築を扱わなかったものの、建物技芸のバックグラウンドをジェニーに与えた。多くは橋梁に関していた。鉄(iron)橋に関しては英国のゼヴン川に架けられたアブラハム・ダービーの鋳鉄(cast iron)橋にまで遡行し、また同時代のさまざまな種類の吊橋にまで言及している。もっともジェニーが活動を始めるまでにこれらの橋の多くは時代遅れとなるものだった」(35-36頁)。

英国とフランスの相違は教育システムだけでなく、鉄の種類にもあったようだ。「フランスの鉄工達は骸炭の代わりに木炭を精錬に用いることを好んだ。鋳鉄を造るのに骸炭は欠かせないものだが、フランス人は英国人と異なり、錬鉄の方がより可能性があることを見出したのである。このことは幸運であった、というのも鋳鉄より錬鉄の方が引張力に強く、それゆえより大きなスパンを飛ばす時に多様な軽く強い構造部材を試みることをフランスの施行者に可能にしたからである。状況と経済がそれゆえ耐火の問題解決について英国とフランスに異なる解決法を与えた」(37頁)。マリーは1785年のアンゴによる最初の錬鉄による開放的で軽快な網のような梁について詳しく述べている(37頁)→http://goo.gl/ubLfOmhttp://goo.gl/03BhfB 参考。

また中空ブロックはフランスの発明品で、これはこんにちのデッキプレートの前身のようなものである(42頁)。

マリーの建築講義について。「マリーは明らかにつまるところ、プロポーションのような視覚的・美的特質はそれができている材料や使用目的から導かれると考えていた。またマリーにとって構法は構成と対立するもので、その原理は不変であった」「建築のこの二つの側面は相補的ではあるが、構法の要求が全体を統御すべきものであった」、「同時代人と同じくマリーはそれゆえ建築の技芸を二つの領域に分けてみていた。建築家は美的領域に関わり技術者は実務領域に関わる。それぞれはそれぞれの専門家であり、それゆえサントラールの学生は構法に関わり、「構成」に費やす時間は最小限に留められた」(47頁)。

「マリーの最も興味深い授業の一つはというのもそれはジェニーの壁の扱いを先取しているからで、それは、「一般的に壁は石や煉瓦や岩を束ねた構法で、これらは固くなる。壁の全部分は等しく劣化するわけではない。自重を支えていだけの部分に比べ、ヴォールトのスラストを受けたり梁下にある部分はより大きな圧縮力を受ける。その結果、力が最大となる壁の点を補強しなければならない。通常建物の突起物や宮殿や豪奢な建物における付柱はこうした過剰な荷重を受けるものである。

薄くない場合でも、耐力壁は最良の素材で造られねばならない。通常の石造壁よりそれらは注意深くしっかり固定されねばならない。ときおり下から上までの厚みが同じでない支持材があるが、それはバットレスと呼ばれる。」「厚い鉛直壁は石造の水平バンドで結合される。そのバンドは通常、床レベルにおかれる」、「マリーの思考の要点は明確である。構造形式が建築の基礎となるということである。荷重の流れと伝統的な素材のスラストが壁のソリッドとヴォイドの戯れにおいて可視化されるというものである」(47-48頁)。

さて、マリーのポリテクニークでの師がジャン=ニコラ・デュランであり、デュランのグリッド・システムはマリーのアプローチにおいては「構法」と「構成」を統合するものとしてあったという。一方で、「構造と機能の強調において、サントラールは大建築学校であるボザールの対極に位置していた」、「ボザールは学生に現実離れした課題を与えることで実際の実務からは程遠いものになっていた」のである(54頁)。

「フランスでのジェニーの教育をまとめると、彼の生涯にわたる仕事においてきわめて理想的な準備をなしたといえる」、「エコール・デ・ボザールが(構法と構成という)二つの要素を別個のものと見做した一方、サントラール(やポリテクニーク)はそのプログラムをより広いものとして技師が建築家となれるようにもした。実際、それは多かったのである」(55頁)。

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2015年3月18日 (水)

メルヴィル『白鯨』八木敏雄訳、岩波文庫、2004年

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原作は1851年、19世紀中葉の米国の精神史を見るにはいい書かもしれない。サイードの『オリエンタリズム』で検討され、フランシス・コッポラの映画『黙示録』に影響を与えたであろうジョセフ・コンラッドの『闇の奥』をどこか思わせなくもない。

あるいは19世紀のロシア小説に見られるキリスト教的な内面性や内向性とは対照的な、外へといった意識(ドゥルーズが『映画』のなかで述べたフランス映画の内向性とイギリス映画の外向性を思い出す)を彷彿させるかもしれないし、そうはいっても外部へといっても別に軽快でも外向的というわけでもない。訳者が述べているように寓話的小説かもしれないし、「レヴァイアタン」や「白の崇高性」といった点ではゴシック小説をも思わせるし、シュールな記述も思わせなくもない。とはいえここでは文学史的な評価はさしあたり関係ない。

アフガン戦争が冒頭で述べられ、ジェニーの乗った船がホーン岬をまわって西回りで太平洋に出ていったのとは逆に、東回り、インド洋経由でピークオッド号は太平洋へと出ていく。「たわけ者!」「こんな朝はやくに東にむけて航行しているというのに、太陽が船尾にあるなんてことがあるか?」(下、272頁)。日本近海を横切り、南太平洋で白鯨とともにピークオッド号もエイハブらも海の藻屑と消え、最後は太平洋の文字通り平和な波の描写で終わる。

19世紀中葉、ヨーロッパに代わって米国は世界の捕鯨業の先頭に躍り出る。「わがアメリカ捕鯨業にあっては、これに従事する者の数が全世界の鯨捕りを束にしたよりもおおく、一万八千人が乗り組む七千隻以上の船を擁する一大船団を保有し、毎年四百万ドルを消費し、出港時に二千万ドルの価値を有する船が毎年七百万ドルになんなんとする収益をわれらが港にもちかえるのは、いったい何ゆえであるか?もし捕鯨に富をもたらす甚大な潜在力がなければ、こんなことがありうるだろうか?」「わたしはだれはばかることなく断言する・・この六○年のあいだに、広大な全世界を、平和裡に、ひとつの束にまとめあげるような影響力を発揮しえたものが、この高貴にして強大なる捕鯨業をおいてほかにあったと指摘しうる者などありえない、と。世界主義者を標榜する哲学者にしても、そういう例外的事例のひとつすら、一生をかけたところで提示することはできまい。捕鯨業は、いろんな意味で、それ自体において顕著な成果をあげたばかりか、その後の事態においても持続的な波及力を保持してきたので、捕鯨業とは、さながら、すでに子をはらんでいる子孫をおのれの胎から生んだあのエジプトの母に比すべきものである。こういう事例を列挙してみてもきりがない」「多年にわたって、捕鯨船は世界の最果てや未知の領域を探索する開拓者だった」「捕鯨船こそ、あの今日の有力な植民地(オーストラリア)の生みの親なのである」「もしあの二重にかんぬきをかけた国、日本が外国に門戸を開くことがあるとすれば、その功績は捕鯨船にのみ帰せられるべきであろう。事実、日本の開国は目前にせまっている」。(上、286-289頁)。

当時の捕鯨船は風力で航行する帆船で、肝心の捕鯨作業もその帆船からボートを下して銛で人間が狩るという労働集約的なものだったようだ。

ピークオッド号が基地にしているのはマサチューセッツ州ニューベッドフォードであり、これはジェニーの出身地であったフェアヘイヴンと入江を挟んだところにある。これらの町がこの時代の米国の捕鯨の本拠地である。また1832年生まれのジェニーは、太平洋で救助されながらくこの町にいたジョン万次郎(1827-1898)と少なくとも町ですれ違ったことがあったはずであり、もしかしたらジョン万次郎を救助した捕鯨船はジェニーの父親が経営していた捕鯨会社の所有であった可能性もある。

いずれにしてもジェニーは太平洋へ、フィリピンへとordealの旅に出て、そこで自分のキャリアを決める。ついでに述べれば、ハワイからグァムを経てフィリピンにいたるのちのアメリカ帝国の「太平洋の橋」の原型がこの時代に捕鯨によって形成されつつあったことも分かる。

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2015年3月 5日 (木)

DESIGNER`S FILE 2015  カラーズ 2015

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カラーズさん発行の『デザイナーズ FILE 2015』に弊事務所が収録されました。

「立体デザインのさまざまな第一線で活躍する日本のデザイナー142組が手がけた最新の製品や作品を、デザイナーのプロフィールとともにカラー写真で紹介しています」、「本書は2015年現在における「日本のデザイン」のパッケージです」(扉文、はじめに、より)。
書店でお手にとってご覧ください。

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