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2010年7月

2010年7月10日 (土)

AMERICAN ARCHITECTURAL HISTORY, A CONTEMPORARY READER, ed by KEITH EGGENER, Routledge 2004

Richard Guy Wilson“Architecture and the reinterpretation of the past in the American renaissance,”James F. O`Gorman“The prairie house,”Anthony Alofsin“Wright,influence, and the world at large,”Margaret kentgens-Craig“The search for modernity, America, the International Style, and the Bauhaus,”

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引き続き以前読んだものの再読。最初のものは南北戦争終結から第二次世界大戦が始まるまでの「アメリカン・ルネサンス」時代の建築についての概観。この時代の建築はこちらのアメリカ建築史の教科書では一頃のポストモダン思潮と並行的に評価されており、日本で言えば明治大正昭和戦前期にあたるこの時代は平和で安定していたこともあって、ここでも穏やかな解釈が加えられている。

「アメリカン・ルネサンス」という時代区分同様この時代のアメリカ建築の主流はルネサンス建築にあり、そこにはルネサンス(あるいはルネサンスを通した古典主義)の文明遺産を自ら継ぐという意図があったことが、まず冒頭で確認される。時代区分としては前期(1870-1887)、高期(1887-1917)、後期(1917-1938)と整理され、文化的背景としては、穏健な伝統、コスモポリタンな視点、それに国民文化アイデンティティの探求という三側面があげられる。アメリカにおけるルネサンス研究は1860年のジェームズ・ジャクソン・ジャーブスの『イタリアの古巨匠』では否定的なものだったが、1870年代にはウォルター・ペーターの『ルネサンス研究』(1873)、ジョン・アディントン・シモンドの『イタリア・ルネサンス』(1877)、ヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンス文明』(1878)等が大西洋を渡り、この時代にアメリカにおけるルネサンスに対する見解が好意的なものへと変わっていったことが指摘されている。

先にあげた三側面のうち、穏健な伝統とコスモポリタンな視点がMMWの二人の建築家で例にあげられているのは興味深い。マッキムはもともと穏健な性格でまたルネサンスのブラマンテ同様建築を高い文明のしるしと考えており、一方ホワイトはパリのカフェの常連であったという。

三側面の最後のもの、国民文化アイデンティティの探求においては、ボザールと(反・古典主義者の)ヴィオレ=ル=デュクの影響が指摘されている。「それぞれの国民は、もっと正確にはそれぞれの文明の中心は、無視できないそれ自身のgeniusを持っている」(ヴィオレ=ル=デュク)という考えには、1860-70年代にボザールで歴史を教えていたイポリト・テーヌからの影響があったことも指摘される。ここからアメリカン・ナショナル・スタイルという側面であげられるのは、リチャード・モリス・ハントの弟子でアメリカにおけるヴィオレ=ル=デュクの紹介者であったヘンリー・ヴァン・ブラントである。そのヴァン・ブラントのパートナーであったウィリアム・ウェアは言わずもがなMITとコロンビアに建築学校を創設したアメリカにおける建築教育の草分けでもあった。

いずれにせよアメリカン・ルネサンスの視点から四つの強い影響が生じたという。四つとは、近過去の否定、ナショナル・イメージを探求するナショナリスティックな傾向、ルネサンス文化にアメリカを接続させる視点、そして過去の折衷的ソースに科学的探究を適用すること、である。最初の影響においてはヘンリー・ホブソン・リチャードソンまでが否定されたという。

この長く「穏健」で平和なアメリカン・ルネサンスという時代は最終的に第二次世界大戦の勃発とモダニズムの台頭によって終わる。しかし以前こちらの本を読んだときも思ったことだが、一見すると穏健で平和に見えても実際には長い時間をかけて次の時代が、この時代を通して準備されていったのではないか。

二つ目と三つ目のものはライト論でもある。まず二つ目の方。

ライトはこれまで先行する建築家としてルイス・サリバンの影響が言われてきたが、ここでは(ロマネスクを得意とした)ヘンリー・ホブソン・リチャードソンとの関係がまず指摘される。さらに「リチャードソンがペイン邸においてたまたま広く連続した室内を形成したとすれば、ライトはいまや意図的に一貫して拡張する室内を形成する」(274頁)とされ、さらに続けて「二人とも英米におけるアーツアンドクラフツ運動という背景において議論されねばならない」「リチャードソンは彼の図書館や裁判所から判断できるように(彼が蔵書していた)ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスといった前・工業化時代のイデオロギーに根ざしており、他方ライトはC.R.アシュビーや他のアーツアンドクラフツ関係者との関係が強く記されているものの、機械や構造生産品(について語るの)を避けている。フルハウスでの1901年の講演「機械のアーツアンドクラフツ」は、世紀の変り目におけるライトの二面性を示す証拠として引けるかもしれない」「一面ではサリバンやリチャードソンの目を通して19世紀を用心深く見ており、他方では台頭しつつあるアメリカの工業による機械や構造の変容をきわめて受動的に見ている」「建築的には結局、リチャードソン的な箱をプレーリーハウスによって開放(彼ののちの言葉では「破壊」)ことになる」(274頁)。

三つ目のものは文字通りライトの影響について論じたものである。先のものでは世紀の変り目にフィラデルフィアで発行された『レディーズ・ホームジャーナル』があげられていたが、ここではまず1950年代の『TIME』や『LIFE』、『ハウス・ビューティフル』、『ハウス・アンド・ガーデン』といった大衆誌が言及されている。一方でドイツの建築家に決定的な影響を与えたとされてきた有名なヴァスムート・ポートフォリオについては、「欧州では限られた部数しか流通していなかった点でこれの影響は疑問である」「さらにクノ・フランケはヴァスムートの件のキープレイヤーではなかった」「このことは1910年以降のライトの欧州への影響と矛盾しない。オットー・ヴァークナーは1911年に学生にライトのモノグラフを見せ、研究に値すると述べた。ル・コルビュジエは知らん振りをしたがオーギュスト・ペレからSonderheftを一部貰っていた」云々。

もっとも続けて「ヨーロピアンには他の経路もあった。ヴァークナーの弟子だったイアン・コルテアがかんでいたチェコのVolne Smeryや、1911年にアメリカを訪れたオランダのヘンドリク・ペトラス・ベルラーヘらである」。そしてコルテアの許からアントニン・レーモンドがタリアセンにやって来る(が、レーモンドがライトを知ったのはアメリカ到着後だったという)。さらにシンドラー、ノイトラ、CIAM創設者の一人ヴェルナー・モーザーらがタリアセンにやって来る。もっともライトの欧州における「誤読」もまた指摘される。「バーンズドール邸やドーニー・ランチのような富裕エリート層のための計画さえ含む、ライトのミドルクラス住宅の経済的解の探求は(欧州のモダニズトからは)誤読された」「(ライトの)影響は平面より立面に顕著で(アドルフ)ベーネによれば、その理由はライトの平面計画はつい最近になって理解され始めたからだという」「さらにベーネもまたライトに自分の見たいものを見た。屋根と装飾である」(286-287頁)。

最後のものはアメリカン・ルネサンス時代末期における、文字通りモダニズムへ向けての模索である。

「第一次大戦の結果の一つがアメリカ文化を定義したいという強い欲望だったとしても、この戦争はにもかかわらずアメリカをして欧州に開く結末をもたらした」(300頁)。アメリカン・ルネサンス時代、モンロー主義によって欧州に対して閉じていたアメリカはこの戦争の一撃で、欧州に開かれたということだろうか。「1930年代初頭まででアメリカは明らかにモダニズムに向かい始めたが、正確な方向はまだ見えなかった」(302頁)。

最後に有名な『インターナショナル・スタイル』展について言及される。これは逆説的にもグロピウスのデッサウ時代の本Internationale Architekturに影響響され(そしてそれに抗す)るものだったという。

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