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2011年11月

2011年11月 3日 (木)

“Towards Modern Architecture,” The Brown decades, A Study of the Arts in America 1865-1895, Lewis Mumford, Dover Publications, Inc., New York, 1931

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いわゆるアメリカンスタディーズである一書の中の一章。ジェームズ・オゴールマンによるThree American Architectsの元となった章と言っていい。リチャードソン、サリバン、ライト、という流れで明確に書かれ、かつ三者が米国の「国民的建築家」として位置づけられている。また本書の書名であるThe Brown Decadesは南北戦争終結後のアメリカンルネサンス前半を指しているが、その戦後と本書が書かれた「第一次大戦後」との重ね合わせも示唆されている。

冒頭はこの時代初期の、掉尾はこの時代直後の状況をうまく纏めている。米国の都市化は南北戦争終結とともに加速し、北部の都市部では地価が高騰、都市住居は小さくなりしまいには薄暗く換気の悪い部屋が並んでいく。いわゆるスラム化であるが、当時これは全く問題とされていなかったと言う。また共同住宅ではチョコレート色の砂岩でファサードを覆う一方、オフィスやデパートでは鋳鉄がモダニティと同義となったとされる。

19世紀中葉、鋳鉄とガラスによる建物が眩しく見えたことは想像に難くない。1848年にニューヨークにジェームズ・ボガーダスによって建てられた5階建のビルが、その嚆矢だった。ボガーダスはさらにこの構法を解説するパンフレットを作成さえしたという(50頁)。こののち1875年まで鋳鉄ファサードは一般的なものとなったが、ボガーダスがなした以上の改善は施されなかったという。著者はさらにボガーダスを同時代パリの市場建築の技師、ロンドンの水晶宮におけるパクストンと比肩している。また圧延加工された鉄材の梁はピーター・クーパーによるトレントンでの工場で1854年に最初に用いられたという。南北戦争前においてはいずれにせよ、来る工業化時代の建築が鉄を用いたものになることが漠然と語られていたに留まったとされる。「建築は1820年代以来下り坂だったが、1860年までに最低のものとなった。工業化社会と都市と建物の全ての新しい宣言の前で、「醜悪」という言葉は避けがたいものとなった」(51頁)。

何度か繰り返されることだが、近代建築(Modern Architecture)はこの時代(The Brown Decades)に起源(beginning)を持つとされる。オフィスや工場やホテルといった新しい都市の要求や可能性にいかに回答を与えるか、というところでヘンリー・ホブソン・リチャードソンが召喚される。

「リチャードソンは近代生活と総合的に向き合おうとしたアメリカの明らかに最初の建築家であり、ボストンとオルバニーの駅の設計を1881年に始めるや、すぐさま建築の新しい概念に向かった」(53頁)。「教会や学校をゴシック、公共建築をルネサンスとし、工場やオフィスや駅舎を美的観点を持ち合わせない技師や施工者に任せることは「ビクトリア朝時代の妥協」の一つだったが、リチャードソンはそれを拒否した」(53-54頁)。

「ルネサンス・デザインにあるような窓を反復単位と扱うことを放棄し、内部の展開の統合点とすることは、どの建築家よりおそらくリチャードソンに帰せられる。ファサードの純粋形態上の要請ではなく、内部の必要から窓をどこにどの大きさで配するか、ということである。シカゴのグレスナー邸ではL型隅部のファサードにおける窓を極小としたが、これは通りの埃や騒音を避けるためだった。図書館では書架に十分な光が供給されうまく扱われるようにした」(54頁)。「ハーバードのオースティンホールの窓で、彼は機能主義建築の標準を確立した」(54頁)。リチャードソンと同時代の芸術家と建築家はセント・ゴーダン、ラファルジ、そしてリチャード・モリス・ハント、である(55頁)。

だが「リチャードソンは石造から鉄フレームへの移行がなされる前に亡くなった。その第一段階を超え、その力に満ちた男性的想像力を適用するには、彼の死は早すぎた」(59頁)。またM.M.W.900ブロードウェイビル(1886)とリチャードソンのジョン・H・プレイ・アンド・カンパニー・ビル(1886)の関係も言及される。

リチャードソンがシカゴ派に与えた影響から、シカゴ派へとここで話が移っていく。当時の批評家モンゴメリー・スカイラーの『アメリカの建築』では、最も優れた高層ビルはモナドノックビルであるとされたという。「彼は正しい」(61頁)。「スカイラーのモナドノックビルについての言葉はかくも的確でかくもノイエザッハリヒカイト一般に適用可能なのでそれを引用せねばなるまい。「単なる箱、単なる蜂の巣以上の何物でもなく単なる工場と見紛う」」「これは物自体を見ていると言わざると得ない」「極端な厳格性にもかかわらず、表現的かつ印象的なはっきりした建築作品を生産すること」(62)

二人のシカゴ派の建築家、ドレーク・アンド・ライトはエアチャンバと耐火被覆を持ったスチールの骨組構造に貢献し、ウィリアム・ル・バロン・ジェニーのホームインシュアランスビル(1885)で、これは明確に表現されたという。外壁は支持材に変わって互いに支持しあう耐火壁である(62頁)。

ミネソタの建築家L.H.バッフィントンは鉄骨骨組構造の特許を出願するが、却下されている。摩天楼と鉄骨骨組造も同じものではない(63頁)。

続いて召喚されるのがルイス・ヘンリー・サリバンである。「彼をアメリカ建築におけるホイットマンと呼べるかもしれない」(65頁)。「ホイットマン曰く、物語(romances)は最早必要ない。事実と歴史に語らせようではないか」(66)。「この頃までにサリバンとルートは時代の頂点に乗っていた」「1891年、ルートが逝去、そして95年にサリバンとアドラーは会社を割る。これが不運の始まり」(67頁)

「ルート同様、サリバンは高層オフィスビルを理論化し、セントルイスのウェインライトビル(1891)、バッファローのプルーデンシャルビル(1892)、シカゴのシラービル(1891)とゲージビル(1898)でそれを試みた。彼の分析を吟味してみよう「実践上の考慮」と1896年の『リッピンコッツマガジン』誌でサリバンは言う。「概してまず、地下はボイラーや様々なエンジン、つまり動力や熱源、照明その他の工場。第二に地上階はいわゆる店舗や銀行といった、大面積や大きな間隔、強力な光、自由なアクセスを必要とするその他のエスタブリッシュメントのために。第三に、階段ですぐにアクセスできる2階には、ガラスや大開口を持った素材による大きく分割したスペースとそれに対応する自由な構造を。第四に、この上部にはオフィスが積み重なる。これらオフィスは単なるコンパートメントからなる蜂の巣以上の何物でもない。第五に、最上部にはアティックが来る。最後に、地上階には主開口あるいはエントランスホールが来る」(68)。「それで高層オフィスビルの主たる性格は何か?即答すれば上昇性(lofty)である。この上昇性は芸術家気質にはスリリングな側面である」(69)。「サリバンは摩天楼の垂直性を強調した最初の建築家の一人である。ウェインライトビルでは必要ないにもかかわらず主柱のあいだに付柱を挿入することでこれを強調した」(69)

「鉄の篭構造はそれ自身では垂直構法システムとは関係ない。それはむしろ分節された立方体システムである」「垂直性を強調したい誘惑は付柱やマリオンの使用に至る。これは石造を示唆する一方、カーテンウォールはその薄い皮膜でプレイビルや900ブロードウェイで先取されるように構法を表現する。繰り返すなら、垂直線は下二層における連続した窓スペースと摩擦を起こすのである。故にサリバンの摩天楼では基壇部での水平強調は上部における垂直性の強調と対立する。結果、ウェインライトでのオーバーハングした笠木やプルーデンシャル頂部での奇妙な曲線は基壇、柱、柱頭という古典概念のようでもある」(69)

そして多くそう語られてきたのとは裏腹に、「サリバンにとって装飾は多く個人的領域に属していた」(70頁)と語られる。「彼の作品のほかのどの部分にもまして同時代と無関係であるなら、19世紀建築における「個人性」や「個性」の希求は崩壊の最後の段階にあったのであり、というのも建築は社会芸術であり、集団的に成就されねばならないものだからである。「個人性」は共通規則にはなり得ない。それは共通規則が確立した後の還元不能な残滓物に過ぎない」(70)

「ではサリバンの貢献とは何か?彼は都市/文明との関係を意識的に考えた最初のアメリカの建築家だった。リチャードソンもルートもこの点でいい嗅覚を持っており、実際効果的にそれを見せた。だがサリバンは自分のなすことを承知し、さらに重要なことはすべきことを承知していた。「一度悟れば」と彼は書く。大なり小なり不出来や出来の単なる芸術ではなく、それは社会的宣言であり、批評的な目でよく見え、よく見えなかった現象が輝きだすものである」(74)。「建築家の仕事は近代社会の諸力を組織し、建物の造形性と利便性という形で表現することで、それを人間のために馴致することであると見ていた」(74)。このあたりはマンフォードらしい評価と言うべきであろうか。

フランスに留学した経験のあるサリバンは「フランス思想の古典的ディシプリンを吸収し、ミシュレやホイットマンやテイヌやダーウィンや、こうしたロマン主義的科学的そして古典的衝動の混合によって、環境に作用する特別な力を得た」(75)。最終的に、「サリバンはリチャードソンとフランク・ロイド・ライトという二人の巨匠を繋いでいる。ライトの建築の展開とともに、この移行は完遂される。アメリカの近代建築が、まさにそこに生まれるのである」(75)として、ライトへと話が移行していく。

ライトとマンフォードの関係からして、ライトについての記述はここでは端折る。最後に、The Brown Decades後のことがいくつか言及されるのが興味深い。

近代建築はヨーロッパにおけるアジェンダを抹消して単なるスタイルとしてアメリカに「輸入」されたと記述されることがある。だがそれは一面に過ぎないし、事情はもっと複雑である。

最後に述べられるのはこの章が書かれた直前、20世紀における最初の20年におけるアメリカの状況についてである。この20年において建築は大きな変化の入口に立っていたと述べられる。「記念的建物や個人的構造は最早建築家の問題ではなくなっていた」「新しい方向がやってきた。都市と郊外の再生であり、全体へと統合する新しい共同性の展開である」(79)

そしてその具体的な試みとして述べられるのが、西海岸におけるアービング・ジョン・ギルとバーナード・メイベックの仕事である。思想的にもデザイン的にも、モダニストはもうそこまで来ていたのである。

そしてこれらのことが、The Brown Decadesに起源を持つことが再度確認される。

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