« 2010年12月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月

2011年7月31日 (日)

“Function and Form(1),” “Function and Form(2),” “Growth and Decay,” KINDERGARTEN CHATS AND OTHER WRITINGS, Louis H. Sullivan, Dover, 1979

1

“Form follows function(形は機能に従う)”という有名な言葉は独り歩きしている感じあるが、その前後の文脈はどうなっているのか。

サリバンのこの言葉にある考えは新プラトン主義的と言える。サリバン自身はしかし、「新プラトン主義」とか「プロティノス」という言葉をまったく使わない。彼が使うのは“organic(有機的)”という言葉である。この時代の思潮の影響を受けていたと思われるが、彼が使うこの「有機的」という考えはこれら影響も含めて新プラトン主義の変形であったと言えるのではないか。

植物や動物を例にまずこう語られる。「外見は内的目的に相似する。ブナの形はブナの機能の目的と相似する。松の木もそうである。馬や蜘蛛もそうである」(43頁)。植物や動物、自然現象など一般に「自然」とされるものがまず例として述べられるのは注意していいかもしれない。さらに「形はあらゆるいかなる物、全ての場所全ての瞬間にある。ある形ははっきりしておりある形は曖昧、ある形は星雲状、ある形は具体的で鮮明、あるものは相称、あるものは純粋にリズミカル」「だが結局間違いなく非・物質と物質、主観と客観、無窮の大文字の精神と個別の心の関係を表している」「あらゆる物は生成衰退する。機能は機能から生まれ、今度は他のものに席を譲るか死ぬ。形は形から現れ、そして他のものがここからまた現れる」(45頁)と述べられる。アールヌーボーに特徴的な生成論が一方にあると言えるのではないか。

そして「纏めるなら目に見える全ての形の背後には何か生気あるいは目に見えぬ物があり、しかしそれ自身がまさに形として可視化される。言い換えるなら自然状態において形は機能という理由で存在し、そして形の背後にある何かは一般に創造的精神と呼ばれ私が大文字の神と呼ぶものの、宣言以外の何物でもない」(46頁)。新プラトン主義風に言い直すなら「形は機能のemanacio(流出)である」と言い直せるだろうか。

さらにここから全体と部分の関係が吟味される。

「結果、それぞれの部分がその部分の機能をはっきり表現すべきで、その機能はその部分を通して読まれ得る。よかろう。だがこう付け足せる。作品が有機的でなければならないとすれば、部分の機能は全体の機能と同じ〈質〉を持たねばならない。そして部分はそれ自身において、それ自身によって全体の質、その自己同一性に参与せねばならない」(47頁)。この部分と全体の関係もまた何とも新プラトン主義的ではなかろうか。この部分と全体の関係はさらにディテールにまで敷衍され、この思考が再び「有機的」と呼ばれる。

さらにこの「有機(的)」という概念について。「はじめにこの言葉と関連している組織(organism)、構造(structure)、機能、成長、発展、形という言葉の価値に留意せねばならない。生きた力の初発の圧力と、この不可視の力から生ずる構造や機構が、そこにおいて明確化され有効になることをこれら全ての言葉は暗示している。この圧力をわれわれは機能と呼び、この結果を形と呼ぶ。それゆえ機能と形の法則は自然界全体を通して分かち難いのである」(48頁)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月25日 (月)

“JENNEY AND THE NEW STRUCTURAL TECHNIQUE,”The Chicago School of Architecture, A History of Commercial and Public Building in the Chicago Area 1875-1925, Carl W. Condit, The University of Chicago Press, 1964

Img117_5

シカゴ派についての記述では必ず登場するあのフレーム構造の設計者、建築家ウィリアム・ル・バロン・ジェニーについてまるまる1章が割かれている。この建築家はコーリン・ロウの「シカゴ・フレーム」ではミース・ファン・デル・ローエとの比肩でわずか1行ほど言及されるに留まる。

よくお目にかかるあの写真とアイソメ図はフェア・ストア(1890-91)のものである。鋼鉄柱に大梁と小梁をを渡してコンクリートスラブを打ち、スラブ上(またはスラブ下)に配管配線スペース、耐火被覆(外部ではテラコッタ、内部ではプラスター)を行うというのは、原理的には今日にいたるまでそれほど変わらない。冒頭で著者はこのシステムの発明を12世紀におけるゴシックの構法の発明と比肩している。

ジェニーのフレーム構造について著者は二つの参照源を挙げている。一つはニューイングランドの木造建築である。もう一つはこの建築家のパートナーでもあったウィリアム・B.マンディーが語ったものとして、ジェニーの父親は捕鯨船乗りでそのためジェニーはフィリピンで過ごしたことがあり、当地での建物のフレーム構造にこれは影響されたというものである。ゴットフリート・ゼンパーの「カリブの小屋」、フランク・ロイド・ライトの「日本建築」、そしてこのジェニーの「フィリピン建築」と、海洋性結構が近代建築に与えた影響を再確認できるだろうか。著者によればさらにこうした結構は新石器時代に起源を持つと言う。

コーリン・ロウも言及していたファースト・ライター・ビル(1879)は著者によればほとんどグラスボックス(それがロウがミース・ファン・デル・ローエと比肩した理由でもあろう)である。スパンドレルはまったく消去され、床上から天井下までがグレージングとなっている。

ただし各ベイにはピラスターが残っている。そしてこれらピラスターはやがてブレースにとって変わられていく。続くホーム・インシュアランス・ビルではしかし構造とファサード・デザインの装飾との関係から著者はいささか辛い評価を与えている。また著者も示唆していることだがジェニーのシステムはのちのスカイスクレーパーの構法に与えた影響という側面からも見ることができるだろう。こののち彼はあのシアーズ・アンド・ローバックの設計も手掛けることになる。

鋼鉄はまだ高価なもので当初のシカゴ・フレームは鋳鉄と鍛鉄によるものだったが、世紀末にかけて鋼鉄によるものが建設されていく。1893年のイザベラ・ビル(11階建)は鋼鉄フレームに耐風圧用に膝当型ブレースを用い、これはまたアメリカにおいてこのタイプのブレーシングの最初のものであったろう、と述べられる。この小さなブレーシングはRC造ラーメン構造ではハンチに翻案されるのではなかろうか。「歴史家はジェニーを文句なしに賞賛というわけにはいかないがしかし、アメリカ建築史において大きな位置を永久に占めていることを決して否定できない」(94頁)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月23日 (土)

“ADLER AND SULLIVAN,”“ARCHITECURE IN THE NINETEENTH CENTURY,”The Chicago School of Architecture, A History of Commercial and Public Building in the Chicago Area 1875-1925, Carl W. Condit, The University of Chicago Press, 1964

1

気になってシカゴ派についての古典的な書であるカール・W.コンディットの著作の「アドラー+サリバン」の章をざっと読んでみる。リチャードソンからの影響関係はまったく記述されていない。概説書ということもあってシカゴのブックショップで売られている(あるいは売られていた)シカゴ派建築についての記述と同じ程度のことが一通り述べられるに留まる。コンディットの書は冒頭でも著者自身によって明記されているが、技術を主題として記述した概説書である。半世紀前の建築史のいわば教科書。

ところでサリバンの晩年について。

1893年のシカゴ・コロンビア万博は、大西洋のオーシャンライナーでニューヨークに着いた西欧の観客をさらにアパラチア越えの鉄道でシカゴまで運ぶと言う、当時の西欧の組織的到達点としては最先端かつ最西端であったシカゴをプレゼンテーションするものであった(ロサンゼルスの台頭は20世紀に入ってから。また日本は「日清戦争」によってようやく世界史に登場したところ)。ところが建築的には東部の建築家をはじめとしたボザールの圧勝となり、これによってシカゴ派はかえって沈滞、いわんやサリバンをや、というのがこれまで一般的な解説ではなかったかと思う。

冒頭の19世紀米国建築を概観した章はホレーショ・グリーノウやラルフ・エマーソンらとの関係が基本として一瞥される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月16日 (土)

JAMES F. O`GORMAN, THREE AMERICAN ARCHITECTS RICHARDSON, SULLIVAN, AND WRIGHT 1865-1915, The University of Chicago Press, 1991

1

著者のジェームズ・F・オゴールマンはヘンリー・ホブソン・リチャードソンについての著作があり、本書でも全体を通してリチャードソンは通奏低音のように続く。また最終章の「プレーリー・ハウス」は昨年710日のアンソロジー(こちら)に収められたものと同じである。

ヘンリー・ホブソン・リチャードソン、ルイス・ヘンリー・サリバン、フランク・ロイド・ライトという3人の米国の「国民的建築家」について、” muse, master, and man”というルイス・マンフォードの言葉をなぞりながら冒頭で簡単な見取図が示される。言わずもがなミューズはリチャードソン、マスターはサリバン、そしてマンはライトである。あるいはこの3人は米国建築史におけるホップ、ステップ、ジャンプのような存在とも言い直せるだろうか。リチャードソンが早世し、サリバンが晩年廃人となり、そしてライトによって二人が目指したものが最終的に実現された、と素描するとできすぎた物語構造になるだろうか。

各建築家に2章ずつ割かれ、全体は計6章からなる。

冒頭の「ピクチャレスクの訓育(Disciplining the Picturesque)」はリチャードソン以前の英米建築を風靡していたピクチャレスク・エクレクテイシズム(別名「ビクトリアン・ホラー」)を、リチャードソンがいかに訓育したかが述べられる。このいわば雑多なごった煮をリチャードソンはいわば原始的なものへの回帰によって超克しようとしたといえる。とはいえリチャードソン自身、様式建築を放棄するわけはなく、リチャードソニアン・ロマネスクと呼ばれる独特のロマネスク様式でそうしたのだった。その特質は柱や壁、マスやボイドといった基本要素の強調、静謐さ等である。さらに述べればこれら基本要素は20世紀モダニズムの基本語彙でもあろう。

また同時代者であるM.M.W.との相違も指摘される。M.M.W.もリチャードソンもともにヨーロッパの建築語彙を用いてアメリカの建築を造る点では同じだったが(M.M.W.もリチャードソンもボザールで教育されている)、M.M.W.がアメリカン・ルネサンスと呼ばれた当時の米国の状況を後期ルネサンスと位置づけ、ルネサンスの語彙で設計したのに対し、リチャードソンはあくまで中世的あるいは「原始的な」ロマネスクでそうしようとしたのだった。本書ではエマーソンとの関連も示唆されるが、彼がルイジアナ出身のフランス系米国人であったこともロマネスクと関係しているのだろうか。

リチャードソンが後続世代に与えた影響も一瞥される。マーシャルフィールド商会ビルはサリバンらのオーディトリアム・ビルの原型となり、クレーン記念図書館やグレスナー邸などはライトに影響を与えたとされる。「だがより重要なことは、クレーン記念図書館、オールドコロニー駅、マーシャルフィールド商会ビル、グレスナー邸やポッター邸、エームズゲート・ロッジにおいて彼は自身のよく練れたしかしまた新鮮で多様な建築形態を当時の米国社会のために創造したということであり、とりわけルイス・サリバンとフランク・ロイド・ライトというよく似た目的を持った建築家たちに、その個人的でありまた不完全な遺産、まだ十分に極められていない可能性を残したことである」(67頁)。

言説少ないリチャードソンに対し、サリバンは多くの言説を残している。

サリバン独特のアールヌーボー装飾や複合形態に影響を与えたのはフランク・ファーネスだったことがまず述べられる。ファーネスに影響を与えていたのは当時の装飾理論、オーウェン・ジョーンズの『装飾の文法』(1856)、クリストファー・ドレッサー『装飾デザインの原理』(1873)、V.M.C.ルプリッシ・ロベール『花装飾』(1866-76)、そしてヴィオレ==デュクの『建築講話』(1863-72)だったという。

当時のシカゴは大火災のあと急速に都市化が進みつつあり、サリバンが手掛けたものの多くはオフィスや商業施設など広義の商業施設だった。「彼は骨組みをデザインしており、リチャードソンの作品例をきわめて一般的な方法でのみ適用できた。リチャードソンが決して直面することのなかった建物プログラムや構造テクノロジーに相応しい表現を明らかに探した」「これら事実は都市の建物をサリバンの秩序に合うよう求めた。つまり1、機械室を格納する地下、2、店舗のための地上階、32階は主にその1階の延長、4、上部は各階毎にオフィス、5、最上階はその終点であるとともに機械システムのリターンを格納、そして共通の玄関である」(97-98頁)。今日にまでいたる都市建築の基本構成であるとともに、古典建築の構成の反映であろう。

そしてライトによれば「ウェインライトのファサード・パターンをサリバンが見せたとき、リチャードソンからのブレークスルーだと(ライトは)気づいた。だがこうも言う。ファサードはサポーティングシステムと無関係と見えた」「ファサードは、とサリバンは書く。先の分析を反映すべき。高層ビルの外部表現はそのものの本性からしてその建物の機能に従う。機能が変わらないなら形態/形式も変わらない。これは建物内部の機能には有効だったかもしれないが、構造外殻を無視している」「ウェインライト・ファサードのこの両義性はギャランティー・ビル他にも当て嵌まることにライトは気づいていた」(98-99頁)

最終的に「シュレジンジャー+メイヤー商会(カーソン・ピリー・スコット百貨店)では上昇感を目的とすることは放棄され、アーチも採用せず、幅広の水平連続バンドとそのあいだに挿入された細い不連続な垂直線によるグリッドを形成した。これは彼のいかなる公式よりもほとんどフレームを強調した」(102頁)。

著者の立場からして結局、サリバンはリチャードソンとライトの繋ぎ役のような述べ方がされる。

最後の2章はライトについて。いくつか引用を。

「ウィンズロー邸はリチャードソンを基本としてサリバンのタッチを取り入れており、明らかに独立直後、先行者の作品への関係を表している。リチャードソンの静謐な形態を消化するとともにサリバンの装飾アクセントを採用したのである」(124頁)。

1901年の『レディーズホームジャーナル』上の有名なプレーリーハウスの記事について述べた部分では、この建物の多くの部分が、リチャードソンに負っていたことが分析される。だがまたロビー邸について述べながら、「ライトの水平線の強調・・ロングスパン、長い片持梁、十字平面、開放的な室内、プレーリーハウスに特徴的なダイナミックな三次元の形態構成は、リチャードソンに典型的な伝統的耐力壁による閉じたブロックとは無関係である」「これはもっぱら鋼鉄の使用で可能となり」「これはリチャードソンの時代では能わぬものだったのである」(140頁)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年12月 | トップページ | 2011年8月 »