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2011年8月

2011年8月20日 (土)

谷川正巳 『フランク・ロイド・ライトの日本、浮世絵に魅せられた「もう一つの顔」』、光文社、2004

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フランク・ロイド・ライトと浮世絵に関係をあてた新書である。ライトと浮世絵の関係は戦後まもなくに書かれたアルフレッド・バーの『絵画から建築へ』(1948)では日本の建築以上に浮世絵からライトは影響を受けたと述べられ、ケビン・ニュートの『フランク・ロイド・ライトと日本文化』(大木順子訳、鹿島出版会、1997)ではライトの建築と日本の建築形態、ライトの自叙伝中の文章とモースの文章が比較検討されていたように思う。またあとがきではジュリア・ミーチの『フランク・ロイド・ライトと日本美術、建築家のもう一つの情熱』(2001)が本書執筆の契機となったと書かれている。

いずれにしてもこれまで漠然と言われてきたライトと浮世絵について光があたり始めたということであり、本書でも多くの頁を割かれているボストン美術館コレクションの元となったスポールディング兄弟のものを含め、ライト自身が豪語するように「アメリカ合衆国にある主要な浮世絵は私が蒐集した」というのは誇張でないほどの関りぶりだったということである。

ライトの浮世絵やジャポニズムとの邂逅は最初に就職したシルスビー事務所においてで、さらにシルスビーはフェノロサの友人でありライトはフェノロサに会ったことがある可能性があるが、ライトはしかしこうしたことは自伝では例によって周到に隠蔽しているのだという。

さらに浮世絵鑑賞の手ほどきをライトに施したのは執行弘道なる人物であるとされ、執行は佐賀藩士の出自で1880年にニューヨーク起立工商会支店長となり、ウィンズロー・ホーマーらとも親交があったという。他にも日本側でライトに浮世絵を通して関った人物が明らかにされ、またライトの最初の来日は1905年初頭で、箱根、日光、京都、奈良、岡山、松山などをまわったことが宿泊台帳や写真撮影の背景他から明らかにされる。翌1906年にはシカゴで最初の広重展を開いている。その広重展のカタログで序文を著し、また1912年には浮世絵論をライトは執筆している。興味深いところである。

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2011年8月13日 (土)

James F.O`Gorman, H.H.Richardson, Architectural Forms for an American Society, The University of Chicago Press, 1987

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ジェームズ・オゴールマンによるリチャードソンの評伝。全体は、1・生涯、2・作品、3・折衷主義、4・都市、5・田園、6、交通、7・遺産、の全7章からなる。

1では生涯の見取図が瞥見される。リチャードソンは47歳の短命だったが、元々あまり健康ではなく腎臓病が死因という。晩年の欧州旅行ではその腎臓病の権威に会ったり、ロマネスク建築を見たり、ロンドンでラスキンと会っている。

フランス留学時代に勃発した南北戦争以降、故郷である南部には二度と戻らなかったといわれる。ところで当時のボザールはフランス人と外国人とを問わず15-30歳で試験に合格すれば授業料無料で入学できたという記述も目を引く。

2と3ではリチャードソンの歴史的な位置付けが与えられると言っていい。当時(1850年代以降)の建築の二大潮流はイギリスとフランスのもの、前者は多彩色でピクチャレスクでビクトリアン・ゴシック、後者は第二帝政期の古典主義、そしてこの二者を追っていたのがドイツ系の丸アーチ・ロマネスク(Rundbogenstil、これはケネス・フランプトンの『テクトニック・カルチャー』でも一章が割かれている)であった。こうしたそれぞれの覇権と結びついた様式に対し、リチャードソンが依拠しようとしたものはフランス的なロマネスクである。

また19世紀前半は歴史様式(historicism)の時代だったのに対し後半は折衷主義(eclecticism)であっという時代背景が簡潔に纏められている。アメリカ合衆国においてはたとえば1820年代の公共建築はヘレニズムを髣髴させるよう造られることが多かったが、これはまさにその歴史様式との連想を惹起させるためだった。これが歴史主義である。一方南北戦争後はこうした単独の歴史様式はいかにも単純に見え、各様式を単一の建物において折衷する手法が主流となりだす。その代表はフランク・ファーネスである。

ヴィオレ=ル=デュクの翻訳者だったヘンリー・バン・ブラントの言説は示唆的である。「芸術は・・・派生や発展によって進歩すべきである。現代では建築のモニュメントも伝統も莫大となっており、問題はわれわれ(アメリカ人)がそれらを使うか否かでは全くなく、そこからいかに選択し、またそうした選択が今日の実践にどの程度影響を与えるかである」(63頁)。

リチャードソンの建築はこうした折衷主義との対比においてある。ロマネスクという「自らの選択に固執したことは、この様式が19世紀アメリカ建築の現地化にとって最良の可能性を持っているという彼の確信の深さを示している」(67頁)。

この点で最も影響力を持っていたのはトリニティ教会である。「トリニティにおいてリチャードソンは「リチャードソニアン・ロマネスク」を始め、この様式は一世を風靡した」(67頁)。

4、5、6は、南北戦争後大陸横断鉄道建設等によって発展したシカゴの都市、そしてシカゴや東部の郊外田園住宅地、さらにその間を繋ぐ鉄道施設という当時のアメリカの新しい建築類型においてリチャードソンの建築が吟味されていく。この時期「アメリカ社会は都市と郊外という領域に分化を始め、彼はそれぞれに適した建築的回答をしようとした」(72頁)。

20世紀のオフィスやホワイトカラー中間層といったものは、この時代のアメリカを通して形成されていったというアーサー・シュレジンジャーの『都市の登場』への言及は興味深い。

都市の章で取り上げられるのはマーシャルフィールド商会(1887)である。1ブロックまるまるから形成されるこの建物の参照元としてベネチアが示唆されている。

同じく大陸横断鉄道の敷設等による西部のピクチャレスクな自然への関心は、イギリス的なこの美学の現地化とともにあった。A.J.ダウニングの『北アメリカに適用されるランドスケープ造園論』(1841)はその典型の一つとされる。「アメリカの条件、アメリカの敷地、アメリカの素材に浸され内在化された文化の形をこれら著者たちは要求した。(さらに)エマーソンはSelf-Relianceで例えばこう問うた。なぜドリス式とかゴシック等のモデルを必要とするのか?」(92-3頁)。

さてこの章を代表して吟味されるリチャードソンの作品はエイム邸(マサチューセッツ,1881)およびエイム・メモリアル(ワイオミング1882)である。いずれも粗石によるピクチャレスクな表現が特徴的である。

交通の章はまさに鉄道の駅舎を扱う。都市から遠心していく郊外が寝室となり、萌芽期の都市中心に業務が積み上がるという、南北戦争後の典型的な問題の一つが通勤だったという。

リチャードソンの駅舎のデザインではそれまでの時計塔のような垂直な語彙は放棄され、鉄道に沿うよう水平性が強調され、また多くは田園にあるためその環境と微妙に呼応するよう緩い勾配屋根のデザインが腐心されたという。「その結果はこの建築家の作品に特徴的な静かで記念的な扱いとなった」(114頁)。

7・遺産ではその後に与えた影響が検証されている。アメリカ以外ではドイツへの影響が言われ、後続の建築家では言わずもがなサリバンとライトへの影響が検証される。サリバンのオーディトリアム・ビルについて「サリバンは初期ドローイングにあったピクチャレスクなシルエットを一掃し、建物を濃密なブロックへと還元し、リチャードソンがマーシャル・フィールド商会ビルのファサードで採用したソリッドとボイドの関係を借りてきた。これがその後のサリバンにおけるリチャードソンの影響の始まりである」(130-131頁)と、述べられる。

ライトについて。「ここ(ウィンズロー邸)においてライトはリチャードソンの駅舎や図書館に派生するイメージを統合した。外部は水平の三層積層に組織される・・・・」(137頁)というのは、グレスナー邸との関係で見た「箱の破壊」の一歩手前といったところだろうか。

さらにリチャードソンのグレスナー邸外壁デザインと、ライトのV.Cモリス・ギフトショップ(カリフォルニア、1949)との関係も一瞥される。

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