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2012年5月

2012年5月10日 (木)

Lewis Mumford Sticks and Stones, a study of American architecture and civilization, Dover Publications Inc., New York,1924

Mumford

The Brown Decades と並ぶルイス・マンフォード初期の代表的著作であり、米国近代建築史についてのおそらく必読書の一つと言っていい。1954年の序文がついている。

その序文によれば初版が出た1924年まで、米国建築史を包括的に扱う書はなかったという。フレスク・キンボール(Freske Kimball)やトーマス・トルマッジ(Thomas Tallmadge)のささやかな論文があり、ヴァン・ワイク・ブルックス(Van Wyck Brooks)らの新しい世代がそれに続いた、と記されている。キンボールの『植民地と初期共和国の国内建築』はこれらの代表作だった、という。また1924年までシカゴ派の仕事は全くこれらの仕事の視野になかったとも言われる。シカゴ派という命名自体この後ということだろう。

モンゴメリー・スカイラーのよく知られた『アメリカの建築』は1893年の出版で、リチャードソン世代における最後の参照であったとここで言われ、マンフォードはこれに軌道修正を試みたことが記されている。

また1923年にパトリック・ゲデスとニューヨークで会ったことが同じく序文に記されている。この時ゲデスは機械文明に既に批判的だったと述べられる。マンフォードの当時の見解との相違は興味深かろう。サリヴァンについてのヒュー・モリソンの評伝も高く評価されている。

さて本文の方は全体で8章からなる「米国建築史」である。最初の三章は18世紀までを扱い、個人的な関心からはいわば前史であり、「建築と文明」と題された最終章は、マンフォードの視点が当時既に一定していたことを窺わせる。

第四章「パイオニアの消滅」から。まずいくつかの発明品について。フランクリンのストーヴ(1745年、84頁)、「セントラルヒーティングはアメリカの住宅に古代ローマの快適性を与えた」(同頁)、「アストラル・石油ランプはエドガー・ポーを虜にした」(同頁)、「据付型バスタブやウォータークロゼットは19世紀半ばまでに東部都市部の住宅に入ってきた」(同-85頁)。

続いて都市、とりわけ格子街路について。

「都市そのものの発明について言えば、格子街路が労働節約の方法として導入された」「格子街路の単純性はパイオニア達の心をつかんだ」「街路で囲まれた1ブロックは接道長さでの売買を可能にし、またギャンブル(売買の損得)を容易にもした」「さらに最も無能な測量士さえこの新たなエデンの成長の予測ができるようにした」「19世紀の都市計画において技師は土地独占者へ進んで仕えた」「これは建築家にも枠組みを与えた」「地価が全てを説明し、そして地価が後知恵でさえないものとして」(85頁)。

格子街路はここでは主に土地投機の観点から述べられている。と同時に「シンシナチやセント・ルイス、シカゴといった新しい都市では19世紀中葉までに、これらギャンブラーに対し、街路の改善、公共施設のことなどまったく考えていなかった当初のプランのツケを払うことを要求したのは驚くに値しない」(86頁)という記述も、引用しておく。「ビジネスが流行り廃れ、人々が来ては去り、土地所有者が変わりゆくのであれば、建築の安定した成就をなそうとするだろうか?」(88頁)

これに続いてゴシックリバイバルに一瞥が与えられる。「ルネサンスが有機的成長を本来的に否定するのに対し、ゴシック建築は成長という系譜にある」(88頁)。これは都市の生成衰退という先に見た様相との関連もあろう。

シカゴについて。「出来たばかりのシカゴ。大陸横断鉄道の結節点。新しい倉庫や摩天楼を当時の素材を使って造る事を建築家や技師に鼓舞した。平板な実用的機能に適するようにである。統合と自信に満ちた建築の誕生へと、パイオニア魂は結実した」(96頁)。

第五章はロマン主義の敗北。ロマン主義は過去へと向かい、無・時間的な古典主義と対をなしている。まず「1860-90年のあいだに産業主義にあったいくつかの焦点がアメリカ建築で実現した」(99頁)。続いて英国のジョン・ラスキンと米国のヘンリー・ホブソン・リチャードソンがそれぞれのロマン主義/中世主義を象徴するものとして対比的に論じられていく。いわば理論のラスキン(それゆえ英国においてはロマン主義は実作より理論)、実作のリチャードソン(それゆえ米国では理論より実践)というわけである(100-101頁)。

リチャードソンのロマン主義と次に対されるのはレーベリング父子によるブルックリン橋(1883年)の産業主義である(116頁)。章の末尾ではロマン主義の起源がルソーに求められ、またリチャードソンのロマン主義がサリバンに受け継がれたことが述べられる(119頁)。「彼らはロマン主義の古拙や歴史主義の陥穽を避け、またジョン・ウェルボーン・ルートとともに、実務的と人間精神の理想的要求を折り合せる真に有機的建築の基礎を築いた」(119-120頁)。

6章は「帝国のファサード」。この時代に言われた「帝国」とシカゴ万博以降顕在化してくる新古典主義との関係を考えるうえで、本章の記述は興味深い。「1890年から1900年にかけてアメリカ建築の新時代が登場する。この時代は大仰なランファンに仄かに先行され、だが皮相な形態は初期共和制のものに相似し、また先行する古典主義建築がまたも導きとなったとしても、続く時代はリバイバルでもその連続でもない」(123頁)。また「南北戦争後にボザールに留学した学生の新しい世代が、リチャードソンの敷いた路線に入ってきた」。この過程では「鉄の篭構造が石造にとって変わっていた」(同123頁)。

この時代の帝国について語られる場合によく言われるように「1890年までにフロンティアは消滅した」(続いて独占資本について語るこの口調はホブソンやレーニンの引用だろう。次頁における金融資本への以降についての言及もおそらくそう)。

いずれにせよシカゴ万博がこの文脈で言及される。「これらの主な建物が建築とすれば、これほど多くをかつてアメリカが一度に見たことがないほどだった」(127頁)。「MMWやハント、それにバーナムはルネサンスの語彙やローマの威光以上の皇帝に仕えるかのうようで、間違い形態をその活動に選択した」(128頁)。

「これら全てにおいて世界博はまさに古典主義の例であり、それゆえ帝国の秩序のミニチュアを複製したのである」「その展示は帝国の盾の反対側を髣髴させたかもしれない。古代ローマのペトロニウスである」「続く10年におけるこの白いファサードの灰白色への変容。その影は「コニーアイランド」というまた別の成果物なのである」(134-135頁)。「(帝国主義の幻想とは逆に)それは西洋文明の全ての分野で自身を表現する性向なのであり、それがアメリカで最も露骨に表れたことは、ひとえにそれまでと同じく障害がなかったということにすぎない」(135頁)。シカゴ万博と帝国(主義)とコニーアイランドを論じたこのあたりは興味深い。

「帝国期におけるアメリカ建築の大勝利が鉄道駅であるのは偶然ではない。とりわけニューヨークのペンシルベニア駅とグランドセントラル駅、それにワシントンのユニオン駅。それがマッキムやバーナムによるものであるのは、彼らが帝国の威光を崇拝していたことからして偶然でもない。彼らはローマのアメリカン・アカデミーを設立した。つまり彼らは自らの故郷に気付いていたのである」(139頁)。「つまり古典様式は、建物がローマ世界の必要や利益にかなっている時によく仕える。」(140頁)

「ワシントンのオリジナル・プランの復元は1901年に始まった。同時期にマッキムの弟子であるヘンリー・ベーコンがリンカーン記念堂の設計者に選ばれた。リンカーン記念堂、オハイオ州ナイルのマッキンリー記念堂、NYUのホール・オブ・フェイム、それにグラントの墓、これらが古典様式で建てられた」(141頁)。

「これは帝政ローマで起こった。そしてナポレオン三世下のパリで再起した」(143頁)。

「帝国期がシカゴ万博に先取されているとすれば、その神格化は博物館にある」「帝国の博物館は本質的に戦利品の山である」(149頁)

この「帝国期」はしかし1910年ごろまでに弱まったとされる。続く7章は「機械時代」と題され、次の時代について論じている。「帝国期の建築がなぜ全ての建築に刻印されなかったのか。それは折衷主義のおかげではない。本物のヨーロッパやアジアの建築に、アメリカの建築家が親しんだからである」(155頁)。このあたりはフランク・ロイド・ライトと日本建築の関係を髣髴させるだろう。

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2012年5月 9日 (水)

フランク・ロイド・ライト『フランク・ロイド・ライトの現代建築講義』山形浩生訳、白水社、2009

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  大雑把に言って収穫は、ライトにおけるゼンパーの建築論の影響の再確認、同じく日本建築と日本文化の影響の再確認、そして新たなところでは東部の古典主義の建築家達との距離および摩天楼や都市主義への懐疑といったところか。

訳者あとがきにもあるplasticをあえて「素直」と訳出した件。これは山本学治訳では「塑造」だったように思う。本書でもその言葉の後ろにあるおそらくtectonic(本書の訳では「構築」)と、この概念は対になっている。「結構」(tectonic)はものを組み合わせて造る「構築」、「塑造」(plastic)は粘土をこねたり焼いたりあるいは金属他を鋳造する「構築」のあり方である。いずれにせよこのあたりはやはりゼンパーの建築論の影響を感じさせる。

いくつかメモ。

「ここでもあらゆる矛盾を避けるべく・・こんどは古代日本の誕生にたちかえり・・そしてそこで自由を安全に守るためにこの文には単に「芸術家にとっては制約こそが最良の友」という一句をとって、この一文を神武天皇に献呈することにしましょう。

 このゆっくりと沈みゆく振り子のような細長い島は、北は常冬の雪の地として海から立ち上がり、はるか南の常夏まで続きますが、この古代文明はこの文に対して他のどこよりも優れた裏付けを提供してくれます。ここでいう「制約」の意味は、素材、道具、個別目的の制約だと考えています。

 神武の島では完璧な産業におけるスタイルが至高かつ土着の形で存在していたのですが、それは我が国のペリー提督の着弾距離内に「日本」が発見されるまでのことでした」「何世紀にもわたる孤立の中でニッポンで幸せに濃縮しつつ発達した工芸は、スタイルにおいて比類のない普遍的で客観的な教訓を与えてくれるでしょう」(96-7)

「我々のこの発展段階において、特に日本は「大いに軽視されている」存在です。偉大な芸術家や偉大な目的において、臆病な逃げ口上はふさわしくないようですし、もちろん将来についての大きなテーマにアプローチするにあたり、そんな黙殺は許されません。起源を知らないのは何ら自慢できることではない・・そして起源に関する新しい考えから情報を隠すことも。したがいまして、スタイルというのが何かという探求にあたり、この古代文化の根っこをさらに掘ってみましょう」「それがそのような形になったのは宗教的な戒めによるものです「浄め」。「浄め」こそは神道・・神武天皇の古代祭祀形態の魂です。神道は善良な人や道徳については語らず、浄い人を重視しました。神道は浄い手のみならず、浄い心を重視しました」「清らかさという単純な理想を社会のあらゆる人々が抱くことで、無駄を場違いなものとして嫌悪するようになり、それを醜いものと見なしました・・したがって我々が「汚れ」と呼ぶものだと思えたのです」「かれらはもちろんながら、木は木であるがままにしました。金属は、金属のままであることを許しました・・それどころかそれを奨励しました。石は、石以上にも石以下にもなることを求められませんでした。また当時の設計者は、素材やプロセスをそれ以外のものにさせようとは一切しませんでした。ここには「産業における芸術」の既成概念まみれの土壌を一掃して、新しい成長をもたらすための、しっかりした最初の原則があります」(103-4)

「さっき繊維の話をしました。第一章の言説の中で木工、石工、金属加工の話をしたので、ここでは紡績機にとって今日の成功した例としてロディエ織物にちょっと戻りましょう」(107)

 ゼンパーの建築論で日本建築を見ているのではないかとさえ思える発言である。この後ろの章では、反古典主義の言いが続く。

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ブルーノ・タウト『都市の冠』杉本俊多訳、中央公論美術出版、2011年

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ブルーノ・タウトの有名な書籍の邦訳である。

ケネス・フランプトンは『テクトニック・カルチャー』においてヨーン・ウツソンによるシドニー・オペラハウスを、(シドニーの)ここで述べられるような「都市の冠」として記述していた。シドニー・オペラハウスの場合、形態自体もmiterのようであり、さらにそのプログラムも本書で述べられる「都市の冠」中心部に位置するオペラハウスだった。

全体の構成は中世ヨーロッパ都市におけるカトリック教会堂やイスラムのモスク、東洋のパゴダなどの例を図版で示す導入部と、自らが計画した「都市の冠」プロジェクトの紹介部分(これが主部である)、そしてアドルフ・ベーネやパウル・シェーアバルト等による文章が後ろにつけられている。

一見、ロマンティックな中世主義のようにも見えるかもしれないし、そうした部分もあるだろうが、出版された20世紀初頭(原書の初版は1919年)という時代を考えると、大都市における複合・大型施設の提示案の一つととれなくもない。つまりロックフェラー・センター等に連なっていく流れである。

実際、求心的な都市(ヒュー・フェリスの『明日のメトロポリス』やル・コルビュジエの『300万人の現代都市』を彷彿させる)として新しく建設された都市の中心に、そのどの部分よりも高度的に高く計画されたものとして、「都市の冠」は計画される。

その中心となるプログラムも、オペラハウス、大ホール、劇場、社交場、博物館、レストラン等の収益性の高くないものを主として含み、これはまたメトロポリスにおける都市型複合・巨大施設とも相似的である。

ただし、タウトが示す「都市の冠」の中心をなしているのは「クリスタルハウス」と呼ばれる空虚な中心である。これはタウトが設計した工作連盟館の構想を敷衍したもののように見える。

この部分についてタウト自身、「最終のものはいつも静かで空である」(68)と、述べている。

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ウラジミール・イリイチ・レーニン『帝国主義論』角田安正訳、光文社古典新訳文庫 2006

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岩波文庫版だったか、でかつて読んだものの再読。

19世紀末から20世紀初頭にかけての帝国主義期といわれる時代は近代における建築・都市とも深く関係しているのではないか、という現在の個人的関心から再読。

かつて読んだときは、フロンティアの消滅と資本の蓄積によって世界の再分割と資源の供給地にして商品の捌け口としての植民地獲得が「帝国」という形態によって進行する云々という話だったように認識したが、再読するとこの時代のディテールがあらためて見えてくる。

レーニンの帝国主義論は本書の冒頭でも述べられているように、J.A.ホブソンによる1902年の『帝国主義論』等当時の書物のあとに書かれ、つまりこの時代を「帝国主義期」として位置付けたのはレーニンが初めてではなく、レーニンはホブソンらによって分析されたこの「帝国主義時代」をいささかジャーナリスティックに分析した、とも言える。本書によればその時期は「経済や政治を扱った欧米の出版物に目を通すと、現代の時代的特徴を明らかにしようとして「帝国主義」という概念を考察する文献が次第に多くなっていることが分かる。そうした傾向は、この15-20年の間、特に米西戦争(1899-1902年)以降の時期に目立つ」(31頁)、「ここ数年、帝国主義論がにぎやかである」(32頁)。

ジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』において国家をその規模に応じて都市国家、国民国家、帝国に分類していたが、そもそも帝国という形態が登場するのは古代ローマの帝政においてであり、規模において国民国家より大きい帝国は結果として多民族・多文化国家ということになろうし、20世紀初頭における帝国はフレドリック・ジェームソンがウィンダム・ルイス論で述べたように19世紀の外交システム=国民国家を堀崩した面があったとも言え、それが20世紀初頭の超・国家主義という考えを準備したとも述べ得る、というのは前提としてあろう。

「全ての道はローマに通じる」という諺が示すように、帝国の成立には中央集中的な道路あるいは交通インフラの整備が必要なはずである。19世紀後半は第二次産業革命=鉄道革命期とも呼ばれ、それを資本の観点から見ると本書では、「鉄道は、資本主義における最重要の工業部門(石炭産業と鉄鋼業)が生み出した成果であり、また世界貿易とブルジョア民主主義文明の発展ぶりを示す隠れもない指標である。鉄道は大規模産業や独占体(シンジケート、カルテル、トラスト)、銀行、金融寡占性と結びついている」(16-17頁)となる。

第一章は「生産の集中化と独占の出現」と題され、競争から独占へといたる19世紀の資本主義を主に扱っている。「マルクスが半世紀前に『資本論』を執筆していたとき、圧倒的多数の経済学者にとって自由競争は「自然法則」と思われていた。だから、官製の学問の側では『資本論』を黙殺しようとした。だが『資本論』は、資本主義を理論と歴史の両面から分析し、次のことを証明した。すなわち、「自由競争は生産の集中化を生み、そしてその集中化は、一定の段階に達すると独占へとつながっていく」ということである」(42頁)、「個々の資本主義国同士の違いは、「保護主義か、それとも自由貿易か」といった点に見られるが、それによって生じるのは、独占の形態あるいは独占の到来時期に見られる瑣末な違いにすぎない」(43頁)、「新型の資本主義が最終的に旧来の資本主義に取って代わったのはいつのことだろうか。ヨーロッパの場合、その時期は、かなり正確に特定することができる。ほかでもない、20世紀の初頭である」(43頁)。「自由競争の発達が極限に達したのは、1860年代から70年代にかけてのことである」(44頁、ただしこれは主としてヨーロッパについての記述)。

以上をまとめると、「独占企業の歴史を総括すると、おおよそ次のようになる。1、1860年代および1870年代は、自由競争が最高度に、つまり極限まで発達した段階である。独占企業はかろうじて目につく程度にすぎず、まだ揺籃期にあった。2、1873年の大暴落のあと、カルテルの発達期が長期にわたって続く。しかし、カルテルは依然として例外的であった。まだ足場が固まっておらず、過渡的な存在であった。3、19世紀末に景気浮揚が、次いで1900年から1903年にかけて恐慌が起こる。この時期、カルテルは経済活動活動全体の基盤の一部となる。資本主義は変容を遂げ、帝国主義となった」(45-6頁)。ここで言われる「カルテル」はドイツにおける形態の名前であり、米国においては「トラスト」と呼ばれ、また時期も微妙にずれる。「アメリカの統計では第二次産業企業を三種類に分類している。すなわち、1、個人の会社、2、パートナーシップ、3、株式会社などの有限責任会社、である。有限責任会社は、1904年の時点において企業総数の23.6パーセントで、1909年には25.9パーセント(企業総数の四分の一強)であった。それら企業の労働者は、1904年の時点で労働者総数の70.66パーセント。1909年には75.66パーセント(全体の四分の三)であった。生産額は109億ドル(1904年)と163億ドル(1909年)で、これは比率で言うと、それぞれ総生産額の73.7パーセントと79.0パーセントである」(47頁)。また米国について石油部門でのスタンダード・オイル(ロックフェラー系)と、鉄鋼部門でのUSスチールについてのトラストが48-9頁にかけて記述されている。

 引用した記述から恐慌と景気浮揚の繰り返しのなかで資本の集中化が進行していった様子が窺えるが、ただ資本は単に集中化しただけでなく、重要なことに「発達の最高段階に達した資本主義のきわめて重要な特徴は、いわゆる複合化である」(37頁)、とされる。

 再度、「競争は独占へと変容する」「これはもう、旧来の自由競争とはわけが違う。かつての自由競争の主体は、細分化されていて相互に面識のない経営者たちであった。それら経営者は、未知の市場で製品を販売するために生産活動にいそしんだものだ。ところが今では生産の集中が高度に進み、一国単位で原材料(たとえば、鉄鉱石)がどれほど必要になるか、おおよその見積もりを出すことが可能である」(51頁)「我々が目のあたりにしているのは、もはや小規模企業と大企業の競争とか、技術的に遅れた企業と進んだ企業との競争なのではない。眼前に見られるのは、独占体に反抗し、独占資本家による迫害と専横に抵抗した人々が、独占資本家の手にかかって息の根を止められる図である」(53-54頁)。

 ただ重工業つまり重厚長大産業は本来的に資本の集中と複合がなければ成立し得ない産業であるのであり、そこで生産される莫大な成果品は同時に多大な市場がなければ成立し得ない分野ではあるのではなかろうか。それは「カルテル化の最先端を行くいわゆる重工業、特に石炭と鉄は、特権的立場にある」(58頁)となる。

恐慌による資本の整理について再度、「それらの純粋な企業はかつて、工業の急発展のうねりに乗って躍進したこともあったが、価格の下落や需要の低下などに見舞われて苦境に陥った。複合的巨大企業はそのような苦境に襲われることはまったくなかった。あったとしても、その影響はごく短期間のことにすぎなかった。したがって1900年の恐慌の結果、1873年の恐慌のときよりもはるかに大規模な工業の集中化が起こった。1873年の恐慌のときにも、ある程度企業の淘汰が起こり、優良企業が生き残った。しかし当時の技術水準のもとでは、淘汰が起こったからといって、危機を脱した企業が独占体を形成することはなかった。今日では、製鉄業界や電力業界の巨大企業を舞台として、まさにそのような永続性のある独占が・・・しかも、いちじるしい形で・・・起こっている」(60頁)。

第二章は「銀行とその新しい役割と題され、第一章で分析された「独占体」との関係で銀行が分析される。

「銀行の基本的で本来的な業務は、決済の仲介である。銀行はその際、不活動資本を活動資本(つまり利益を生む資本)に変える。また、ありとあらゆる金銭収入を集めて、それを資本家階級の運用に任せる

 銀行事業は、その発達にともなって一部の銀行の手中に集中する。すると、銀行は仲介という地味な役割を放擲して、全能の独占企業へと様変わりする。そして、資本家と小規模事業家から成る集団全体の貨幣資本を、ほぼすべて掌握する」(62頁)。「資本主義の歴史が長い国では、この「銀行のネットワーク」がもっと密なものとなっている」(68頁)、そして交通インフラの整備の結果、「この表から分かるように、緻密な網の目のような経路が急速に成長しつつある。全国を網羅するその経路を通じて、あらゆる資本と貨幣収入が集中制御される。そして、数千万の分散した事業所が統合され、一国全体を包括する単一の資本主義的な事業体が出現する」(67頁)。「銀行はいかなる状況のもとでも、またいかなる国においても、資本の集中と独占体の形成が進行する勢いを何倍にも強め、速める。その際、銀行法の違いなどお構いなしである」(72頁)。

米国については、「集中化のプロセスが進んだ結果、資本主義経済全体を統率する立場に立とうとしている。それらの銀行の間では、独占協定(すなわち、銀行のトラスト化)に向けた動きがますますいちじるしく、かつ強くなろうとしている。アメリカでは、九大銀行ではなくて、モルガンおよびロックフェラーの二大銀行が110億マルク相当の資本を支配している」(79頁)。

ちなみにモルガン、ロックフェラーともにニューヨーク資本である。

この章のまとめとして「このようなわけで20世紀という時代は、在来型の資本主義から新型の資本主義への転換期となっている。この時期を過ぎると、資本一般に代わって金融資本が支配的な立場を占めるようになる」(92頁)。

第三章はこれを受けて金融資本の分析を行う。いくつか備忘録的なメモ。T.J.クラークの『絶対ブルジョア』においては、19世紀フランス社会を分析しながらusuryという単語が頻出していた気がするが、「資本主義は、取るに足らぬ高利貸しの資本を出発点として発達し始めた。そして現在では、金融で暴利をむさぼる巨大資本となっておのれの発達を完成させようとしている。(フランス人は、ヨーロッパを対象とする高利貸しである)とは、リジスの言である」(108頁)。「金融資本の業務の中で利益が非常に大きいものとしては、土地投機もある。投機の対象となっているのは、急成長する大都市の、近郊の土地である」(112頁)である。「金融資本の時代がやって来た。どこの国でも「アメリカ風の流儀」が、文字どおりあらゆる大都市を席捲している」(113頁)。

この最後の引用はヨーロッパで「アメリカニズム」と呼ばれたものは一面において金融資本だったことを窺わせる。また金融資本による土地投機は、この時代の巨大化・複合化の結果登場した「メトロポリス」というあり方が文字通り自己増殖していくメカニズムをよく示している、とも言える。

続く第四章の「資本輸出」と第五章および第六章の「世界の分割」はおそらくかつて読んだ時に印象に残った部分かもしれない(特記についてはマーカー部分を適宜参照/メモ)。

第七章は実質的な纏めの章である。「帝国主義の五つの特徴を含んだ定義をすればよいだろう。1、生産と資本の集中化が非常に高度な発展段階に到達し、その結果として、独占が成立していること。そして、そのような独占が経済活動において決定的な役割を果たしていること。2、銀行資本と産業資本が融合し、その「金融資本」を基盤として金融寡占体制が成立していること。3、商品輸出ではなくて資本輸出が格段に重要な意義を帯びていること。4、資本家の国際独占団体が形成され、世界を分割していること。5、資本主義列強が領土の分割を完了していること」(175頁)。

ついでに。歴史的経緯からすれば「福祉国家」も帝国から派生したもののように見えなくもない。

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