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2012年12月

2012年12月25日 (火)

ルイス・H・サリヴァン『サリヴァン自伝』、竹内大+藤田延幸訳、石元泰博写真、鹿島出版会、2012年

Photo 

石元泰博によるサリバン建築の写真が散りばめられている。ヒュー・モリソンによるサリバン評伝も本書から参照したのか、という部分が結構ある。

メモ

「ある日ルイスは、コモンウェルス街をぶらぶら歩きながら、顎鬚を生やし、シルクハットをかぶり、フロックコートを着た、かなり大きな、威風あたりを払うという感じの男を見かけた。男は近くの建物から出て来て馬車に乗り、馭者に出発するように合図しているところだった。男はまったく勿体ぶっていた。ボストンという町の、男という男はみんな勿体ぶっており、しばしばことさらに勿体ぶってみせていたものである。が、ルイスはその男が誰か、またなんでそんなに勿体ぶっているのか知りたいと思った。そのへんで働いている男にたずねると、その男が言った。

「知らねえのか、ありゃこのビルの建築技師さんよ」

「へえ、建築技師さんて何なの、持主?」

「いいかね、あの人はこのビルの図面を引いた人なんだ」

「なんだって、このビルの図面を引いたって?」

「そうともよ。紙の上にな。部屋を設計してそれから正面の絵を描く。それでもって俺たちが親方の指図で働くんだ。だから建築技師さんはみんなの親方なんだよ」

ルイスはびっくりした。ということは、労働者はその親方をうしろで支え、親方たちは建築技師さんをうしろで支えているわけだ。だがビルディングは、それらの人達すべてをしたがえて立っている。彼はその労働者に、あのフリーメーソン教会にもその〈建築技師さん〉がいたのだろうかと尋ねてみた。

「そりゃいたさ。どんなビルだって建築技師さんが一人はいるんだ」

と、その労働者が答えた。

そのことは素直には信じられなかったが、ほんとうだとすればこれはすごいニュースだと彼は思った。 かれが熱愛する教会の〈建築技師さん〉とは、どれほど偉大で驚嘆すべき男であったろうか。彼は男に、その建築家がどのようにして教会の外側を造ったんだろう、と言った。すると男は、

「きまってるね。頭の中でさ。それに本も持ってるしね」。

「それに本も」という言葉には抵抗を感じた。それなら誰でもできる。しかし「頭の中で作った」という言い方にはうっとりさせられた。

 どうすれば、あんなにも美しい建物を、頭で作ることができるのか。そういう人間とはなんと偉大な、またなんというすばらしい人間であることか。この時、ここで、ルイスは建築家になる決意を固めたのだ」(105-106頁)。

「ウィリアム・ウェア教授は大所高所からの論評を事とし、“安ぴか物”の建築など自分には無用のものであると、折ごとに強調していた」「さらに、時がたつにつれて、この学校はたんにエコール・デ・ボザールの色褪せた模倣でしかないということもわかってきた。ここで真実として学んだことが、真に喜ばしき福音であるかどうなのか、今こそ本拠地へ学びに行く時だと彼は考えた」(172頁)。

「その途次、ニューヨークに立ち寄り、数日滞在した。リチャード・M・ハントは、この市の建築界の重鎮であり、また最古参の技術者だった。その小ぢんまりとして気持ちのいい仕事部屋をルイスがたずね、自分の計画を話すと、彼は背中をポンと叩き、なかなか進取の気持ちのある若者だと言って励ました。ルイスは、この力強い男のパリ時代の話を聞き、ついでストラットンという名の、最近エコールから帰ったばかりの男に引き合わされ、そこでもう一度自分の計画を話した」(172-173頁)。

「フランク・ファーネスは少々変わった人物だった。流行の英国風のいでたちをしていた。はでな格子縞の肩掛けをし、苦虫を噛みつぶしたような顔で、その顔にはすばらしい赤髭が扇のようにひろがって生え、端端までこまかく縮れた髪の毛をきれいに二つに分けていた。おまけに彼は英国産のブルドッグのような醜男だった。自分を罵る言葉を聞きながら、ルイスは夢中になって彼の赤髭に見とれていた」「むろんきみは、給料など望まんだろうね」(174-175頁)。

「サリヴァン、残念だが万事休すだ。ビルはもうできないよ。事務所はいまや干上がる一方なんだ。きみはよくやってくれた、実によくやってくれたよ。わしはきみが好きだ。きみにいてもらえたらと思っとる。しかしだ、ここではきみが一番の新参者だもので、最初に辞めてもらわなくちゃならんのだよ」。

そしてルイスにいくらかの紙幣を渡し、別れを告げ、幸運を祈るといった」(178-179頁)。

ニューヨークのリチャード・モリス・ハントと、フィラデルフィアのフランク・ファーネスのキャラの違いがよく分かる記述である。メモを続ける。

「建築家の名前を尋ねると、ウィリアム・ル・バロン・ジェニイ少佐だと教えられた。恐慌以前の余勢でいまなお建築中であったり、準備中のビルがいくつかあった。そうでなくても街は別の手ひどい打撃を受けていたのだ。火災に経済恐慌とくればどんな都市でも参ってしまうところだ。だがシカゴは、この打撃に耐えぬいたのである」

「これまで彼は、醜悪なものを創り出す才というのはヤンキー独特のものだと思っていた。だがニューヨークやフィラデルフィアでもほとんどの建物は似たような愚鈍なタイプに属し、変わりばえもしない蓮っ葉な俗っぽいお国訛りをまき散らかしているのを発見し、このシカゴにおいてもこれはまったく同断であるのを見るに及んで、この無教養さはごくありふれたものであって、広くアメリカ人一般に通有のものなのだろうと思うようになった。」「本で学んだだけの建築家なら東部にはかなりの数が存在していた。その中にはほんのわずかながら個性的で血の通った建築家もいることはいた。一人をあげるならヘンリー・リチャードソンである。彼は剛腕と雄勁な精神を持った巨人であった。シカゴにも二、三の学者ぶった小心な連中がいる一方、何人か依頼主に対して良心的で聡明な建築家もいた。後者の一人としてジェニイ少佐の名を挙げてもよいだろう。彼は屈託のない紳士であったが、建築家というのは儀礼的な呼称にすぎず、彼の本来の職業は技術者だった」(186-187頁)。

「試験準備をしていたあいだに、彼はイポリト・テーヌの小さな三巻物で『ギリシア・イタリア・ネーデルランド芸術論』というのを見つけていた。この著作から、彼は三つの強烈な感銘と、異様なほどのショックを受けた。その第一は芸術の哲学なるものが存在するという事実であり、第二は、そのテーヌ氏の哲学によれば、一民族の芸術とはその民族の生活の直接の表出もしくはその反映であるとされていること、そして第三には、芸術を理解するためにはその生活を知らなくてはならないと述べられていることだった。

 これらは新しい啓示として彼の裡で輝き渡った」(214-215頁)。

サリバンについて高校時代の教師の影響はよく言われるが、イポリト・テーヌの影響も看過できないように見える。また、パリ、フランス、ヨーロッパに傾倒するサリバンと、日本、東洋、オリエントに傾倒するフランク・ロイド・ライトは随分とこの点では対比的に見える。

メモを続ける。

「この男は、ほかでもないフレデリック・ボーマンで、頭がよくて、辛辣なジョークがうまい人だった。ドイツで教育を受け、したがって彼の皮肉もドイツ仕込みで、1873年に『独立積柱の基礎に関する理論』と題した小冊子を刊行し、その中で独自の概念を構築していた。この小論の論理はすじの通ったもので、しかも堅実な常識に裏打ちされていた。これに述べられている簡潔なアイディアは、長らく標準的な施工の基礎理論として役に立ってきた。これによってフレデリック・ボーマンは、すぐれた頭脳をもった新しい理論の開拓者としての名声をかち得ていたのである。生気に溢れていたがもう95歳だった。長い困難な人生を歩んできたからだろう、その鋭く、陽気な眼からは、世間がひどくあほらしいものに見えているようだった」「その辛辣さはその悪魔的までの明晰さの所産であることがだんだんに分かってきた。彼は明知の人であり、迷いを知らなかった」(226頁)。

言うまでもなく、ボウマンはゼンパーの米国への紹介者である。こののちサリバンは工学に目をひらいていくさまが記述されている。メモを続ける。

「ルイスはすぐに、アドラーが大変頭の回転の速い野心家で、開放的で理解力があり、稀に見る人物であることを見抜いた」(232頁)。

ジョン・ウェルボーン・ルートについては

「だが、そうした浅薄な外見の下に、ルイスは並々でない力を見て取った。真のライヴァルとして、また本質的に共通した主張を持つ者として意見をたたかわせられる人間として彼を認識し、信頼し、彼のような人間に出会えたことを喜んだ。ルイスは、彼を、人物や物を理解し自分のものにしてしまういつものやり方で評価し、モーゼス・ウールスンやミケランジェロやリヒャルト・ワーグナーに対してと同様、ジョン・ルートを自分の有用なコレクションの一つとして付け加えた」(266頁)。

サリバンとルートは対比的に論じられることがしばしばあるが、既にサリバンはルートを特別な存在として評価していたことが分かる。またサリバンはパリ留学行に際に最初にリバプールに上陸ししばらく滞在しているが、そこはルートがしばらく住み、そして影響を受けた地であった。メモを続ける。

「その数年来、シカゴには大きなオペラハウスが必要であると言われていた。いくつかの計画が出されたが、どれもあまりに貴族趣味であり特権階級に迎合したものであって、一般の賛意を得るにはいたらなかった。1885年に時の人ファーディナンド・W・ペックが登場する」「それは実行に移され、まったくわくわくするほどの成果をあげた。一回の上演を6200人が観劇したが、視界も申し分なかったし、一番弱いピアニシモもはっきり聴きとれた。反響や共鳴もなく、澄んだ音色が響き渡った。すでに結論は出ていたも同然だった。恒久的な大ホールが、ただちに建設されなくてはならないということになった。こういうところが、当時のシカゴ気質だった」(271-273頁)。

「ジ・オーディトリアム」という名前はペックによるようである。

「シカゴにおける建築技術の進歩は、1880年代以降に著しい。

 初期のころには4インチの切石積の正面、ガラス円柱、および下部に鋳鉄の円柱とまぐさのついた軒蛇腹が好んで用いられていた。内部構造は根太、柱、桁などすべて木造であり、土台は規格寸法の切石を昔ながらの大ざっぱな方法で用いていた。厚板ガラスと鏡はベルギーとフランスから入ってきた。圧延された鉄梁は、当時はまだ珍しい貴重品だったがこれはベルギーから、ポートランドセメントはイングランドから、それぞれ輸入された。アメリカ製のセメントで使用できるものといえば、「ローゼンテール」「ルイスヴィル」それに「ユーティカ」だけで、これらは天然セメントとか水硬性セメントなどと呼ばれていた。褐色砂岩はコネチカット、大理石はバーモント、花崗岩はメインからそれぞれ産出していた。暖房、配管、排水、またエレベーターやリフトなどの内部諸設備はきわめて旧式であった。材木は堅材も軟材も豊富にあった。中にはしっかりした建物もいくつかあったが、商業地区の建物は、ほぼ今述べたような状態だった。なお、大火以前に、むき出しの鉄は火に強いだろうという憶測に基づいた耐火建築がいくつか試みられたことは注目すべきだろう。

 住宅地域では、美観を競って誇示する傾向が目立ちはじめていた。すでに金持ち階級が大衆によって押し上げられつつあったのである。だが、何エーカー、何平方マイルにもわたって、すべて木造建築ばかりだった。前にも述べたように、シカゴは世界最大の材木市場だったからである。」(280-281頁)

「シカゴの建築家達は、鋼製フレームを歓迎し、うまく使いこなした。一方、東部の建築家といえば、これに怖気をふるい、これを改良して行うことなどさらさら考えなかった。」(288頁)

「この時期には、産業界で合併や結合、トラストなどがさかんであった。シカゴの建築家のなかでこの動向の最大の重大性を見通していたのはダニエル・バーナムただ一人だった。なぜなら、大規模化、組織化、委託性、大量取引への指向は彼自身の内にもあったからである」(289頁)。

1890年秋、ジョン・ルートは建築顧問に、ダニエル・バーナムは建設工事委員長に、正式に任命された。

 その後、建物と敷地委員会の議長をつとめるエドワード・T・ジェフリーの助言を容れて、バーナムは東部から5人、西部から5人、合わせて10人の建築家を選抜した。バーナムとジェフリーはきわめて親密な間柄だった」「会議がはじめられた。この道最古参のリチャード・ハントが席に着き、ルイス・サリヴァンが書記をつとめた。バーナムが歓迎の挨拶のためにたった」(293頁)。

「工事は完成し、1893年5月1日、門扉が一斉に開かれ、群衆が八方から流れ込んだ。この人の流れは天気の良い夏から美しい10月までをとだえることなく続いた。そしてそれは終わった。門は閉じられた。

 群衆はまさしくびっくり仰天した。はじめて開示された建築芸術というものに目をみはった。何かと比較しようにも、何もなかった。群衆にとっては、それは黙示録のようなものであり、天の声であった。これによってはじめて、彼らの想像力は新しい理想を形作ったのである(以下略)。

 彼らが見たものは、彼らが見たと思い込んだものでは全くなかったのである。彼らの眼前に置かれていたのは、時代遅れの材料を売り込もうというたくましい商魂と結託した、高度に封建的文化の、あからさまないんちきであったのだ」(294頁)。

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2012年12月24日 (月)

ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石、建築・装飾とゴシック精神』内藤史朗訳、法蔵館、2006年

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訳者の内藤史朗によれば本書は抄訳である。序章「石切場」と第六章「ゴシックの本質」を読む。

序章では著者の歴史観が窺われる。それはミシュレやブルクハルトらのルネッサンス観とは対極に位置するようなものである。著者の立場はいわば中世キリスト教主義であり、ルネッサンスからこちらは衰退と堕落の過程とでもいったものである。べネチアはフン族のヨーロッパ侵入からここに亡命してきた人たちによって建設されたという。最初の900年(つまり中世)は繁栄の時代であり次の400年(つまりルネッサンス以降)は衰退の時代である。これは統治形式や文化芸術においてもそうであると見做され、前期900年は共和制において繁栄し、後期400年は総督制という統治形式において衰退したと見做され、文化芸術も中世ゴシックにおいて繁栄し、ルネッサンス以降の合理主義において衰退していったと見做される。

ふと面白いのは、南方と北方の様式闘争といった視点などはローゼンベルクなどの初期ナチズムの文化理論への影響や、またいわば疎外論においては初期共産主義の文化理論への影響が(そもそも疎外論自体がキリスト教と関係がありそうであるが)彷彿されることであり、初期ル・コルビュジエなどもラスキンの影響下にあったことを考えると、あらためてラスキンの20世紀前半の文化理論への広範な影響を思わせる。あるいはタフーリの『建築とユートピア』もルネサンス以降を批評的に読むことにおいて、ラスキンの影響を何がしか読み込むことも可能かもしれない。

パラディオ他は、以下のように言われる。

「合理的啓蒙主義者は、芸術を保存し、宗教を捨て去った。その合理的芸術がいわゆるルネッサンスであって、異教の体系への回帰によって特徴づけられる。異教体系を採用してキリスト教のために浄化するのではなくて、模倣者として異教の下で弟子になることで、異教に回帰するのであった。絵画で先頭を切ったのは、ジュリオ・ロマーノとニコラ・プーサンであり、建築では、ヤコポ・サンソヴィーノとアンドレア・パラディオである。

 あらゆる方面で引き続いて起こった堕落は、愚行と偽善の洪水であった。最初は誤解され、次いで根拠薄弱な官能的解釈をされて捻じ曲げられた神話が、キリスト教的画題の表現に取って代わった。カラッチ一門(ロドヴィゴと、彼の従妹アゴスチーノと、その弟のアンニバーレとカラッチ家から出た芸術家達で、装飾画、壁画、版画に卓越した)のように、人々を描くうちに冒涜的になった。人物形象が沢山描かれた画布の上に、無力な神々、純朴さを喪失した牧神、無垢を捨てた半神半人の妖女、人間性を喪失した人間たちが、病人の群れとして表現された。

 街路にある大理石像は荒唐無稽で衒学的場面に溢れていた。悪用された知性のレヴェルは徐々に低級へと傾いた。風景画のさもしい流行によって歴史画の地位が奪われた。そして、風景画は好色的衒学的趣味に陥った。その実例はサルヴァトールのアルザス地方の雄大な山岳風景、クロードの子ども騙しの観念的絵画、アルプスより南方では、ガスパールとカナレットによって濫作された退屈な作品、その北方では、煉瓦と濃霧や、肥えた牛と溜り水の描写に酔い痴れた画家の、生涯を捧げた根気強い作品などである。こうして、キリスト教道徳、勇気、知性、それに芸術のすべてが崩れて一つの残骸の山となった」(31-32頁)

 第六章「ゴシックの本質」は文字通り「ゴシック性の本質」と著者が見做すものへと迫っていく。著者がゴシック性と見做すものは、

1、  野生(粗野性)

2、  多様性(変化愛好)

3、  自然性(自然愛)

4、  グロテスク性(型破りの想像力)

5、  厳格性(頑固さ)

6、  饒舌性(惜しみない表現力)

である。ここからさらに「建築者に属するものとして」

1、  野生または粗野性

2、  変化愛好

3、  自然愛

4、  型破りの想像力(独創的構想力)

5、  頑固さ

6、  寛容さ

があげられる。

1の野生は後期ローマ時代「堕落したローマ人の文明がその贅沢の極みと罪人としての傲慢さゆえに、いわゆる暗黒時代の終わりにヨーロッパ文明を模倣するモデルとなった時に、ゴシックという語は、嫌悪感の交じった、紛れもない侮蔑語となった」、つまりローマから見れば北方の周縁(ゴート人)の「粗野な」ものであったがそれは決して否定的な意味として捉えるべきではなく、むしろ「形容が侮蔑的に用いられる限り、それは誤用である。だが語そのものは非難されるべきではない。それどころか、正しく理解されれば、人類の本能がほとんど無意識に認める深遠な真実がある」(249)なのである。

この部分ではまた装飾も3つに分類されて考察されている。3つとは

1、  奴隷的装飾、劣った工人の施工や能力はより高度な人達の知性に完全に服従させられる。→ギリシア、ニネヴェ、エジプト

2、  構成的装飾、制作上劣った能力は、ある点まで解放され独立している。それはそれ独自の意思を持ち、しかも、その劣等性を告白して、より高度な能力に服従するから。

3、  革命的装飾、制作上の劣等性は認められない。

である。さて話を元に戻すと「粗野さや不完全さが実は正しく理解されたなら、キリスト教建築の最も高貴な特性の一つであって、高貴であるだけでなく、欠くべからざる特性である」と述べ、それは「不完全でない建築は真に高貴であるはずがないということは、気まぐれな逆説と思われても、やはりそれは極めて重要な真実である」とされる。「建築家は」「仕事全体を自分自身の手で執行できない以上」「工人を奴隷にし、彼の仕事を奴隷の能力の水準にまで落とし、その結果、彼の仕事を堕落させることになる。さもなければ、彼は彼が工人達を見出したままに彼らを受け入れて、彼が自分達の力強さと共々に自分達の弱点も見せるようにさせねばならない。その弱点はゴシックの不完全さと絡み合うだろう。しかし彼は、彼の仕事全体をその時代の知性ができる最善の高貴なものにしなければならない」(268-269)

冒頭からしかし、これはピクチャレスクの美学と方法論ではないのかと思わせる記述である。

 2の多様性(変化愛好)の中ではこうも述べられる。「19世紀の人々が芸術で得たすべての喜びは、私達がピクチャレスクという語で楽しんだ絵画・彫刻、二流の骨董品、中世建築にある」「繰り返し「目から鱗」の斬新さを生み出せることにある」(275)である。

 3の「自然愛」もこの延長上で述べられる。「大自然がこうすべき(自然の造形のこと、訳者注)だと神は意図しているだけであって、最良の技術を生むことを神が必ずしも欲求しているわけではない」(283)。ここから人間を「事実の人」「デザインの人」「その中間の人」に三分類し、論じていく。

 4の「グロテスク」はここでは詳述されない。訳者によれば別の個所でピクチャレスクとの異同が論じられているという。

 5について。「現代のイギリスの偉大さの源であるモラル上の習慣は、ゴシック派が明確に創造した特徴に認められる。その習慣とは、哲学的探究、正確な思想、在家的脱俗と独立、厳しい自己信頼と宗教的真実に対する誠実で高潔な探究、そういったすべての習慣である。

 ゴシック派の創造した特徴とは葉脈の入った葉、茨状の模様細工、陰影ある壁龕、控え壁で支えられた門、「天国へ向けて発せられた不惑の問い」を表象するように、天高く聳える恐れを知らぬ高さの神秘的な小尖塔と飾り冠のついた塔である」(312)

 さて6について。「ゴシック建築の第一の必要条件は、最も洗練された心だけでなく、最も粗野な心の助けを容認し、同時にそういう人達の称賛を受けるように訴えることも容認することであるから、作品の豊かさは・・逆説的に思われるかもしれないが・・その謙虚さの一部である。単純な建築ほど傲慢な建築はない。単純な建築は、ニ、三の明瞭で力強い線刻以外は眼に訴えることを拒否する。それは私達の凝視に対してほとんど示されるものがない時に、それが提示するすべてが完全であることを意味する。そして、それはその特徴の複雑さや魅力のいずれも、私達の研究をまごつかせることを拒否し、私達を欺いて喜ばせるのを拒否する。ゴシック派の生命である謙虚さは、装飾の不完全さだけでなく、装飾の累積でも示される」(313)

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2012年12月 2日 (日)

ジョン・ラスキンの「ピクチャレスク」

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picturesqueが原語。たとえば、ミケランジェロの絵画には、崇高な要素が取り入れられ、これはたんに表現上の美しさを狙った画家の絵画よりも優勢であるとする考え方。その分だけ後者の画家よりもピクチャレスクということになる。このように付随的要素としての崇高さが、表現的な美しさと識別される。それが『ピクチャレスク』という用語のラスキン的意味なのである(ラスキン著・杉山真紀子訳、『建築の七燈』鹿島出版社、「六章、記憶の燈」XII参照)。一九世紀産業革命による自然破壊の進行に対して、この語の流行は一定の役割を果たしたが、その限界をも示した。なお、Stones of Venice Vol.III(原著)III章三五節にも、「ピクチャレスク」の説明があるが、今度は「グロテスク」との識別として述べられている。崇高さを「ピクチャレスク」の付随的要素とする点で、『建築の七燈』の右の説明と同様である。崇高さが自然の中に見つけられる美しさの要素であるとして山小屋の屋根の例を挙げている。スレート板で葺かれた屋根よりも、頁岩(泥板岩)で葺かれた屋根の方が「ピクチャレスク」であると言う。それは、頁岩の方が自然の山岳風景に似合っていて、自然に溶け込んで見えるからである。なお、自然の崇高さについては、『近代画家論』の原著IV巻に詳しいが、訳書『近代画家論』(法蔵館版)はIII巻まで既刊だが、IV巻は未刊」。


(10) picturesqueが原語。注(4)でも説明しているが、人工に対立する「朽ちる」自然に、崇高さや奥深さを見たのであろう。本書第五章で「良い色彩」に対立して「派手な色彩」をラスキンは挙げたが、このように対立させる見方は、産業革命とそれに続く人間疎外と言う弊害を批判していたラスキンが、独創的に育んだ思想・信条から出てくる見方であって、同様にして「良い色彩」は「ピクチャレスク」とするのも、彼の感性・思想・信条から出てくるものなのである。 
 
最近の論文に見られる「ピクチャレスク」論を紹介し、あわせてラスキンとの相違を明らかにしよう。主として一八世紀の「ピクチャレスク」を論じて、大河内昌氏は「崇高とピクチャレスク」(岩波講座「文学」第七巻『つくられた自然』所収論文)を書いたが、この論文では一九世紀のラスキンについての言及は無い。大河内論文によれば、「ピクチャレスク」は「構図」の中で画家は見る人を楽しませるため、「さまざまな要素の対象や組み合わせを仕組む」。また、「画家が自然を対象とする場合には、いかなる人間的な枠組からも溢れ出てゆく崇高なものに目を向けることを放棄し、かぎられた枠内で視覚的自然を素材とした構図を組み立てる」。したがって、「ピクチャレスクは可視性に還元できない伝統や慣習を排除することで、純粋に形式的、表面的なものだけを美的な要素として取り出そうとする」。こうして、「ピクチャレスクが道徳性や精神性の問題を忌避する姿勢につながってゆく」。 

 しかし、ラスキンは「構図」「構成」から「構想」「構想力」へと思考の対象を進めたのである。たんに可視性、視覚性の狭い領域を対象とするのではなく、想像力の領域まで対象が広げられたのである。したがって、こうした「構想力」は、たんなる「構図」「構成」と異なり、モラル性、精神性と深くかかわるのである。」


内藤史朗、ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石、建築装飾とゴシック精神』法蔵館、2006、第六章での注、343-345頁

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