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2012年8月

2012年8月31日 (金)

T.J.CLARK, THE PAITING of MODERN LIFE, PARIS IN THE ART OF MANET AND HIS FOLLOWERS, PRINCETON UNIVERSITY PRESS, 1986

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方法論の確認のために読む。こちら(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080926)では『絶対ブルジョワ』と『民衆のイメージ』で前・後編をなすのではないかと述べたが、実は本書を含めて三部作をなすのではないか、とも思えてくる。

大雑把に言って『絶対ブルジョワ』では2月革命後の「革命芸術」の表象問題から始まり、新古典主義と都市化の速度の齟齬が、続く『民衆のイメージ』ではギュスターブ・クールベを主題として、第二帝政期におけるオルナンからパリへと都市の規模と性格が変わっていくにつれクールベ受容が相関して変化したこと、さらにクールベのリアリズムが実はマニエリズムであったこと等が見られた、と言える。

本書ではそれに続く時代、つまり第二帝政末期のオスマナイゼーションから始まり、マネと彼に続く印象派の絵画について述べられていく。 『絶対ブルジョワ』では「この時代のブルジョワは階級ではなく、ポジションである」と述べられたブルジョワは、オスマナイゼーション以降いまや金利生活者をはじめとした「絶対」ブルジョワ、つまり田舎の痕跡を残さない完全な都市生活者になっている。ここに登場してくるのが印象派の絵画である。 印象派の記述を追う前に、冒頭の方法論についての記述に一瞥を与えておく。

印象派についての従来の解釈、つまりそれは筆触の快楽主義や光や色彩の嗜好である云々等に対し、マイヤ・シャピロは1937年の『季刊マルクス主義者』に寄稿した論考において、異なる視点を提示したという。印象主義の「道徳的側面」である。 冒頭はシャピロの長い引用で始まる。

「初期印象主義には・・道徳的側面があった。屋外世界のつねに変わりゆく現象のなか、そこで姿形が動いている鑑賞者のたまたまの位置に拠るものであり、また社会や家庭の象徴的形式に対する暗示的な批判、あるいは少なくともそれらに反対する規範というものがあった」、しかし「これら都市の田園詩は1860年代と70年代のブルジョワのリクリエーションを表しているだけでなく、この新しい美的装置におけるまさに主題の選択において、芸術は理想や動機への言及を欠いた個人的享楽の分野でしかないという概念を反映しており、そしてそうした事どもは、これら快楽の教養化が啓蒙されたブルジョワにとってその階級の公的信条から自由な、最も高邁な自由の領域なのであるということを、前提している。取り巻く環境のリアリスティックな絵画を交通と変わりゆく雰囲気として享受することで、教養ある金利生活者は自らの収入と自由をそこに負っている市場や産業を、その環境の流動性という現象的側面として経験していたのである。そして、点描された色彩へと分割し、そしてその時の「たまたまの」ビジョンとして描くという印象主義のテクニックにおいて、それまでの芸術で知られていなかった限りで、都市の遊歩者や奢侈品の洗練された消費者に密接に関係した感性の条件を、そこに見出したのである」と、なる。

引用を続ける。

「共同体や家族やそれに教会といったものから、商業化あるいは個人的に間に合わせた形式、ブルジョワ的感性の文脈・・ストリート、カフェ、リゾート・・へとブルジョワ的文脈が移行するにつれ、そこから結果する秩序の束縛からの異化された個人的自由の自覚も、さらに増していく。そして自由のこの規範を受容し、ただしそれを獲得するには経済的手段を欠いているミドルクラスの想像上のメンバーは、無関心で匿名なマスのなかで望みない孤立の感覚によって精神的に引き裂かれていた。だが1880年までに個人性を享受することは、印象主義においては希薄となっていた。自然の個人的スペクタクルのみが残されたのだった。そして新印象派においては、人物が復元され、それもときに記念的に復元され、孤立した鑑賞者のあいだに社会的グループが割り込んできさえした。ただ互いにコミュニケートすることはなく、ほとんど自発性のないあらかじめ決められたダンスを踊るという機械化され反復する踊りから、彼らは構成されていた」(3-4頁)。

いささか教条的ともとれるシャピロの論文「抽象芸術の性質」中のこの分析に、著者はまず突っ込みを入れるものの、それでもなお「新芸術の形式がその内容と不可分のものであることをかくも鮮明に示唆しているそれゆえにこそ」高く評価する。「この示唆こそが本書が取り上げるものである」「「階級」、「イデオロギー」、「スペクタクル」、「モダニズム」という言葉の多用のまわりに」。

クラークの著作が英語圏における「ニューアートヒストリー」の嚆矢と目されるのであれば、ニューアートヒストリーのあるあり方はマルクス主義美術史学のあるあり方である、と言える。 ただ大きめに視界をとるならそもそもフランチェスコ・ダル・コーやマッシモ・カッチャーリやベネチア派の仕事はこの点ではニューアーキテクチャーヒストリーと呼べ、個人的には方法論は言わば原点回帰する。

ジークフリート・ギーディオンはジャーナリストではあったが、もとはヴェルフリンに教育された美術史家だった。アルカイック、フィディアス、ヘレニズム、オットー・カロリング、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、クワトロチェント、チンクチェント、マニエリズム、バロック、ロココ、新古典主義、エクレクティシズム、アールヌーボー、あるいは空間とか彫塑性とかコンポジションとか、建築史はそれゆえ美術史学の歴史概念と要素概念で語ってきた。

あるいは都市史はというと、パトリック・ゲデスの根底には「進化(生成変化)」や「精神」があるように見え、ルイス・マンフォードの根底には史的唯物論があるようにも見える。両者にはよく似ている側面もあるが、前者が精神史、後者が史的唯物論とすると、相反する側面もある。 とりあえず方法論そのものについては、今回はここまでにしておく。

本論は全部で4章と結論からなっている。ざっと見ていく。

第一章の「ノートルダムからの眺め」は、まさにオスマナイゼーションについてである。 ギー・ドゥボールによる資本とスペクタクル性の関係を援用しながら、モデルニテとはスペクタクル性であり、オスマナイゼーションのもたらしたものの一つはこれである、と著者は述べる。これはルイス・マンフォードならバロック性と呼ぶだろう。

オスマンがパリに導入したものとは光と風であったが、そのスペースはスペクタクルなものでもあった。さらに規模と経済活動という点では、従来のカルティエを単位としたアルティザンによる製造業から、いわば職住分離の大街区を基本とした工場労働者による生産活動へと移行していくことが述べられていく。バルザックやプルードンなら好む1830年頃の典型風景であるカルティエの風景に変わって、マネの『1867年万国博』で描かれる風景をはじめとして「オスマンの風景」が描かれていったとされる。

この章の最後の方では、モネが描くブールバールやドガが描くコンコルド広場(そこに登場するのは爵位持ちの家族である)、カイユボットの描くヨーロッパ橋に対し、ピエール・ザンドメンゲリが描く街外れの公園、ノーベール・ジョネットが(モネの筆触とは対極的に)克明に描く労働者街、などが対比的に取り上げられる。このあたりの当時の絵画に対する知識はさすがクラークという感じである。

第二章の「オランピアの選択」はマネの『オランピア』を主題としながら、階級(非)表象について論が展開される。 マネのこの絵画はティチアーノの『ウルビノのビーナス』のパロディでるとはしばしば言われてきた。クールベともどもマネらしい知的操作ではあろう。そしてこの画のモデルについてもいろいろ言われてきた。この時代の絵画のモデルの多くは高級娼婦(courtesan)で、本章ではその高級娼婦の階級(非)表象の問題がマネの手法と重ね合わせられて論じられている。

ここでいう高級娼婦はオスマナイゼーション以降の大都市化によって生じたものとされ、表象としては階級に属していない(ように見える)。マネの絵画でもそれはブラゼーな眼差しともども拒絶するような眼差しおよび物質感を否定する平面表象(これは20世紀抽象画の先駆けと言われてきた)として、娼婦を描いた古典的絵画とはまったく異なったものとしてある。もちろん高級娼婦は最終的には「プロレタリア」ではある。ただゲオルク・ジンメルの古典的社会学における単純な交換価値では成立しない範疇の問題として、著者は見ている。同様にして大都市におけるサディズムやマゾキズム(支配と服従)の問題をもわずかだが示唆している。

第三章の「パリ周辺」はモネを主軸として見ていく。Environ、フランス語でバンリュー(ボンリュー)と呼ばれる地域、つまり都市郊外の風景の問題である。モネが描いた風景画には都市郊外のものが多いが、実際モネの自宅/アトリエはその郊外にあり、鉄道と郊外の関係がここで一瞥される(蒸気機関車が噴き出す蒸気や煤煙は印象派が好んだ主題の一つだった)。「郊外」を造ったのは鉄道なのである。鉄道と並んで工場とその煙突から上がる煤煙もまた、印象派が好んだ主題だった。郊外の自然風景のなかにこうした人工物を配置する構図に、著者はニコラ・プッサン以来の風景画の系譜を読み取っている。

また郊外のレクリエーション、あるいは日曜日の郊外とは、ほかならぬ都市中心部の商品経済が「自然」のなかへと侵入してくる様態である。この日曜日の倒錯を、著者は読み取っていく。

第四章の「フォリー・ベルジェールのバー」は、ミドルクラスの娯楽の問題に焦点を当てている。大都市の娯楽、バー、キャバレー、劇場、そして博覧会やオリンピックという都市大衆娯楽はこの時代に誕生したものである。 この時代のアイドル、歌姫から論が起こされる。ロンドンのマリー・ロイドとパリのテレジアである。彼女たちは都市ミドルクラスのモラルを象徴していた、という。 この章のタイトルは言わずもがなマネの同題の絵画『フォリー・ベルジェールのバー』からきている。本章では『フォリー・ベルジェールのバー』の有名な表象不可能問題も、検討されている。

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2012年8月16日 (木)

CHAPTER7 JENNY, ROOT, AND THE FIRST CHICAGO SCHOOL, PART2 The New Age of Steel and Concrete, The TOWER and the BRIDGE The New Art of Structural Engineering, David P.Billington, Princeton University Press, 1983

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7章のメイジャー・ウィリアム・ル・バロン・ジェニーとジョン・ウェルボーン・ルートに焦点を当てた章を読む。

冒頭は、ヴィオレ=ル=デュクの影響で始まる。『建築講話(Entretien)』(1863-1872)は1875-1881年に英訳され、それによってヴィオレの美的理想がシカゴに到達し、またこの影響は大変深いものだったとされる。このあたりの記述は『テクトニック・カルチャー』中のものとほぼ同じである。

著者の類比としては、ゴシックとシカゴが、その時代にあって周縁地域にあったことが言われる。つまり北部フランスはローマという当時の中心から見れば北方の周縁であり、同じくシカゴは東部主要都市から見れば周縁であり、それゆえ経済合理性の結果として構造合理性が開花したのだという類比である。これはまたカール・コンディットがその著作で類比した、シカゴ建築と12世紀におけるゴシック構造システムの発明の類比を敷衍したものでもあろう。

またジェニー自身について言えば、エコール・サントラール留学時代にヴィオレのこの著作に接しており、所員に同書の重要性を強調していたという。そしてゴシック・リバイバリストとの最大の相違は、その主題を形式にではなく、構造に見たことである(この辺りは当時の批評家ピーター・B・ライトの指摘)。

一方では米国における建築教育がcivil engineerの教育にあったことから、論が起こされる。ここでボストンの投資家ピーター・ブルックスからルートに宛てた書簡(この書簡の引用は、コンディットの著作からの引用)を参照し、シカゴは(ボストンと異なって)シビルエンジニアリングに基づいて建設されるべきであるというという考えが示されている。ボストンあるいは東部の投資家は自らの街はヨーロッパをモデルとしつつ、シカゴはあくまで投資の対象としか考えておらず、つまり収益性を第一に、いわゆる建築を排除して徹底してシビルエンジニアリングで建設することをその処方とした、というわけである。

ジェニーのいわば三部作、ザ・ファーストライター・ビル(1879)、ホームインシュアランスビル(1884)、ザ・セカンドライタービル(1891)について、瞥見される。ザ・ファーストライタービルは現存せず、その跡地にはSOMのシアーズ・ローバックタワーが建っており、またそのファサードはジェニーのザ・・・・のものを踏襲したものである、という。

ジェニーはこうした構造合理性を美学としてそれほどは自覚的になしたわけではないが、それをなしたのが、先述したブルックスの書簡を受け取ったジョン・ウェルボーン・ルートである、という。

シカゴの地理的困難は、ミシガン湖畔の軟弱な地盤と、大火後の金属構造形式および耐火構造、の二つであった。こうしたことも、当時の考えでは建築というより、シビルエンジニアリングの問題ではあったかもしれない。

最終的に、サリバンのウェインライトビルと、ルートのザ・モナドノックのデザインを対比して終わる。ウェインライトのファサードの柱の2本に1本は構造柱ではなく、上昇感を演出するいわばサリバン得意の装飾であり(サリバンの形式は機能に従う、という謂いは、形式はプログラムに従う、といったニュアンスであった)、一方でザ・モナドノックは、そうした装飾柱を一切使わず、開口部は採光のためのぽつ窓かオーリアルウィンドウ(これは採光性を高める)であり、外壁は一切の装飾を排し、ただ基壇部においてケーソンとの接続と耐力壁であるが故に分厚くなっている。

著者の評価それゆえ、シカゴをゴシックに類比すれば、ルートが頂点であり、サリバンは余波である、ということになる。

もう一点、ジェニーによるビルは多く、当時の標準的な16階建だったが、1890年頃までには、16階建は構造的にはニュートラルなものとなっており、サリバンにとってこのニュートラル性は満足のいくものではなく、もっと何かを表現すべきものであった、という。

 

Person John Brooks, Peter B. Wright

Magazine American Art review, 1880 et al(“On the present condition of Architectural Art in Western States”)

Book Donald Hoffman The Architecture of John Wellborn Root

 

 

 

 

 

 

 

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2012年8月14日 (火)

ロン・チャーナウ『タイタン ロックフェラー帝国を創った男・下』井上廣美訳、日経BP社、2000年

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ジョン・D・ロックフェラーの評伝である。著者によればジョン・Dは敬虔なプロテスタントで、その現役時代の活動も、第一線を引いてからの慈善事業も、ほとんど宗教的活動のように本書では描かれている。些細なことだが本書の記述によれば、ジョン・Dは一日7時間半の睡眠をとるロングスリーパーだったようだ。またキャラ的には金融王JP・モルガンや、鉄鋼王アンドルー・カーネギーとも対照的な、冗談も言わず、禁酒禁煙の堅物だったという(ここに登場しないのは、鉄道王のヴァンダービルトくらいか)。

ジョン・D・ロックフェラーはスタンダード石油をして、一大トラストへと築き上げた経営者である。常套句のように言われるのは、同業他社を価格競争で市場から追い出し、鉄道輸送独占によって競争に勝ち抜き、市場の独占化によるその冷徹な競争は云々・・・であろう。ただ19世紀後半の石油市場の主力商品は灯油であり、石油産業が20世紀に存続しているかと、当時は議論されていたという。

ここでレーニン流の帝国主義論を大雑把に述べるなら、資本主義は恐慌の度に再編されていき、トラストやカルテルといった独占資本はその再編の最終形態であり、四大帝国(米国、ドイツ、大英帝国、そして大日本帝国)が、国家=総資本+総労働力の市場と資源を求めて、世界の再分割を行う争いへと入っていき、この過程でまさに国民国家を超える国家=帝国によって世界は・・・となり、なおかつ歴史区分としてこれは1890年代以降を指して、そう呼ばれたと言っていいだろう。

恐慌と資本の再編とその後始末という点で見れば、よく言われるのは1929年恐慌とその後始末である第二次世界大戦である。ただ勿論、ホブソンやレーニンが帝国主義論を著した契機である1890年代における、1893年恐慌とこの時代のトラスト、そして米西戦争もまた、一見まさにその分析の通りに進んだように見える。

ただそこに生きた人たちは、そう単純に生きていたわけではないことも、本書のような評伝では見えてくる。

1893年恐慌ののち、いったん共和党のマッキンレー政権が誕生するものの、マンキンレーはあえなく暗殺され、続いて登場してくるのが反トラスト・反独占を掲げるセオドア・ローズヴェルトであった。著者の視点では、ローズヴェルトは政治的には雑種だったという。

いずれにせよそのローズヴェルトが標的にしたのがロックフェラーである。1890年代の独占資本主義時代は、同時にシャーマン反トラスト法の時代でもあり、当時のマスメディアは、ロックフェラーVSローズヴェルト、独占資本VS国家、ニューヨークVSワシントンD.C.と囃し立てた、という。

結局、ローズヴェルトによって、つまり中央政府によってスタンダード石油トラストは解体されてしまう。ただこれによってジョン・D自身は実質的に第一線を退くとともに、個人的にはスタンダード株の急騰も相まって、空前絶後の大富豪となる。

さらに世紀の変わり目とともに、フォードがT型フォードの開発に成功、自動車の大衆化によってガソリンが石油主力製品となり、かつて半世紀も続くのかと思われていた石油産業は20世紀を象徴する産業へと急成長していく。

ジョン・Dの慈善活動の中心は医学であった、という。当時の米国では、医科大学は入学資格も問われず、またその授業は開業医が副収入を得るためのもので、そもそも「研究」という概念もないようなものだったという。マンハッタン・イーストサイドに設立され、日本では野口英世による黄熱病研究でも知られるロックフェラー医学研究所は、こうして米国初の医学研究施設として設立された、という。ジョン・Dはこののち中国初の医科大学を北京に設立しているが、中国へのこうした慈善活動は、当時の米国のプロテスタントが中国での布教に力を入れていたから、という。

いわば宗教的な守銭奴であった父親に比べ、息子ジョン・D・ジュニアはありがちかもしれないが、リベラルで文化的なことにも造詣が深かった。

第一次大戦後にヨーロッパを旅行し、ベルサイユ宮殿が荒れ果てているのを見て、その修復費用をフランス政府にぽんと払い、フランス政府から大変感謝されたという。有名なクリニュー修道院の修復にも関係し、そしてマンハッタンでは有名なクロイスター美術館は、そのクリニューをモデルとして建設したものだったという。

彼の妻であったアビーの活動も突出している。メアリー・サリバンらとともに、のちの世界の現代美術の殿堂となるMoMA(ニューヨーク近代美術館)を設立している。アルフレッド・バーやフィリップ・ジョンソンの名前がちらりと記述に出てくる。1935年、同館は建築家のグッドウィンとエドワード・ストーンによって「インターナショナル・スタイル」の建物としてまとめられる。

ジョン・Dジュニアについての記述で大団円は、ロックフェラー・センターの建設であろうか。コールハースの『錯乱のニューヨーク』でも、同施設建設は記述のクライマックスの一つをなしていた。

同施設はもともと今日でいえばジェントリフィケーションとして、場末感漂う地域の再開発事業として始まり、当初この施設の核となるのは、オペラ劇場だったという。この点ではアドラー+サリバンによるザ・オーディトリアムやブルーノ・タウトによる『都市の冠』を彷彿させるだろう。

底地はコロンビア大学の所有で、土地の賃貸契約を済ませたものの、オペラ計画が頓挫、高い賃料を払いながら、計画が宙に浮いてしまったという。オペラに代わって持ち上がったのが、有名なミュージックホール施設であった。

コールハースが「天才なしの傑作」と呼んだこの施設は、色々な点で不思議な建築である。都市型複合施設はこれ以前にもあった。ただオペラではなく、ロケッツガールズのミュージックホール、RCAその他のテレビ・ラジオと結びついたマスコミュニケーション施設、ハイカルチャーというわけではない新しいメトロポリスの娯楽施設と、店舗、オフィスのメガ複合体。鉄道コンコースとの一体化等々。

デザイン的にはブリリアントなモダニズムというわけではなく、マンハッタンではよく見かけるインディアアナ州産のライムストーン張の折衷的なオフィス・デザイン。ウォーレス・ハリソンやレーモンド・フッドら設計の中核にいた建築家はボザール出身者であり、それがこうしたデザインを結果したと言えなくもない。のちのエンパイアステート・プラザのデザイン等を見ても、ハリソンはニューヨークのローカル・アーキテクトだな、と思うことがある。

建築を資本の観点から見るなら、大雑把に二種類に分けられる、と思う。収益施設と、非・収益施設の二つである。

工場や倉庫といった生産施設は勿論、店舗、賃貸住宅、オフィスなどのいわゆる収益施設はこっちに分類されるだろう。そこで機能性と呼ばれるものは、最終的には収益性へと翻案される。

他方、美術館や修道院といった施設は収益を目的として必ずしも建設されるわけではない。むしろ寄付や慈善事業をあてにしていることもある。

面白いのは、20世紀初頭のヨーロッパのモダニストや、米国のルイ・カーンのような建築家が、中西部の穀物サイロに見た不思議な記念性とか、アドルフ・ロースが配管に見た不思議な美学など、前者のなかに不思議な魅力が浮かび上がってくることもある、ことである。

またロックフェラー・センターのように、収益施設でありながら必ずしも収益部門と呼べないかもしれないものとのメガ複合体を形成することで、不思議な性格を帯びてくる、ということもある。コールハースの言葉を用いるなら「ビッグネス」というのも、集積複合体がまた新しい性格を持ち得る、ということになるだろうか。

同施設建設によって、ウォール街26番地のスタンダード石油のオフィスからここへと、ジョン・Dジュニア達は仕事場を移してくる。本書には、そこから約80キロ離れたポカンティコのロックフェラーの自宅につての記述も時々登場する。本書には登場しないが、吉村順三の晩年の作品に『ポカンティコヒルの家』というのが、あったはずである。ジョン・D・ジュニアの息子の住宅ではなかったか。

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