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2013年5月

2013年5月14日 (火)

川向正人「ゴッドフリート・ゼムパーのポリクロミー観に関する研究」(日本建築学会計画系論文集第530号、2000年4月)、「ゴットフリート・ゼムパーの始原への探究に関する研究」(日本建築学会計画系論文集第537号、2000年11月)、「ゴットフリート・ゼムパーの『建築の四要素』に関する研究」(日本建築学会計画系論文集第538号、2000年12月)、「ゴットフリート・ゼムパーの『科学・産業・芸術』に関する研究」(日本建築学会計画系論文集第583号、2004年9月)

Kawamukai

ゼンパー研究の背景について冒頭にまとめられている。

1960年代、特にドイツ語圏では19世紀歴史主義再評価の動きが高まって、その時代の建築や街区の文化財的保存を前提とする悉皆調査が始まると同時に、関連する図面と写真などの史料整理と保管も組織的に進められるようになる。チューリヒにあるETHが「ゼムパー資料室」を設けて、ゼムパー関係の文書と図面の収集・整理・保管に着手したのも、1964年頃である」「1974年には、ETHの建築史建築論研究所主催によるゼムパー・シンポジウムが開催され、彼の思想と建築作品が多元的視点から論じられた」「ヘルマンはこれに先立ち、ゼムパーの建築論形成に重要な役割を担ったフィーヴェーク出版社の社主E.フィーヴェークに宛てたゼムパーの書簡を分析して、主著『様式』(11860、第21863)に至るゼムパーの建築論の形成過程を正確に辿る実証的研究を発表して高い評価を得ていた」「そして、1979年にはドレスデンでも、ゼムパー没後100年を記念する大規模なゼムパー展とそのオープニング・セレモニーとしての専門家会議が開催された」「W.ヘルマンもまた、長年続けてきた「理論的遺構」整理の成果を問う形で『ゴットフリート・ゼムパー -建築を探究して』(1984)を、そしてH.F.マルグレイヴとの協働で『ゴットフリート・ゼムパー、-建築の四要素とその他の著作』(1989)を刊行し、そのマルグレイヴは近年、大著『ゴットフリート・ゼムパー -19世紀の建築家』(1996)を刊行して、伝記的にゼムパーの行動と思想の展開を描くことに努めている」(530号、235-236)

研究の方法については次のように述べられる。

「同研究の中で大倉は、ゼムパーの建築思想に関して可能な3通りの研究方法を挙げ、自らの研究方法をそのうちの一つ、すなわちゼムパーの主著『様式』を叙述の順序を追って課題ごとに逐一批判的に検討するものとしている。それに対して本論は、大倉の表現を借りれば、「ゼムパーの多数の著書・論文を年代順に追って、彼の思想の発展を究め、問題となる部分を要点的に観察しつつ、伝記的に組み立てる」という彼がとらなかったもう一つの研究方法を採用するものである」(530号、236)、「わが国にはゼムパーの建築論に関して大倉三郎の労作と評すべき『ゴットフリート・ゼムパーの建築論的研究』があるが、そこでは、後期の大作『様式』(18601863)の分析が中心を占めて他の著書・論文が補助的に扱われており、初期の『覚書』からこの『様式』までのゼムパーの建築思想の史的展開を明らかにしようとする筆者とは対照的な方法が採用されている。しかしこれまでの筆者の研究からも、ゼムパーの思想と関心が時間の経過とともに変化していることは明らかで、『様式』の枠組みを過去の著作に当てはめるには細心の注意を要する。そして、とくに本論に関係するところでは、大倉の「附録」によると、氏が入手できなかった著書・論文に『建築の四要素』が含まれていることも指摘しておく必要がある」(538号、235)

530号はクリスチャン・ガウ経由の多彩色問題を中心に検討が進められていく。個人的に面白いのはむしろ「美」についての言及で、それは著者が述べるとおり、のちの「四要素」とは異なる展開をなしている。つまりデュランを批判的に検討しながらゼンパーは「デュランと決定的に異なるのは、その必要に美をもって応えよと主張する点である。「われわれはこの必要を理解し、必要に美の観点から応えるべきであって、遠い時間と場所の隔たりがもたらす霧がわれわれの服を曇らせるところにのみ美を見るなどということがあってはならない。われわれが古いがらくたばかりを追い求め、われわれの芸術家たちが過去の苔から生活の糧を得ようと重箱の隅を突いている限り、生産的な芸術生活は期待できない」という具合である。続くセンテンス、「芸術は必要というただ一人の主のみを知る」は、後にO.ワーグナー(Otto Wagner 1841-1914)が引用したことでも有名になった」(530号、237)。のちのイポリット・テーヌらを彷彿させる「必要」に美を見出すこの観点は、ゼンパー中期の『四要素』中で展開されるゲーテに影響された「芸術美」とはまた異なっているように見える。つまり、

「ゲーテは、建築を含めて芸術作品の美は、美しい対象を模倣したり、比例などの美学的方法を守ることによっては生まれないと考え、まず美よりも個性、原型が多様な条件のなかでダイナミックに変形していく過程で示す個性にこそ、芸術の真実を見出していた。「真の芸術」、「真の美」とは何かをもう一度定義し直す必要があるわけだが、ゼムパーも、書簡で自らの建築論を語る最後となる第8パラグラフで、そこに立ち返る。明らかにゲーテの影響を感じさせる内容で彼は」(537号、279)、という「芸術美」の考えである。また「有機的」という概念はゲーテのキーワードであり、ゼンパーはここから「有機的建築」の再定義をなしたという(537号、278)

さらにこの芸術美は「理念」を媒介としている。つまり「自然においては、素材は常に理念に従うものであり、そしてこの原芸術家(自然)は自らの素材を選び、それ自体に内在する法則に従って素材を活用する。しかし、この原芸術家は自らの形象に、理念にしたがって形態(Form)と性格(Charakter)を付与し、それによって理念が具体化(Verkorperung)される。理念はその具体化に最もふさわしい素材が選ばれ現象することによって、自然な象徴(Symbol)として美(Shonheit)と性格を獲得する」では、ウル(-Ur-)状態の自然生成における「理念」「素材」「形態」「美」の関係が明快に語られる」(537号、278)

さらにまた、アロイス・ヒルト/ヘーゲル以降の言説であるギリシア芸術の優位について、あるいは「彼自身と同時代の最大の関心事でもあった「いかにギリシャ文化が成立したか」という問いに対する自らの考えを、ゼムパーが簡潔に描いている」。

「以上の一民族(この場合「ギリシャ人」)の芸術文化の生成に関するゼムパーの主張の要点を整理すると、まず以下の3点になる;1、異国から導入されたモチーフも太古からの土着のモチーフも、全く平等に扱われること。2、いずれのモチーフも一旦、生命を失い形骸化してその場に堆積し、多様なモチーフ群の腐植土を成すこと。3、新たな芸術文化は、こうして出来た多様なモチーフ群の腐植土が存在するところにのみ誕生し得ること」「4、芸術文化の新たな生成の契機となり、それを方向付け、作品に意味を与えるのは、理念である」(538号、239)となる、のである。

さらに付け加えて述べれば、アジア的集団性に対するギリシアの理念性(ヘーゲル的な謂いである)が、こう述べられる。「ギリシャ文化は」「自然から自己解放して自由な自己意識に至り、ミクロコスモスとしての自己を、創造の神々(Elementargotter)から遠ざけた。すべてが、見かけよりはるかに実用的で、特質(das Spezielle)が軽やかに集団からの自己止揚を果たすのである」(537号、277)

また当初始原(Anfang)におけるモチーフと呼ばれていたものは「要素」概念へと変わっていったという(538号、238)

要素概念は言わずもがな建築の原・四要素とそれに対応する原・技術においてよく示されているが、それについては何度も言われてきたので、ここではメモを省略する。

最後は『様式論』へと向かっていく途中、ロンドンで書かれた『科学・産業・芸術』について。

その前にゼンパーの「様式」概念を一瞥する。ゼンパーの様式とは「基本理念(Grundidee)と、その基本理念を芸術作品へと具体化するに当たって変形を促すかたちで作用する(modificirend einwirken)すべての内的・外的な因子(Coefficiente)、この両者が芸術的意味へと高められつつ前面に表れること(Hervortreten)である。ゆえに様式喪失とは、この定義に従えば、基本理念の無視と、制作に供された素材を美的に利用する際の稚拙さから生ずる、その作品の欠点のことである」(538号、170頁での引用)

ゼンパ-がここで「様式の喪失」を述べる背景にはロンドン万博でみた混乱もあろう。いずれにせよ素材も含めた与条件とその結果の一致を、ゼンパーは様式とするのである。

ところでStyleが「尖筆」(Stylos)から来ていることを思えばデリダの「尖筆とエクリチュール」(原題はEpelon)は、ニーチェ論としてジェンダーの観点から多く述べられてきたが、そもそもこれは様式論であると述べ得るはずである。またニーチェ自身、ゼンパーの影響を批判的にせよ受けているはずである。

さて『芸術・産業・科学』は、ヘンリー・コールやアルバート公の影響を受けて書かれたと言っていい。「芸術産業」という言葉はコールの造語といい、「芸術や美を、機械による生産方式に適用することを意味した芸術産業という言葉を思いついたのは1845年頃だった」「その目的が「芸術と製造業者の協力によって国民の趣味の向上を図る」ところにあったと述べている」とされる(583号、166)

ゼンパーがこのコールの考えに何がしか影響されたことは容易に首肯し得る。そしてここから「旧タイプのアカデミーの教授や芸術家たちと産業を組み合わせるだけでは、状況はむしろ悪くなる。改革として進めるべきは、まず、新しい時代の必要・理念を理解し、さらに時代が提供する材料や技術を使いこなす実務能力に長けた芸術家を教師として登用し、彼らに力を発揮させる教育システムを新たにつくること、である」(583号、169)となる。

そして「自由の国アメリカでこそ「最初の真に国民的で新しい芸術が花咲くだろう」とゼンパーが同書7章において書いたとされることは、何とも示唆的ではないだろうか。

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2013年5月 5日 (日)

Nancy Frazier, Louis Sullivan and The Chicago School, Knickerbocker Press, NYC, 1999

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大判の書で著者撮影と思われるカラー写真が散りばめられている。ドナルド・ホフマンのようなサリバンをいささか小馬鹿にしたような記述もなく、デビッド・P・ビリントンのような構法の視点からサリバンを批判的に見た記述もなく、その点ではルイス・マンフォードやヒュー・モリソン、それにジェームズ・オゴールマンらの記述上にあると言える。どちらかと言えば入門書的である。ただ上述書の記述にはなかったが(モリソンの評伝においてさえ)、晩年のサリバンが貧困とアル中のなかで孤独な生涯を終えたことが明記されている(7頁、一次資料は不明)。

またライトとの決別は、ライトがサリバンに隠れて住宅の仕事をしていたからだと言い切っている(17頁)。

サリバンの最大の転機はやはり1893年シカゴ・コロンビア博だったとする。つまり「サリバンの視点からすればこの博覧会建築がアメリカ精神に与えた打撃は嘆かわしいものだったが、しかし大衆はそれを気に入った。結果として、サリバンが公然とそれを批判すればするほど・・彼はそれを頻繁にそしてくどくどとやった・・合衆国における彼の評判はどんどん悪くなっていった」(16頁)、「ほとんどの人にとってそれは欲した通りのものだったが、サリバンにとってはしかし災難だったのである。東海岸のエスタブリッシュの建築に対して彼が投げかける辛辣さにもかかわらず、それが主流となっていったのである。彼らはボザールの建物を大いに気に入ったのである」(19)

このあたりの展開は、英国におけるチャールズ・レニー・マッキントッシュや、ロシア・アバンギャルドが辿ることになる先駆者ゆえの孤立化と実に重なっているように見える。さらに述べれば、ルイス・マンフォードが『スティックス・アンド・ストーンズ』においてボザール/ローマ帝国の建築ボキャブラリーの台頭と文字通り帝国主義の台頭が軌を同じくしたものだったとする記述における19世紀末米国の独占資本主義を、そのまま1930年代以降の別の独占資本主義つまりスターリンの国家資本主義に当てはめるなら、どちらにおいても帝国が文字通り「帝国のファサード」(マンフォード)をまとったことになろう。そして後者においてもそれを支持したのはあるいは気に入ったのは実は大衆だった。これを前者に敷衍するなら、19世紀末の米国の大衆は単に「帝国のファサード」を大いに気に入っただけでなく、独占資本をも実は支持していたと言えるかもしれない。ジョン・D.・ロックフェラー他は実は大衆のヒーローだったのではないか。

またこの博覧会の建設委員会において、サリバン自身『自伝』において記すように、彼は書記を務めた。ダニエル・バーナムが東部から召喚した当時の米国建築界の重鎮、リチャード・モリス・ハント、かつてサリバンが16歳だったころニューヨークの彼のオフィスを訪れ好印象を持ったハント、そのハントとの再会、にも決して悪い印象は持っていないし、どちらにしてもサリバン自身が「書記」という立場で関わったこの博覧会建築の、この一連の矛盾は実に魅力的である。そして、それは単なる偶然でも逸話でもなく、もっと根本的な問題を孕んでいたように見える。

これまでの書でも何度かでてきたが建設委員会についてメモ的に、シカゴからは、アドラー+サリバン、ジェニー、ヘンリー・コブ、フロスト+ホワイトハウス、ニューヨークからは、ハント、ジョージ・ポスト、MMW、ボストンからはペーバディ+スターンズ、カンザスシティからは、ウェア+バンブラント。

メモもう一点。

サリバンはシカゴ証券取引所を設計している。竣工は1894年、内観はアールヌーボー。よく登場するのはホラバード+ローチの商品取引所。1927-30年で大恐慌期の建物。ザ・モナドノックは16層で鉄骨フレームではなく伝統的な組積造。

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2013年5月 3日 (金)

サンワカンパニー・ショップカード

サンワカンパニー・グランフロント大阪ショールルーム・オープンに合わせて制作されたショップカードに拙作(ハスネリノベーション)の写真を使っていただきました。店頭に置かれているそうです。

同ショールームのウェブページはこちら。お近くの方は是非。

http://www.sanwacompany.co.jp/shop/pages/showroom_osaka.aspx

サンワカンパニー様、有難うございました。

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