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2012年9月

2012年9月23日 (日)

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表紙はトーマス・E.トルマッジのアメリカ建築史、中味はなぜか1933年のナチスによるドイツ国会放火事件についての書。

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2012年9月 4日 (火)

Blair A.Ruble SECOND METROPOLIS PRAGMATIC PLURALISM in Gilded Age Chicago, Silver Age Moscow, and Meiji Osaka, Woodrow Wilson Center Press, 2004

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序文とシカゴについての章「ポルコポリス」を読む。

メモ

「ヘースティング自身による東京分析が示すように、視点は立場によって異なる事を単に認識するだけでは十分ではない。(権)力の排除的形式構造と日常生活の実際の配列のあいだの動的関係が重要な問題である。摩擦や不均衡の潜在性が高まるほど、この研究が論じることだが、異なるものの多様な調停の可能性も大きくなる」(12頁)

「この三つの大都市の複雑さは、豊穣ではあるがしかし深く亀裂した社会的、経済的、そして政治的風景を生み出した。当時あるいはこののち似たような他の非・政治的首都で似たようなことは見られた。バルセロナ、ボンベイ、グラスゴー、マンチェスター、ミラノ、それにサンパウロなど。マンチェスターは世界初の工業都市であり、多くの点でここで扱う産業的な「第二都市」のプロトタイプである。

国政のアリーナから離れ、「セカンド・メトロポリス」の成功した都市経営者は、政治的命令や服従より、妥協と調停をもっぱら模索した。一世紀前のシカゴ、モスクワ、大阪のローカル・ガバナンスは実務的多様主義の政治を編み出した。モスクワと大阪の政治寛大主義は国政での好戦的雰囲気に抗することができなかったが、これはシカゴと興味深い対照をなすことになる。

シカゴの産業家、モスクワの商人、大阪の金融業者は一世紀前に、民間資本の統治によってユニークなメトロポリタニズムを育んだ。それまでの「大都市」のいくつかに民間資本から多大なる恩恵を享受したものはあった。ロンドン、アムステルダム、それにアントワープは前・工業化時代の他のどのグローバル・シティよりも、都市総生産における政府財政出動の割合が低かった主な都市である。18世紀までの都市はしかし、主に貴族や君主の居住所として造られるにとどまった」(15頁)。


「ピーター・ホールの仮説、イノベーションと時代の推移は手に手を携えてくる。シカゴ、モスクワ、そして大阪は推移する経済に根を置いた、大きく開かれた町だった」(23頁)。


「都市史への階級アプローチに信を置くなら、階級だけでなくエスニシティの重要性は金ピカ時代のアメリカ分析には当然のものとなる。カレン・サウィスラクが観察するように、「そこに生まれたビジネスマンが実質的(権)力総量の受任者である」というのは都市史専攻の学生には何ら驚きではない」(28頁)。


1912年の平均的アメリカ人は1時間あたり500キロワットの電力を使ったが、翌年の平均的ロシア人は1時間あたり16キロワットの電力消費だった」(30頁)。

「シカゴは1871年の大火と1894年の世界コロンビア博のあいだに「近代的」メトロポリスに変容した。この都市の初の職業的政治家・市長、カーター・ヘンリー・ハリソンが初めて選出された1879年から、彼の息子が同じオフィスに入る1897年までのあいだに、根本的に新しい政治体制が整った」(31頁)。


「ハリソン、アレクセイエフ、それに関は、その資本主義的爆発の頂点にあった急速に変わりゆく産業都市の、莫大で深く分割した実務的問題と、実にうまく格闘した」(35頁)。


「一方では五大湖とセントローレンス川を経て大西洋にいたる、他方ではミシシッピを下ってメキシコ湾にいたるという北米の主要水上交通の結節点に位置するという、比類ない利点をシカゴは備えていた」(40頁)。


「シカゴのローカル・エリートのメンバーはすぐさま、東海岸とりわけニューヨークと資本連携をなし、シカゴを焦点とした一大鉄道網構想を打ち上げた。ニューヨーカーは西部での通商を統治するのに、今や中西部のパートナーに依拠しており、1871年の大火から復興するのに必要な資金を可能な限り素早く注ぎ込んだ。10年とたたないうちに、全北米を統治するニューヨークの競争相手に、シカゴは成長していくだろう」(42頁)


1870年代を通してシカゴはストライキの熱に見舞われ、さらによく知られた1886年のヘイマーケット事件でのアナーキストによる爆弾、悪名高き1894年のプルマン・ストライキ、さらに1905年の集荷場での穏やかな仕事のストップ。アメリカの都市ではどこも階級問題は都市の空間やコミュニティーの問題へとよく包含される。社会的分離の要求となり、これは都市の郊外=下部・都市化や脱・中心化の問題意を同時に生み出す」(44頁)。


「ここで論じる時代では外国生まれの移民はローカル・シーンの最も目につく要因をなしていた。シカゴは基本的にドイツ人とアイルランド人の街でこの時代を通してあり続けた。また他の都市と比べ、ポーランド人、スウェーデン人、チェコ人、オランダ人、デンマーク人、ノルウェー人、クロアチア人、スロベニア人、リトアニア人、それにギリシア人も多かった」(46頁)。


「シカゴの商人は物販に革命をもたらした。シアーズやモンゴメリー・ウォードによるメールオーダーの量販である」(55頁)。


「シカゴの登場はアメリカ企業の上昇と大なり小なり並行している。19世紀に地域的ネットワークとして登場した多くのビジネス組織は、ナショナル・マーケットへと織り込まれた。東海岸資本によるファイナンスとシカゴの管理によって走っていた鉄道は、合衆国における初の統合化された会社の一つだった」(55頁)。


「同時に、南北戦争世代のビジネス・リーダー達は1880年代と1890年代を通して、シカゴ美術館、ニューベリー図書館、シカゴシンフォニー・オーケストラ、フィールド・コロンビアン博物館、クレラー図書館、それに第二シカゴ大学を含むこの都市の先導的文化施設を築いていった」(56頁)。


「シカゴのダイナミックな改革主義はこの時代の「進歩主義」を象徴していた。数十年後、シカゴのアカデミズムの一団はフランクリン・デラノ・ローズベルトの「ニューディール」へと入っていく」(57頁)。

シカゴ万博について「シカゴはニューヨークやワシントンD.C.と死闘を演じた」(57頁)。「建物の白い色調と電灯の多用は、夜になるとシンメトリーな古典主義デザインとバランスをとり、新しい文明を主張した」(59頁)。


「シカゴ南方10マイル、イリノイ・セントラル鉄道沿いに1880年代初頭に造られたプルマン列車の企業町は、この企業の創設者であり社長であったジョージ・プルマンの誇大妄想の夢を反映していた」(63頁)。

「高層ビルは新しい建設技術だけでなく、新しいビジネス・マネージメントの要求によって可能となった。それはホワイトカラーの軍隊と見做す事を要求するものだった」(64頁)。


「カール・コンディットによれば、シカゴ・スカイスクレーパーの技術は少なくとも18世紀に遡行する建設技術の変化の結果である。アイアン・フレーミング、ウィンド・ブレーシング、水密ケーソン工法、耐火被覆、水力エレベータ、セントラル・ヒーティング、配管、ドラフト効果による換気」(64頁)。

「シカゴの市場規制は1893年の景気後退の帰結で、これはその前10年の過剰建設が原因だった。シカゴ・シティ・カウンシルは130フィートの高さ規制を設けていたが、次の30年で260フィートまで上げられていった」(65頁)

「おそらくこの都市の商業的に最も成功し、今も続くホラバード+ローチのような建築事務所は、カネを回すには商売と芸術を混合する必要を理解していただろう」(67頁)。

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