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2012年7月

2012年7月16日 (月)

マンフレッド・タフーリ+フランチェスコ・ダル・コ『近代建築1』片木篤訳、本の友社、2002

Dsc01943

方法論について述べた序章と19世紀米国建築について論じた章から、いくつかメモ。方法論についでは、フランプトンの『テクトニック・カルチャー』で引用された個所もある。

冒頭からこう述べている。

「近代建築史とは、建築という分野のアイデンティティーが失われていった記録である。建築はルネサンス時代には自立して存在していたが、18世紀から19世紀にかけてすでに危機に陥っていたのである。他方、主観的に見ると、近代建築史とは、この失われたアイデンティティーを取り戻すために行われた一連の個人の試みを示すものである」(6)

労働を「具体的労働」と「抽象的労働」に分けて考察するのは、グラムシ等の流れからだろうか。ただ問題の主題や方法論は必ずしもそれ自身にあるわけではない。「我々の関心はむしろ、伝統的な社会分業が変化していった特定の様態を追跡することである」「古い問いとは」「建築言語は、どのようにして人間集団の行く末に関る仮説を提案することができるのか」「新しい問いは」「建築言語の内と外の領域間ではどのような関係が正当であるのか」「生産分野に直接入り込み、その構造を変えるには、どのような知的労働形態が最も適切であるのか」(6頁)。

序文の後半はアール・ヌーヴォーについてで、K.マイケル・ヘイズが『ポストヒューマニズム』で述べていたことと、それほど相違はない。

4章「アメリカの建築と都市:1870-1910年」から

シカゴの都市としての基本形について。

「シカゴがその新しい領土拡張主義のシンボルであった。同市はすでに1830年代に建物用地の天井知らずの競売で名を馳せていたが、1850年から1870年の20年間で、人口が10倍にも増加した。その都市構造は、特化された第三次産業センターがイリノイ中央鉄道とシカゴ河沿いの商工業ゾーンとの間に位置し、ループで限定されたものであった。ループが地域の二極構造のいわば頭部に当たり、そうした都心部への第三次産業の集中が、エヴァンストン、レイク・フォレスト、オーク・パークといった中流階級上層の郊外住宅コミュニティーの拡散的な発展と釣り合っているのである。かくして生産の集中化は、特化された商業センターの成立と郊外への逃避と手に手をとって進み、差異化・分断化された都市システムの基礎を築いたのであった」(62)

リチャードソンについては。

「多くの点で、リチャードソンの建築はオルムステッドの作品の中核をなしていた理念の再提案であって、特に個人の価値の卓越性を表現し、社会の矛盾に対する個人の英雄的戦いを賞揚しようとする点においてそうであった。この戦いは「形態への意志」として表現され、そのことは、リチャードソンの建築作品が周囲の都市の混沌に対して誇り高く対峙していることによって伝えられた」「この意味において、彼の作品は商業ルネサンスの裏にある「英雄的」側面を示した。チェニー・ブロック、マーシャル・フィールド商会、エイムズ・ビルは、自由競争原理の中で自分の個性をはっきりと主張するために、全身全霊の努力を傾けているレッセ・フェールの企業家の雄雄しい仕事への賛歌である。そうした昇華が、リチャードソンのモニュメントの禁欲的な有機体に組み込まれ賞揚された価値体系の根底にある」(64-65)。リチャードソンはいわばこの点で、ブルジョワがまだ勃興的だった時代(ヘイズ)、あるいはブルジョワとはまだ階級ではなくポジションであった時代(クラーク)の時代の建築家であると言えるだろうか。ブルジョワがまだAbsoluteではなく、田舎を引きずっており、中小資本で独占資本に達しておらず、企業家とか個性とか個人性が賞揚される時代の建築、と言えるだろうか。ただこの点で、マーシャルフィールズがまるまる1ブロックを占拠する都市建築であることは既にそこに両義性が現れつつあるとは、言えるのではなかろうか。これはさらにオペラハウスやオーディトリアムビルへと繋がっていく流れである。

ファーネスやMMWに対しては、「ファーネスの行き過ぎた断片化」やMMWの「古典主義的厳格主義」のずっと先を行き、新しいビルディングタイプの機能上の建築言語は、「ネオ・ロマネスク様式によるヴォリュームの自由な集散において可能となった」(65-66)

ジェニーの後継者として、ホラバード+ローチが上げられる。「ホラバード+ローチ事務所の作品は、ジェニーの構造学的探求とポストの類型学的探求の統合を達成したものであった。タコマ・ビル(1887-89)では、無限に反復可能な構造体が偏重され、その構造骨組が垂直の帯をなす弓形出窓だけで分節されており、マルケット・ビル(1893-94)では、骨組が露出されるとともに、いつもの三層構造に加えて、三分割窓という標準化された要素も用いられた」(70)。「要するに、ホラバード+ローチ事務所は、摩天楼というビルディング・タイプを、経済的関係の産物、すなわち生産・社会体制の「客観的」変化の産物の純粋記号として空高く聳え立つという初源的な使命へと還元したのであって、彼らはそこになんら主観的メッセージを押し付けようとしなかった」(70)

ゴットフリート・ゼンパーの翻訳については『テクトニック・カルチャー』でも頁がされていたが、ここでもジェームズ・レンウィックやJBスヌークによってヴィオレ=ル=デュクともども合理主義者として紹介された、と述べられる(72)

その少し前の記述から、ホラバード+ローチと対比的に論じられるのが、バーナム+ルート事務所である。こうした弁証法的な論じ方は、タフーリ達に特徴的な論じ方ではあるかもしれない。「バーナムはオルガナイザーであり、疲れを知らぬプロモーターであり、冷笑的なまでの現実主義者であり、熱狂的な企業家精神と、往々にして過小評価されてきたが優れたデザイン力を兼ね備えていた。ルートは、リチャードソンのロマン主義を新しい商業ビルディング・タイプに組み込もうとして、ダーウィン主義を起源とする「有機主義」のイデオロギーと」「ゼンパーやデュクの合理主義から吸収したものを統合し得るような建築を追い求めたのである」(72)

こののち、ギーディオンにいたるまで鍵概念として用いられる「有機的」という言葉が、ダーウィン主義からとられたと示唆されている。ただこれは、検証した方がいいかもしれない。

続いてサリバンについて。従来のロマン主義的記述とは別に、「そのような複雑な性格を有しているため、理論とタイポロジーに対して彼が本当になし遂げた貢献は、我々が今まで追ってきた展開の中で注意深く評価する必要があろう」(74)とされる。「モデルを自分の言葉に翻訳し直すというサリヴァンの能力、なかんずく構造体に自然主義的装飾言語を組み込む驚くべき力量は、全く独創的である」(75)「今や彼の「価値」は時代遅れのように思われるが、彼はその「価値」に基づいて、フラタニティ・テンプル計画(1891)で、メトロポリス都心部の全体形を包括的にコントロールすることを非難し、そうすることで、20世紀建築独特のタイプと問題点を予見したのである」(75)

続いて、シカゴ万国博覧会と、フランク・ロイド・ライトの問題。シカゴ万博については、マンフォードが論じたような東部・独占資本との関連が論じられていないのは、いささか意外である。およびこれらが持つ性質とライトの性質との齟齬については、宿題としたい。

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2012年7月13日 (金)

ルイス・マンフォード『芸術と技術』生田勉+山下泉訳 岩波書店 1954

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1951年コロンビア大学での講義を起こしたものとあり、戦前の著作のように建築や都市について直接的に論じる部分は少ない。もともとあった文明論的な部分が前面に出てきたというべきか。

訳者の生田によれば、マンフォードの述べる「芸術と技術」とは、「言葉と技術」と翻案できるという。本文中のマンフォードの言葉でこの相違は、「(これまで述べたことを要約すると)芸術も技術もともに人間の有機的構成を敷衍して示しています。芸術は人間の内面的、主観的な側面を代表しており、その象徴である構成物はすべて言葉と言葉づかい・・これによって人間が心の内面を表に出し、表明できるようになったのです・・を発明する多大な努力のあらわれであり、とくに人間の情緒、感情、生の意味と価値に関する直観に、具体的で社会的な形態を与えようとする努力のあらわれでした。これと反対に、技術は、人間が生活の外的条件に対処し征服し、自然力を支配し、そして人間に本来そなわる諸器官の力と機械的諸能力との実用上使用上の面を強化しようとする必要から、主として発展するものです。技術と芸術とは、いろいろな時代に効果的に一体となって調和がとれてきました。ですから、5世紀のギリシア人たちは技術という言葉を美術と実用の双方に、つまり彫刻にも石切にも用いたのですが、今日では文化が有するこの表裏一体の二面は剥ぎ裂かれてしまいました。技術はしだいに自動化され、ますます非人格的になり、より「目的的」となりましたが、芸術はその反動で、無意味な片言と泥まんじゅうと形をなさないなぐり書きといった原始的で幼稚な象徴法に逆戻りして」(37頁)と、述べられる。

同時代、カッシラーの象徴論や、ハイデッガーの技術論/芸術論、や、ついでにかのダヴォス討議のことなどを思いだした。

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