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2011年12月

2011年12月26日 (月)

ルイス・マンフォード『都市の文化』生田勉訳 鹿島出版会 1974

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原著は1938年の出版である。つまりニューディール時代に書かれている。訳者の生田勉によれば原書は戦後復興計画の指針の一つとなったといい、終章あたりではのちのWelfare-stateやケインズ体制の基本ともいえる記述が確かにある。

本書に先立って書かれた『技術と人間』における技術の発展段階におそらく対応したと思われる都市の発展段階に沿い、中世から20世紀にいたるまでの都市史とそれに続く展望として、全体は構成されている。

「保護と中世都市」と題された第一章は題名通り中世の都市を主に軍事と商業の観点から分析したものである。初期中世都市の郭内人口の8割は生産者、つまり定期市を開いたりする商人は都市間の存在であったという。また中世都市はその明確な外殻にもかかわらず必ずしも土地に固定していなかったという。「一般に信じられている印象とは逆に、静的どころかその反対であった。中世の初期の間に幾千という新しい都市の基盤がつくられたばかりでなく、すでに基礎のできた都市でも自然の環境として窮屈であるとか、位置が不便と感じられたときには、他の土地に移動した。その例としてリューベックは貿易と防衛の改良のために位置を変え、古セアラムは乗り棄てられ」た(57頁)。

生産者を多く抱え込んだ中世都市の「生産」基盤が製造業とその外側の農奴による農業とすると、中世都市に構造的な変化をもたらしたのは、商業つまり貿易、それも国際貿易とその交通路の整備であったとされる。「15世紀から重要さを増してきた国際貿易は、手工業ギルドや城壁都市に固有の弱点につけ込んだ。第一の弱点は、ギルドや都市がいずれも地方的基盤にたつものであって、その城壁内で独占的支配をはたらかせるためには、その枠外の領域をも支配できることが不可欠であった」「しかし大体において、ギルドが権威を行使できたところは、城市の城壁内に実際に仕事をしにやってきた人たちだけにたいしてであった。ひとたび交通路が開け田舎が安全になると、都市はかえって無力になった」「ギルドがより排他的になるにつれて、除け者にされた人びとは、保護のない産業へと転じていった」「この大きくなりつつあった階級は生活水準の切り下げを助長し、資本主義産業独特の集団編成の型である自由労働者予備軍をつくりはじめた。もうひとつ別の因子は」「腕のある旅職人の移動性は職人が喰い物にされるのを救った」(66頁)。さらに「ギルドの持つ弱点のほかに、中世の都市政策の欠陥は、それがイタリアのある地方を除いて田舎地方のひろい地域を包括しえなかったことである。それは敵意にみちた大海中の一つの島でしかなかった」(67)

都市はそれゆえハンザ同盟やスワビア同盟のように連合を形成していく。中世風秩序から近代的秩序へと移行していくのはこの自治都市と田舎地方の統一で、その範例はスイスとオランダであるという。

第二章「宮廷・盛儀・首都」では著者がバロック都市と呼ぶ近世の都市について述べられる。著者の述べる「バロック」は美術史で言われるバロックでは必ずしもなく、時代的にはルネサンスから18世紀あたりまでで、大雑把に言ってスペクタクル性がその根本にあるようにも見える。

中世都市の構造の延長で見ると、大砲の登場は都市に大きな変化を強いた、とされる。「15世紀までは、防御が攻撃よりも優位にあった」「15世紀後期の新しい砲は、都市を弱みあるものにしたのである。都市は戦闘条件を敵と対等にせんがために、それまで専ら市民軍によって防衛されていた旧式の城壁を、この時からやめざるをえなかった」「普通の家屋をつくる石工が計画し建造したような簡単な石造の城壁ではなくて、いまや、膨大な工学技術の知識と莫大な費用を要する複雑な防御組織を生み出すことが必要であった」(85)。「旧式の都市はブロックとスクェアとに分かち、周囲を城壁でとり囲んだのに反して、新しい築城都市ははじめから城郭として計画され、都市の体はこの伸び縮みしない殻に合わせられた」(86)。かくして都市は一方において密集していく。人間が「都市外郭の土地から流れ込んでくるにつれて、都市内部の空地が急激に建て込みの状態に変わった」(86)

築城術に伴う変化に続いて起こるのが「資本主義が軍国主義的になった。資本主義は武力なしで有利に取引できなくなると、もっぱら国家の武力を頼りにした」(92)という変化である。そしてこれらの背後で起こっていたのは「空間を組み立てること、空間を連続的にすること、空間を量と時間に還元すること、極大の遠距離と極微の世界を取りいれて量の大小の限界を拡張すること、最後に運動を空間に結びつけること、これらはバロック精神の偉大な勝利の一つであった」(93)とされる。

軍事と交通とスペクタクル性との関係で述べるなら、アルベルティは道路を主道路と二次道路に分け、前者をviae militaresと名づけたという。つまり都市の主道路は軍事パレードというスペクタクルの場となったのであり、これはこののち長く続いたと言える。これに続いて馬車と主街路、消費の関係が分析される。章題にも窺われることだが、中世/キリスト教の都市組織の中心にあったのが教会とすれば、バロック都市の組織の中心にあるのは宮廷であろう。著者によればこの原理は基本的には20世紀まで続いたのであり、「成り上がりの実業家がまず貴族階級の真似をし、つづいて市民全体が相似た特権を都市全般に要求し始めた。いわゆる「民主主義」の興隆は、都市に関するかぎり、バロック秩序の拡張普及にほかなら」(139)ない。

第三章「非情なる産業都市」は産業革命後に登場する、モノカルチャー的な産業都市についてである。その典型的光景は「暗黒のとばりが石炭都市にひろがり、黒色がそれを支配していた。工場の煙突からは、黒煙がもうもうとうずまいていた。また町をすっぽりと切断することが多かった操車場は、有機体をずたずたに寸断し、煤と灰とをいたるところにばらまいた」(198)といったものである。都市の光景についてさらに続けられる。「建築風景だけでは「混沌状態」にはまだ足りないといわんばかりに、電信線の交叉、電車の架線柱、鉄道ガード、高架構築物、われ勝ちの広告物などが、ついに視覚的乱雑さを完璧にしたのであった」(207)。さらに「家の中では、それが醜悪な擬バロック式の彫刻の急増と心地よさの礼賛と結びついたのである。この現実主義的な時代は、手で触れる娯しみのために耳や目でする昔からの美点快楽をもすべて犠牲にしたように見え、ここでは美ではなくて「心地よさ」という新しい性格が要求された。枕の並んだトルコ椅子は、身体のあたるクッションには馬毛や毬毛のふかふかの褥をもってし、毛をつめ、いなつめこみ過ぎぐらいの超はりぼて式の椅子であった」(208)と述べられる。一方で「裸身は、ヴィクトリア式装飾では、非難の的であった。コナン・ドイルの初期の作品中の人物は、むきつけな何もない白壁の部屋におかれて気が変になるし、トルストイはヴィクトリア朝風に言えば寝室に「ひとつも調度がおかれていない」からというので、弟子たちから聖者と見なされたのであった。裸体は、たとえそれが彫像の形で示された場合にせよ、喧喧ごうごうたる非難をまきおこし、それと同じように、無装飾の裸の建築様式は「がさつ」に思われたばかりでなく、下品に見えた」(208)。「こうしていやったらしい装飾過多、おき場所違いの美術品、無目的な製作、装飾的汚濁の芸術、これが心地のよさと結びついたのであった」(208)

工業化時代がもたらした光景を言わば隠蔽するものとして、ピクチャレスクの美学とロマン主義も批判される。

こうした暗澹たる状況にもかかわらず、この時代の出来事で著者が高く評価するものがある。『The Brown Decades』でもそうだったが、鉄の登場である。この鉄の登場が都市や建築にもたらしたものは、著者の記述を読んでいると単に構法上の大きな変化というにとどまらず、建築の概念自体を根本から変えるほどのようだったように思えてくる。いわく「まったく新しい型の構成、つまり鉄のケージ(枠組)とカーテン・ウォールが出現した。これは古いアメリカの農家の郷土的な軸組と羽目板による構造方式を、巨大な旧技術期的な形態にうつしいれたものということができよう。こうして水晶宮のように、外壁は室内空間との単なる境目になり、建物そのものは外殻というより、強靭な皮膚で外が覆われて温度調節や交通循環の内臓器官を内にもつ骨組になった(216)。もっともヴィクトリア朝時代全体についてはこうした新しい材料や構法の使用をまったく知らないどころか誤った使用がなされたことが批判的に述べられている。

第四章「巨大都市の興亡」は文字通りメトロポリス論である。原書が書かれたのが1930年代のニューヨークだったことを考えれば、これはほぼ同時代の都市現象について書かれたものと言え、その印象を述べるならかなり的確なメトロポリス分析ではないかと思われる。大雑把に言って資本と労働の集中によって生成し、結果としてさらなる拡大を目指すというその構造分析などは、レーニンの『帝国主義論』で展開される論などをも髣髴させる。実際、本書ではレーニンの名前も二度ほど登場する。

マンフォードはパトリック・ゲデスに私淑していたと言われるが、都市史を世界史的な発展あるいは生成衰退として捉えるあり方は広義のヘーゲル主義のようでもあり、さらに本書の分析でも歴史的唯物論に近いものを感じなくもない。ゲデスを含めこのあたりは、再検討した方がよいのではなかろうか。

これら都市史が示されたあと続く三つの章では、文明の地域的構造、地域開発政策、新しい都市の社会的基礎、という自らの考えとニューディール時代下の開発政策のあり方、そして戦後のケインズ体制での指針となるものが示されていく。後二章では、ニューディールと戦後ケインズ体制は著者が巨大都市分析で批判的に示す「戦争」を挟んでいるとはいえ、実に滑らかに連続していたことを窺わせる。さらにそうした考えの基本にマンフォードの地域主義があったと言うのも特徴的である。

地域主義について述べられた章では、地域主義の起源が19世紀それもオーギュスト・コントと同時代であったことが示唆されているが、このあたりはあまり知られていないのではなかろうか。

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