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2010年3月

2010年3月24日 (水)

development

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2010年3月12日 (金)

"AUGMENTED REALITY"

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2010年3月 8日 (月)

K. Michael Hays  ARCHITECTURE’S DESIRE, READING THE LATE AVANT-GARDE  The MIT Press, 2010

B1

「欲望(DESIRE)」という言葉から察せられるように、フロイト/ラカンの理論が援用されています。「建築の欲望(Architecture’s desire)」が何であるかは掉尾でも繰り返されますが、そこでの謂いは本書で取り上げられる建築家のプロジェクトにも大きく関係しています。

「後期アバンギャルド」という名は冒頭において著者も述べているように、フレドリック・ジェイムソンの「後期近代」という概念を髣髴させるものです。モダニズムの再現ではなく、近代自身にあった内省性をこれは意図するものであり、しかし歴史的アバンギャルド(つまりいわゆるアバンギャルド)と異なって外部へ開くのではなく、意識的に内部に沈潜するものであり、なおかつ19世紀的な「芸術のための芸術」などとは根本的に異なるものであると、そう言えるでしょうか。

もう一点付け加えると、著者のかつての著作『ポストヒューマニズムの建築』(拙訳、鹿島出版会、1997)におけると同じく、物としての建築の形成よりも、物/対象の主体/主観形成作用やその表象に力点をおいた著でもあると言えます。

本文は四章からなり、アルド・ロッシ、ピーター・アイゼンマン、ジョン・ヘイダック、バーナード・チュミの四人を後期アバンギャルドの建築家として位置づけ、各章において一人の建築家にそれぞれ焦点が当てられていきます。なおかつロッシによって後期アバンギャルドが始まり、チュミによって終わる、という風に時系列的に述べられていきます。

第一章「類推(ANALOGY)」ではそれゆえロッシが、続く建築家達に先行するものとして論じられます。1966年に出版されたマンフレッド・タフーリとの共著『都市の建築』はその類型学や構造主義的アプローチにおいてクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』の影響を受けている(と、ラファエル・モネオらによって)指摘されることに加え、著者はさらにルカーチやアドルノ経由のマルクス主義やフロイトの影響をも読み込んでいます。ルカーチというとしかし、ロッシのドローイングに見られる物象性をノスタルジックな傾向と見る見方には著者は批判的で、「その独特の詩学を通し、標準的な構造主義・意味論的な説明よりはるかに複雑なものにロッシの作品をなしている」と、むしろ見ています。なおかつ「否定の多様さへの彼の認識ともども建築の象徴性/象徴界と想像性/想像界への考察が、ロッシをして後期アバンギャルド理論の創設者にしている」と、述べられます。繰り返すなら後期アバンギャルドはここから始まったと言うわけです。また構造主義とラカン派の複合という点では建築の大文字の他者は都市であるという読みが展開され、さらにラカンとの絡みで続けるなら、ロジカルな思考とアナロジカル(これが章題)な思考の関係が、RSI図式で解説されます。

ザ・リアル/現実界をカント的な「物自体」と重ねるやり方から外れ、フレドリック・ジェイムソンはこれをアルチュセール的な大文字の歴史へと重ねていました。著者はこれを敷衍しつつ、「では建築のリアルとは何か」と問い、そして「(この問いに)強力な一語で答えるなら、それは大文字の歴史である。大文字の都市にとって建築の象徴的な要求や必然は内容ではなく、人間の容赦ない出来事や広範な人間のプロセスの結果物が内容なのである。大文字の都市は歴史的必然から形成された建築形式なのである」(48頁)。

続く第二章「反復(REPETITION)」ではピーター・アイゼンマンが取り上げられます。実はロッシの『都市の建築』英語版の序文はアイゼンマンが書いていたのですね(訳者はジョアン・オックマン)、この符牒に今更ながら気付かされました。1970年代のアイゼンマンには「コンセプチュアル・アーキテクチャー覚書」(こちらもどうぞ)とか「カードボード・アーキテクチャー」という論文があり、同時代の彼のプロジェクトはこれらとも関係していますが、ロッシからの補助線とそしてその対比もここに引くことができるでしょう。本章において主に論じられるのは1978年の有名な「カナレッジオ計画」です。

この計画はル・コルビュジエの未完に終わったベネチアの病院計画のグリッドを敷地に引き込み、それを空虚なボイド/痕跡として設定することでデリダの「痕跡」概念などとの関係が言われたりもするのですが、まず何にもましてグリッドとは物象化であり「ル・コルビュジエのプロジェクトが地面に穿たれたボイドや孔に還元され、虚にされ、それはかくも徹底しているゆえ物の痕跡のみが残り、それと同定できる形象ではなく(ロッシの類型の一つのように抽象化され還元された形象のように)、書き込みと反復の手続きとなるよう繰り返され」(62頁)、「アイゼンマンの問題提起はロッシの自律性と表象の体系にあった矛盾を吸収し・・物象化やプロセスや物の制作の条件へと一般化している・・」(70頁)。

最終的に章名にもなっている「反復」、つまり物象化の一手法はフロイトの「死の欲動」と関連付けられ、さらにロラン・バルトの「テキストの快楽」へと関連付けられていきます。このあたりは同じ著者によるヒルベルザイマー論を思い出させます。

第三章「遭遇(ENCOUNTER)」はジョン・ヘイダック論です。この章ではダイアモンド・ハウス(1962)と壁の家(1974)からヘイダックにおける表象の問題が伏線としてまず取り上げられ、著者はここでラカンのセミネールにあった有名なイメージ・スクリーンの図式(ハル・フォスターがアブジェクトアート論で援用したものと同じ・・こちらもどうぞ)を用い、この先を論じ、それゆえ以降の論はアブジェクトアート論に近いものを感じさせなくもありません。ヘイダックの「仮面(mask)」に重ねられるのはドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』中の顔貌性であり、それがスティグマである以上、どこか宗教芸術と親近性を持つのも自然なことかもしれません。

「さあ、天使を描こう」(ジョン・ヘイダック)。

「空間化(SPACING)」と題された第四章つまり最終章はバーナードチュミについて、とりわけ『マンハッタン・トランスクリプト』と『ラ・ヴィレット公園』について論じられます。デニス・ホリアーのバタイユ論との関連で述べればこの「空間」あるいは反・物質性はヘーゲルの美学とも、もちろん関連しています(よろしければこちらもどうぞ)。個人的に興味深いのはしかし、終わり付近で述べられる、これら後期アバンギャルドの建築家のグリッドとレム・コールハースによるマンハッタニズムのグリッドの相違でしょうか。

ロッシ以降、アイゼンマンの「カナレッジオ」やチュミの「マンハッタン」など1977-78年の後期アバンギャルドによるグリッドの「発見」は一つの契機でしたが、その同じ時期におけるマンハッタン・グリッドの論理、つまりコールハースのマンハッタニズムの論理はまさにそれらに終焉をもたらしたものである、と論じられます。「コールハースによるグリッドの使用はスコット・ブラウンやヴェンチューリがやったような単純な多様性の称揚ではなく、なおかつアイゼンにおける終わりなき考古学の遅延でも、チュミにおける狂気でもない」(166頁)。これに続く論はいささか悲観的に見えます。「コールハースのニューヨークは経済の差異化と情報マネージメントのテクノロジーへと変形され、建築のテクノクラティックな実証主義と結合することで」「建築は単なるデザインとなることで栄える・・「純粋に道具的でまったく操作的」」「超越的なものも神秘もなく、すでにあるもので済ませ、それはまさに欲望を閉じることである」(168-169頁)。後期アバンギャルドが辿った軌跡、ロッシの想像的なるもの、アイゼンマンのグリッド化された象徴的なるもの、ヘイダックの現実的なるものの浸透と、チュミにおける現実的なるものと象徴的なるものの相互作用、「これが建築の欲望の運動であり、建築の意味作用の限界を超えた、建築の死の欲動なのである」(169頁)、コールハース以降の論理は言わずもがな、後期アバンギャルドのこの「欲望(desire)」や「欲動(drive)」とは異なるものです。。

結語部分は揺れているように読め、私としてはそこに一縷の希望をみたいと思います。

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2010年3月 7日 (日)

備忘録 引用

ある目的はどの形式、どの素材によっていかに空間となり得るかと、建築は問う。全ての要素は相互に関連している。建築の想像力は建築という概念によれば、空間を合目的的に明確に表現できることにある。これが目的を空間たらしめる。目的に応じて形式を構築するのである。逆に空間と空間感覚は想像力がそれらを合目的性で満たしたときのみ、貧相な目的以上のものになり得る。想像力は自らの存在をまさにそこに負っている遍在的な目的の関連から、逃れ出るのである。 

テオドール・アドルノ、『今日の機能主義』1965

大文字の歴史は苦痛である。欲望を拒絶し、個人と集団の実践に容赦ない限界を課す。「狡知」がその表向きの意図を不吉にも皮肉にもひっくり返す。しかしこの大文字の歴史はただその効果によってのみ理解可能で、何か物象化された力としては決して理解できない。根拠かつ超越不能な地平としての大文字の歴史が、いかなる特定の理論的判断をも必要としないというのは、まさにこの意味である。いかにわれわれがそれを無視したいとしても、この疎外必然がわれわれを見放すことはおそらくない。

フレドリック・ジェイムソン、『政治的無意識』1981

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