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2010年5月

2010年5月30日 (日)

旧日向別邸

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熱海にある旧日向別邸を見学した。この住宅はブルーノ・タウト作といわれることが多いが、実際の建物を設計したのは渡辺仁で、タウトは傾斜地に「京都風庭園」を造成するために造られたRCのスケルトン内部を有効活用すべくそのスケルトンのインテリア・デザインを任された(にすぎない)ことを、知る。現地で流れていたビデオでは「タウトに脅威を感じた日本の建築家たちは彼に仕事をまわさないようにしていた云々」といった解説がなされていた。この解説がどこまで正しいのかは別としも、日本で建築に関して冷飯を食わされていたのだな、とも思う。解説してくださった方は実に熱弁を振るっておられ、この建築が好き、という思いがひしひしと伝わってくる。ちなみにいままで案内した建築家のなかでは、故・黒川紀章さんはさすがプロだと思い、最も印象深かったと話されていた。

熱海もまた旧中心部が寂れ、(駅前がにぎわうという)地方都市現象が起こっているように見えた。その中心部は後背の山から流れてくる川が軸となり、海の向こうに見える初島がその軸上に位置するという何とも印象的な地形である。心なしか新旧の宗教の施設が目についたが、キリスト教では洗礼/再生の象徴となるように、温泉は宗教的なものを集めることがあるのだろうか。

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Daiel Bluestone“A city under one roof,”Chicago skyscrapers, 1880-1895、Mona Domosh Creating New York`s nineteenth-century retail district, AMERICAN ARCHITECTURAL HISTORY A CONTEMPORARY READER ed. By Keith L. Eggener Routledge 2004

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引き続き、以前読んだものの再読。

前者は19世紀末シカゴにおけるオフィス/スカイスクレーパーについて、後者は同時代ニューヨークにおける店舗/デパートについての考察。

大雑把に述べると、前者は、ギーディオンやカール・W.コンディットによる「シカゴ派」というラベリングや時代精神による解説、それもスタイルや構法とデザインの一致といった評価とは異なる、当時の感性や社会・経済的なあり方から見ていくもの、と言える。19世紀末シカゴにおいてスカイスクレーパーが建設されたのは1871の大火後のタブララサに、「耐火」構造かつシカゴフレーム等の建設技術によって新しいスタイルの建築が登場したといったこれまでの概説に対し、当時の不動産投資のあり方や、新しく登場した都市部オフィスワーカーの社会的あり方や感性からの説明などがなされる。

なぜ高い上部をオフィスは目指していったのか。

面白いのはその最初にあるシカゴ・グリッドの論理が、コールハースがかつて述べたマンハッタニズムのグリッドの論理とはいささか異なっていることである。シカゴ業務地区は湖や川などに囲まれており、不動産として高密度・高高度を目指さねばならなかったという点。そしてそれは多層化という新しい不動産投資のあり方と一致し、また建設技術や機械設備がそれを可能にした、という。もう一つは高高度化による地上の雑踏からの逃避は、同時代における郊外への拡散とじつは並行していたという考察。そしてそれは社会・階級的な感性を持っていたという指摘/考察も、まぁ面白い。複合化していくスカイスクレーパーはそれ自身空中都市でもあり、感性という点では理想郷の追求でもあったろう。

個人的に面白いのは他に装飾についての感性についての件である。「19世紀アメリカ人は一般に利便のための機械やテクノロジーを美的鑑賞に相応しい対象と見做しており、それゆえ装飾に相応しいものと見做していた」。具体的には階段やエレベータの鋳鉄、外部の耐火テラコッタなどである。この点ではさらに、ルイス・サリバンの論理「装飾は商業と文化の乖離を緩和する」は、アドルフ・ロースがヨーゼフ・ホフマンを例にして批判した「偽装の論理」を彷彿させなくもない。またさらにサリバンとダニエル・バーナムの装飾に対する見解の相違も面白い。「商業は悪を意味しない」(バーナム)。「サリバンのもののような手の込んだ繊細な装飾は熟考や休息の場や時間にこそ相応しい」「商業建築ではそうしたものは忙しい人ごみのなかでただ喪失され得る」。

さて後者はデパート王アレクサンダー・スチュワートの建築を主軸としながら、南北戦争後のアメリカの工業化を背景にした、当時のマンハッタンにおける消費者の登場や、それに関連した小売業、とりわけアパレルの観点からみた都市空間の変容、およびスチュワートの戦略などが概観されている。建築の戦略としては、デパートの類型にここでもまた文化的な暗示と雰囲気を持たせるためにルネサンスのパラッツォが参照されたことなどが、興味深い。

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2010年5月17日 (月)

Kenneth L.Ames, First impressions, Front halls and hall furnishings in Victorian America,AMERICAN ARCHITECTURAL HISTORY、A CONTEMPORARY READER ed.by KeithL.Eggner, Routledge 2004

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前回と同じく以前読んだものの再読。

19世紀ビクトリア朝時代のアメリカ住宅をホールとそこにおける家具・調度品から考察したペーパーです。

著者によれば18世紀住宅と19世紀住宅はその内部空間の構成において大きく変わることはなかったが、ただホールのあり方は変わり、また家具や調度品などの室内品の役割は大きく変わったといいます。19世紀とは文字通りブルジョワ室内空間ができた時代であるというこれまで何度も言われてきた論からすれば、これはそうした論の延長上にあると言えます。

ちなみに18世紀から19世紀にかけての住宅(邸宅)における基本的なホールとは、一つは後期ルネサンスに発するジョージアン様式のものがビクトリアンに侵入してきたもの(この場合のホールは通路のようなもの)、もう一つは後期中世や前・ジョージアンの多目的室が進化したもので、こちらは通路が居間へと拡張されたもの、と言います。

さて、家具・調度品について主にhallstandhallseat、貴名受の三つが考察されているのですが、興味深いのは最初のhallstandと呼ばれる家具です。これは1860-70年代に全盛を向かえ、80年代に再考され、そして20世紀に入るとほとんど絶滅し、今日ではほとんど忘れられているものとされます。ホールに置かれていたこの家具は傘立、帽子掛、鏡、小テーブルの4部分から構成されていたといいます。こう述べると精神分析の格好のモチーフになりそうですが、ここではまずclass representationの視点から分析されていきます。とりわけ面白いのは雨傘です。雨傘自体は古代からあったものの、ヨーロッパにおいてはルネサンス期にアジアから輸入され、ポルトガルからイタリアを経て拡がり、やがて社会的身分を暗示するものとなっていったといいます。奴隷や召使は傘を持ち、彼らが仕える側は傘の中におさまる、という道具として大変分かり易いものだったからだそうです。やがて貴族階級が馬車を多用し始めると、傘は身分的にはその下のもの、19世紀には共和主義者の持ち物となっていったのだそうです。帽子や服装や鏡が同様の視点から分析されていきます。

20世紀においてはこうしたものは収納すべきものとされたが、19世紀においてはclass represetationとしてむしろ目につくものとしてホールにおいて可視化されていた、まぁこうしたことが19世紀ブルジョワ室内を形成していた重要な要素の一つということになるのでしょう。

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2010年5月 9日 (日)

Gwendolyn Wright“Independence and the rural cottage,”AMERICAN ARCHITECTURAL HISTORY, A CONTEMPORARY READER, edited by KEITH L.EGGNER, Routledge,2004

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以前に読んだものを軽く再読。

ペーパーの著者であるグウェンドリン・ライトはこのブログでも二つ前にみた書の著者、ケン・タダシ・オーシマの指導教官でもあり、私もまた留学時代にその授業をとった方でもあります。当時はイギリスとフランスの植民地経営のあり方とそれぞれの植民地での都市計画を比較した書を出した頃で、同書には触発された覚えがあります。

それはさておき、戦後の日本で浸透してきた郊外庭付き一戸建てという住宅のイメージは、同時代にアメリカから輸入されたという側面があると思われます。このペーパーを読むと、アメリカにおいてこうしたイメージは19世紀、少なくとも南北戦争前においてゆっくり形成されていったのではないかと、思えてきます。

その起源は独立自営農民(yeoman)の理想型であり、宗教的にはカルバン派の理想であり、またアメリカにおいてはこの時期、共和主義の理想型と結びついて発展してきた、と言えそうです。

このペーパーで述べられているポイントはいくつかありますが、まず一点として、1820-30年代までに家庭(住宅)における「子供」のあり方と内部空間の変容があげられます。この時代の議論の焦点の一つが「子供」であり、またその養育は女の役割とりわけ「母」の力の強調であったといいます。家庭環境の整備と個人の良心の育成は体罰に勝るというキャンペーンが当時張られ、全ての子供に個室をという考えはなかったものの、「部屋」や「プライバシー」という考えが大きく発展した、ともいいます。リディア・シゴニー+キャサリン・ビーチャー著『家庭経済論』(1843)という本では、住宅は家族成員の個室とソーシャルな部屋、そして仕事(生産)の部分に分けられるべきであると主張されたそうです。

こうした住宅の「自立」(「自立」というのもイデオロギーの一つと言えそうですが)と、その内部で進んでいった分節と並んで、当時の出版物のあり方が、次のポイントとして言えそうです。「1840年までにニューイングランドのほとんどの女は読み書きが出来るようになっていた」。都市部以外では、つまりほとんどの部分では、「子供」や「住宅」について出版物による情報に「大きく依存しなければならなかった」。

そして同じ時代、一方では今日のビルダーに相当するものが出現し、彼らが住宅のパターンブックを発行し始めたと言われます。こうしたパターンブックは、平面、詳細、パース絵、情感的な文章を掲載し、200ドルから2万ドルまでの住宅を売り、エドワード・ショーの『田舎住宅』(1843)、アレクサンダー・ジャクソン・デイビスの『田舎邸宅』(1842)、アンドリュー・ジャクソン・ダウニングの『コッテージ邸宅』(1842)といったものは、どれも揃ってアメリカ的な田舎住宅のさまざまなバリエーションを強調したのであるとか。

これらパターンブックで販売された住宅の売りの一つが「スタイル」であり、またその折衷からなる「多様性」であり、「多様性はファッショナブルとなった」。この点でパターンブックと並行していたのは女性誌で、フィラデルフィアで出版されていた『ゴディーズ・レディーズ・ブック』は1846-1898年で450もの多様なモデルハウスのデザインを発表した、といいます。

またパターンブックのデザイナーたちは自らを民主・共和主義の重要な要素と見做し、「田舎においてよい住宅をつくることを説明することは、全ての市民に自立の機会を与えることである」と、考えていたと言います。

ところでこうした「多様な」スタイルは、業者間の競争から自画自賛的なもの、われこそは一般常識に根ざし、安くて庶民的であると称するもの、しまいには擬似・科学的なものまで登場したといい、スピリチュアリストのオーソン・ファウラーという人が、八角形住宅は四角形住宅より20%効率的でなおかつ神秘的力があると主張し、一時期、八角形の建物が全米で流行したとか。

しかしこの時期、最も重要な建設上の展開は、1839年、シカゴで最初に用いられたバルーンフレーム工法であったと、まぁ述べられます。建築史を勉強された方ならお馴染みの、あのバルーンフレームです。

うーんしかし、この200年近く、ある業界はほとんど同じ事を繰り返してきたのではないのか、と思ったりもしました。

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2010年5月 3日 (月)

西谷啓治『西谷啓治著作集第19巻、講話・文化』創分社1991

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1部と2部からなっています。

1部と、2部の「「自然」といふこと」を読むと、西谷の「日本的なるもの」あるいは日本文化の特質についての考えが大体把握できると思われます。

劈頭において西谷はT.S.エリオットの言葉を引きながら、文化とはその民族の宗教のincarnationであると定義しています。これは後ろの方ではVolksgeistとも言い直されるものです。

さて、西谷が「日本的なるもの」と見るものを大雑把に述べると、中世文化、それも五山文化に象徴されるような独特の禅文化にあると言えます。

なぜ「独特の」禅文化なのか。禅は仏教と同じくインドに出自し、中国で発展し、日本にもたらされたといいます。この点で「禅」自体はつまり仏教と同じく世界宗教と言えますが、インドのヒンドゥイズム、中国の道教、日本の神道といったそれぞれの民族宗教に仏教が混交されたように、禅も同じくそれぞれの独特の性格を持ったとまず言えるでしょう。二つ目は、そしてこちらの方が本論なのですが、禅が日本に渡来した時期に大きく関係していると、西谷は見ています。

禅は鎌倉時代、栄西や道元、聖一国師らによって日本にもたらされ、その最初の担い手は平安貴族ではなく、武士階級であった。平安時代を通して仏法と現実は乖離(末法思想)してきており、この再結合が必要とされていた。そしてそれを可能にしたのは平安貴族の美的実存(もののあはれ)でもニヒリズム(諸行無常)でもなく、禅を受容した鎌倉武士の徹底した否定の思想にあったと、ここで見られます。「鎌倉武士の場合には、平安貴族の美的実存における「もののあはれ」と違つて絶えず死に直面していなければならない。何時でも命を捨てる覚悟がなければならない。さういふ場合に、単純直截な情意を込めたところのモラルといふものが一度は死をくぐらなければならないことが要求される。さういふところに、武士と禅が結びついた要因があるのではないか。つまり武士にとつては、行住坐臥の日常の現実生活そのままのうちに生死を超えたところが要求される。現実生活のうちに支配している単純直截な情意とかその道義とかいふものが、ただの情意や道義といふ次元を突き抜けて生死脱落の次元にまで、いはば自己超越していなければならない」「そこに武士が禅といふものに結びついた理由があつたのではないか」(45頁)。

平安時代から鎌倉時代へのこの変遷を、仏教渡来や明治維新に匹敵するものと、西谷はここで捉えています。

この時代のこの受容のあり方が、中国における禅の受容とは異なった性格をまず形成した、と見られるわけです。「中国の場合では士大夫が禅と結びついたのであるが、その士大夫は日本の武士とは違つた感じで、禅との結びつきも何となく老荘的乃至は道教的な感じがする」「それは言葉でいへば虚無恬淡といふことでいいのかもしれない」「中国では文化人が結びつき、日本ではまづ武士が結びついた。そこに何か問題があるやうな感じがする」(45-46頁)。

とはいえ日本における禅も武士の純粋禅から次第に文化や生活の領域に浸透していく、とされます。そのあり方が汎・文化的な守護神(Genius)という考えによるものではなく、先述した立場から導かれる内発的なもの、具体的なものとされます。つまり禅の考えは念仏と異なり、否定と自力であり、「いつの時代でも人間自身の本質の中にいはば解脱への道が開かれている」。

そしてそれがさらに神道的な「清明心」との結びつきで説明されます。「「神」をうつしたやうな清明な心を持つて現実生活の仕事をやつてゆかうと願ふ方向があつたといふことである」「禅といふ立場は、一切を捨てて切るといふ絶対否定を含むといふやうなことを述べたが、要するに現実といふものをどこまでも踏まへて、そして自分の心や体の動き、技術や芸能や仕事の動作まで含めてすべてが自分のからだの動きや心の持ち方、さういふものにおける余計なものをみな切り捨ててゆくといふことである」「だから技能の場合でも、余計なものをみんな捨ててゆくことによつて、初めて最後にほんたうのものが出てくる。むしろ、すべてを捨てていつた最後に出てくるものが真実といふわけである。それで真実に達するさういふ方向、さういふ方向が、踊ることとかお茶を飲むこととか、弓を引くとか、或いは何かを製作するとかいふ、さういふ生活技術にも及ぼされる」「その場合禅が一貫した力になつている。いはば能動因であると同時に目的因になつている」「さういふ本質的な筋道の自覚とともに技術や芸能が「道」といふものになる。これはさきに言つたやうな、ただ守護神の加護を祈るといふやうなこととは非常に違つて、現実の仕事の行為、またそのときの仕事をするときの心の上に、技術や芸能の筋道が実現されなければいけないといふことで、技術や芸能が人間の「道」に化する」(50-51頁)。

また美学的な特質もここから導かれます。「清く明るき心、ピュアーでブライトな心、神道では直きといふことも申しますが、これはストレイト、真直ぐといふことであります。さういふ純粋で、輝いていて、明るくて、そしてくねくねしていないといふ感じ」「神の心のままに神の心の通りになつているといふことであります」(62-63頁)と、されています。

大雑把に言って、鎌倉武士によって受容された禅が次第に様々な側面に浸透していく過程で、日本土着の神道と混交され、独特の禅文化を形成していった、それが「日本的なるもの」、あるいは「日本の禅文化」、あるいは日本文化の特質と見做されている、そう言えるでしょうか。

もしかしたらそこには西谷自身の歴史性も、あるいはあるのかもしれません。美学的には禅の美学はミニマリズムの美学と並行的に見えますし、自力あるいは、能動因かつ目的因という論理の立て方も、モダニズムの論理のあるあり方と並行的に見えなくもありません。

2部の「「自然」といふこと」も、この論の延長で読めると思われます。「文化」が人為的なものとすると、「自然」は文化の対義語ということになるでしょう。その「自然」について、少し長いですが引用してみます。「「自然」といふものは、一面から言つたら、どうにもならないものだ、人間がいろんな作為をして動かして、自分の人為でかれこれする、といふ以上の何ものかである。虎は虎だといふ虎の「存在」に、花は花だといふ花の存在に人間がどうにも出来ないところがある。それが「もの」といふものだ、「もの」の実在性だ、それを無理にどうにかしようとしたら、虎は虎でなくなる、といふふうなことでもいいわけであります。とにかく虎はどこまでも虎であるとして受け取る。何でも存在するものは、そのものとして受け取る、といふことで、それが非常に浅い意味になりますと、所謂あきらめといふことになるわけでありますが、その場合のあきらめといふのは、例へば、単に外から一寸見ただけではどうにもならないといつて、虎を手放しにするといふふうなことです」(223頁)。ここで言われる諦めは、平安貴族的な諦念あるいはニヒリズムと関連付けらるようなもので、つまり「無常観や諦めといふやうなものは、芸術的或いは宗教的には色々な形で特に平安期において非常に発達したわけでありますが、しかし自然といふものの深い感覚といふことから言へば、それはまだかなり浅い諦めといふことができます。徹底した諦め、本当に諦めるといふ処まで行つていない」「さういふ処まで深まつてゆくのは、日本では多分鎌倉時代から中世にかけて」(226頁)とされ、この論理の展開は前に見た論理の展開と平行しています。

さて、この少し前で西谷が引くいわば鎌倉的な否定の肯定、人馬一体の論も、少し長いですが引用しておきましょう。「馬は馬であり、人は人でありながら、そこにはやはり馬と人とが一つである、一体だ、といふこと、さういふことが良いとされる。その「一つ」だといふこと、つまり馬が、乗せているものをいやいや乗せて、重いと感じてあへいでいるのと違つて、馬が本当に馬のnatureといふものをフルに発揮して走つている。馬に乗る人の理想といふものは、つまり馬のnatureをフルに発揮させることである。おそらく、馬を本当に飼ひ馴らすといふのは、いはば野生の馬では発揮されないやうな、野生の馬自身では発揮できないやうなかくれた能力、馬の本性natureに含まれている能力、といふものを発揮するやうに、あるいはさういふ能力を引き出すやうにすることであり、又馬に乗るといふこともさふいうことになる」「馬のネイチャアを馬だけでは出来ない以上に発揮した馬であるといふこと。それがまた、人が人自身であ」(224-225頁)る。

この人馬一体の話は、ドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』でも引かれていたような気がします。もう一点、英語の制作(pro-duce)というのも、「前に・引き出す」というような意味だったような気がします。

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