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2011年10月

2011年10月 3日 (月)

ブレンダン・ギル、『ライト仮面の生涯』、塚口眞佐子訳、学芸出版社、2009年

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メモ

「一般に20世紀の自叙伝作家は子供時代に過剰にページを割きがちである。この点からもサリバンのケースは特に注目に値する。彼は後年The Autobiography of an Ideaを出版する。世に生まれ出たその瞬間から、いかに気高い赤ん坊であったか、妄想にとりつかれたように長々と記述している。彼の誕生もライトと同じく警戒に値しそうなことがらが渦巻いている印象がある。その上、これは確信できる説であるが、ライトが誕生に関連したいかにもありそうな話をでっち上げる気になったのは、サリバンに誘発されてのことである」(58頁)

Ideaでサリバンはメイジャーのことを、パーティー大好き人間で開催も参加も頻繁、料理とワインの鑑定家、とびきり上等の会話上手、と陽気に描写している。サリバンがわれわれに期待した自己イメージ、華やかな像のその度合いは、公平に見てメイジャーと同等では、と勘ぐらざるを得ない。不当でないなら、次のように疑うことさえ無理ではない。すなわち、サリバンがメイジャーを茶化した扱いにせざるを得なかったのは、直接的にも間接的にもメイジャーは自分の理念の主な源の一人、というのが理由で、その理念は完全に自分独自のものと認識されたかったのである。形態は機能に従うという、という主旨の大事に温めた理念である。毛並みがよく裕福な東部人のジェニーは、ハーバード大学のローレンス・サイエンティフィック・スクールに入学、ずいぶん後にチャールズ・マッキムもそこで学んでいる。工学のコースに飽き足らずにパリに行き、エコール・サントラール・デ・アール・エ・マニュファクティールに入学、1856年に優等で卒業する。サリバンはメイジャーを単なる技術者として片付けてしまっている。しかし、エコール・サントラール・はヨーロッパでは、どの点をとってもボザールと並び、優秀でプレステージが高く評判を呼んでいた。メイジャーはエコール・サントラールで3年間学び、工学とともに建築のコースも受講、これは当時のアメリカで事務所開設に問題なく十分な資格だった。事実、唯一のライバルはリチャード・モリス・ハントではないかと言われていた。ハントはアメリカ人として最初にボザールで学んだ建築家だった。彼がパリで過ごした時期はジェニーと一致する。二人がともにニューイングランド人で、同じ階級に属し職業的関心が同じであったことを思えば、パリに存在した小さなアメリカ人ソサエティのメンバーとして出会わなかったのが不思議であるが、出会った記録は残っていない。40年後の1893年シカゴで開催のコロンビア世界博で二人は共に働くことになある。当時、全米ではないとしても、ジェニーは西部を代表する一流建築家の一人でハントは東部を代表する建築家であった。

カール・W・コンディットが私に語ったことだが、エコール・サントラールでジェニーはルイ・シャルル・マリー教授の建築論の授業に出席していた。この教授はエコール・ポリテクニクでジャン・ニコラス・ルイ・デュランの弟子にあたり、半世紀も前に「建築物に具体化された構造システムは、建築の芸術性において、形態に現れた建築デザインと相互依存性がある」という教義を公式化した人物である。建築のデザインプロセスとは、マリーの論に従うと、「構造技術を応用して、結果として平面計画と形態表現の一致を表明すべきもので、また逆に、平面と形態の一致のプロセスは、建設材料や意図した機能から展開したものでなくてはならない」となる。コンディットは、ここから演繹し、「ジェニーが後にシカゴの事務所に導入した経験主義の実用的な精神は、直接的または間接的にフランスの理論家から浸透したものである」(Macmillan Encyclopedia)とする。」65-66頁

「サリバンと同じくライトも、構造という職務を、必要だけれども実用的で補助的なものと見下げていた。1930年代、物理学中心の建設手法に「美的連続性」を導入する願望についてライトは書き記している。「変革はゆっくりだった。なぜなら、従来の柱と梁を打破するために、エンジニアから助けを得られなかったからである」と文句を言い、続けて厳しく糾弾している(78頁)。

「ライトがダーウィン・D・マーティンに1903年に設計した住宅は、「大草原に建つ家」というタイトルで『レディス・ホーム・ジャーナル』誌に掲載用に1901年に設計したものと、驚くほどそっくりであった。この掲載はフィラデルフィアのカーティス出版社のエドワード・ボックが前年に旗揚げしたプロジェクトの一部である。彼はアメリカの住宅のデザインの向上、特に機能性と衛生面の向上に心を傾けていた。ボックはスリーピング・ポーチや、サニタリー・バスルームルーム、キッチン、そして人間的な広さの召使いの寝室の擁護者だった。『レディス・ホーム・ジャーナル』誌に建築家を集め、数十万の読者の手の届く住宅を掲載し、実施設計の完全セットを1セット5ドルで提供することを企画したのである」(136頁)

「ヴィクトリアン盛期の見方では、芸術家というのは、ある種、聖職者と売春婦がミックスされたものである。ライトが例のない修辞法ながら語っているのはその例である」(155頁)

「発信地を示す行はスプリング・グリーンとなっており東京ではなかった。オリジナル文書はタリアセン・アーカイヴでは発見されていない。少なくともライト自身がその電文を書き、ロサンジェルスに届くようアレンジした可能性がある。レイモンドによれば、ホテルは幾分被害を受けたという(比較的軽微であった。これは事実である)。歴史にとってもっと重要なことは、東京にある鉄骨造の建物は圧倒的多数があっさりと持ちこたえることができたこと、地震に対しては、ライトの「浮き」基礎に対抗力がなかったことは、他の鉄骨造建造物の従来的な基礎とさして変わらない、ということであった。さらに、ホテルは巨大な重量のため、この後の年月のうちに、安定しないコンクリートのマットの上にあって沈下し続け、場所によると4フィートに及ぶところもあった。この沈下に直面する中、ホテルの基本的な施設維持の高コスト性が、取り壊しの主な理由であった。どのように見ても、ライトが言明したようなエンジニアリングの驚異ではなかった。」(249頁)

「(ハンナ)夫妻がスタンフォード大学に譲渡したのは1974年で翌年に転居している。1977年、夫妻のプロモーションと日本の友人である日産自動車株式会社のおかげもあり、50万ドルが基金に寄贈された。この寄贈はライトの生涯にわたる日本文化への支持に敬意を表するものであった。」(369-370頁)

「ミース(ライトよりほぼ20歳下)には「年寄りミース」と言い、ル・コルビュジエには「画家というべきだ。程度の悪い画家だ。でも、続けるしかない」、そして国際的に成功している設計事務所スキッドモア、オウィングス+メリルには、スキッディング(没落の道)、オウンモア(もっとある)だと、スターライル(不作)」だと、とあざけり、その他頭に浮かぶ敵を嘲笑していたのである。」(432-433頁)

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