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2013年7月14日 (日)

柄谷行人『ネーションと美学、定本柄谷行人全集4』岩波書店 2004

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序章は著者の言う「帝国」と「帝国主義」の相違など。

帝国主義は帝国とは異なり、国民国家の延長であること、それゆえ帝国主義はその延長で、新たな国民国家を結果する。

第一次大戦後の東欧諸国独立や第二次世界大戦後の東アジア諸国独立はその例と言うべきか。

ただ、著者の述べる「帝国」は帝国あるいは「帝国主義」のある状態を言っているのではないか、むしろ著者のこの区別自身が歴史の遠近法的倒錯ではないのかと言うことはできるかもしれない。たとえば、ローマ帝国は都市国家が膨張して「帝国」になったものであり、『ゲルマニア戦記』に見られるようにその過程は絶えざる戦争の過程でもあった。つまり著者が述べる「帝国」とは帝国のある時期の状態である、とは言えるかもしれない。

メモ

「くりかえすが、フロイトは「死の欲動」を、戦争そのものからではなく戦争神経症から考えたのである。戦争神経症は、戦争一般や外傷的神経症一般に解消されない。ある観点から見れば、第一次大戦は従来の戦争と同じであり、戦争が終われば、人々はもとに戻るはずであった。だが、元に戻らずに毎夜戦争を反復している神経症者がいる」(84)

「フロイトが「死の欲動」論を文化論として語り始めたのは、実際は1930年代の『文化への不満』からである。そこで、彼は、文化(彼は文化と文明を分けるドイツ的伝統を否定する)をさまざまに定義しながら、根本的に、それを「超自我」と見なしている。その場合、外的な規範としての分化=超自我が快感原則に立つエスを抑圧するという旧来のロマン主義的な考えに対して、フロイトは、文化=超自我はそれ自体、死の欲動の派生物であると見なしている」(86)

「『文化への不満』において、フロイトは「文化の敵対」の跳梁を見出している。「文化の敵対」は第一次大戦から見られた傾向であり、「生の哲学」と呼ばれたりもするが、基本的にロマン主義的傾向である。たとえば社会主義者ソレルは、文化的秩序の暴力forceに対して、それに対決する「生」の肯定としての暴力violenceを肯定した。戦争が始まると、抽象的なインターナショナリズムに依拠していた社会主義者は、一斉に参戦に踏み切った。これをたんに国益の観点だけで見ることはできない。彼ら自身あるいは大衆が、戦争のもつ生=攻撃性の魅力に抗しきれなかったからだ。すでに述べたように、フロイト自身がそれにある共感をおぼえていたのである」(86-7)

「しかし、フロイトは、いかに居心地が悪いにせよ、「文化」=超自我が強まることを肯定しようとした。彼の考えでは、攻撃欲動を抑制するのは、外的なものではなく、攻撃欲動それ自体である」「超自我、そして、文化の意味を根本的に変えてしまうような転回をフロイトに迫ったのは、戦争が終わっても、毎夜、戦争を反復している患者たちであった、ということに注目すべきである」(88)

「第一次マゾキズムであれ、死の欲動であれ、経験的な概念ではありえない。攻撃性が戦争の観察から容易に得られる認識であるのに対して、攻撃欲動はいわば戦争神経症の「悪夢」からのみ得られる超越論的な過程である。しかし、攻撃欲動を、さらにそこから派生するとされる一次的な「死の欲動」と仮定するのは、形而上学の導入ではない。フロイトはあくまでもフィジカルな視点を貫きながら、そこにメタ・フィジカルナものの不可避性を「欲動」として見出したのである」(102)

「フロイトが脳内物質を予想していたことは、以上の記述からも明らかである。今日の大脳生理学は彼が予期していたように進んでいる」(103)

「にもかかわらず、伝統派が勝利したのは、たんに伝統工芸がヨーロッパやアメリカで美学的に評価されたからというよりも、商業的に成功したからである。ウィーン万国博での成功の結果、日本政府は1878年のパリ万博にも約45千点もの作品を送ったが、即売会でこれが売り切れた。生糸の他には輸出品をもたなかった日本にとって、これは何よりも輸出産業としての意味をもったのである。文化官僚である岡倉は、このことを利用して西洋派に対する覇権を握った。ナショナリズムは一般的に、美学的な意識において成立する。日本のナショナリズムの萌芽である江戸時代の国学者本居宣長においても、それは知的・道徳的な視点(インドや中国に由来する)に対して、美学的視点(もののあはれ)を優位におくことにはじまっている」「それに対して、視覚芸術が違っているのは、日本人がそう思う前に、西洋において評価されていたことである」

「東京美術学校の創設において伝統派が勝利したのは、それが伝統的だったからではなく、それが西洋に評価され、且つ産業としても成立していたことによるのである。もちろん、東京美術学校は、設立後十年も立たぬうちに、岡倉を追い出した西洋派にとってかわられた。しかし、「西洋派」はそれ以降根本的な背理に苦しむことになるだろう。なぜなら、日本において先端的であり反伝統的と見える仕事は、西洋においてはたんなる模倣と見えてしまい、「伝統派」に回帰した方がかえって先端的に見えるからである。この問題は、今日にいたるまで続いている」

「岡倉は美術が商品であること、さらに世界市場において日本美術が商品であるということを自覚していた。この自覚の鋭さにおいて、岡倉は、西洋派と伝統派のみならず、フェノロサとも違っていた。生涯にわたって工業資本主義を否定した岡倉が、にもかかわらず、美術の商品性には極度に敏感であったことに注意すべきである。岡倉は、美術が当時国際的に通用するがゆえに、それによって日本を代表させることを明確に自覚していた。」

「フェノロサは日本の絵画の特質を明瞭な輪郭を持った「線」に見いだし、且つ画家たちにそれを奨励した。しかし実際には、いわゆる「朦朧派」がアメリカを含む海外の市場で大成功をおさめたのである。つまり、印象派の評価のほうが優位にあった。おそらく、岡倉とフェノロサの間に亀裂が生じ始めたのはそのころからであろう。岡倉は躊躇なく「売れる」方を選んだのである。フェノロサが影響力を失ったのは、日本の西洋派・伝統派の争いとは無関係であって、世界市場そのもののためである。

 しかし、これはたんに商業的な問題ではない。重要なのは、この過程で岡倉が、美術が何よりも言説的闘争の場だということを自覚したということである」(130-134)

「というのも、岡倉自身がベンガルの独立運動に加担していたからである」(139)

「彼はヘーゲル的な西洋中心主義を逆転するだけでなく、その弁証法そのものを標的にしている。ヘーゲルにおいては、矛盾が重要である。それが、闘争を生み歴史を発展させるからだ。しかし、岡倉はそこに、インド哲学のadvatism(不二一元論)、いいかえれば、相違し多様なもののonenessを持ち込む。」「岡倉はヘーゲルの弁証法そのものを否定し、それに対して、矛盾するものの根源的同一性を言うのである。それはたんなる同一性ではなく、あらゆる多様性を許すような同一性であり、彼の言葉で言えば「愛」である。それは、のちに哲学者西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」といったものに近い」(139-140)

「審美主義者がいつも反植民地主義であるように、彼らはいつも反産業資本主義的である。しかし、それは産業資本主義の実現によってのみ可能なのだ。われわれは、ファシズムが、まさにこの審美主義を核においていることを見出すだろう。つまり、ファシズムは、一見して反資本主義的でありながら、そのことによって資本主義的経済がもたらす矛盾を美的に昇華するものなのである」(161-162)

「しかし、この岡倉に対しては、次のことが指摘されねばならない。第一に、岡倉を先導したのは、アメリカ人フェノロサ・・岡倉はのちに彼を排除したが・・である。第二に、彼が日本の芸術の優位性を、そして美術によって日本を代表させようとしたのは、フランスのジャポニズムに示されるように、日本の美術工芸が当時、日本の生産物の中で生糸を除いて唯一輸出できるものだったということである。要するに、これは商品生産の問題なのだ」

「彼が仏教の哲学から見出したと称する東洋の普遍的原理は、歴史的に産業資本主義の浸透の中で遡及的に見出されたものに他ならない」(163-4)

「彼は日露戦争の後は、アジアの植民地解放の運動から離れ、ボストンの美術館で、もっぱら美的な関心に閉じこもった。彼の本が日本で読まれるようになったのは、1930年代、つまり、日本が「大東亜共栄圏」を志向した時点である。そのときは、彼の美学から見出されるアジアのonenessは、日本のアジア支配を美化するイデオロギーとして機能した」(163-6)

「それに対して、岡倉の死後に活動を開始した柳宋悦の仕事は、岡倉と比較することによって明らかになる。柳は「民芸運動」を始めたことで知られている。そこに岡倉と同様に、反近代、反産業資本主義的な姿勢があることはいうまでもない。しかし、それはイギリス人によって「東洋のモリス」と呼ばれたモリスよりも、はるかにモリスに近いものであった。柳と岡倉の違いを最も顕著に示す事実は、柳が岡倉の無視した朝鮮に「美」を見出したことである。のみならず、朝鮮の民族的独立を支援したことである」(168)

「柳はのちに1930年代に、沖縄における強制的な言語的・文化的同化政策に反対したときも、沖縄の「偉大な美をもった民衆」を称えた。だが、それは「偉大な美」がなければ、彼らが独立する根拠がないということを意味するのだろうか。岡倉の場合、そのような傾向があった。彼はインドや中国を称えたが、それは「偉大な美を生んだ国」だからであり、他方、朝鮮に「偉大な美」は存在しなかったのである。柳にとってはそうではなかった。

 第一に注意すべきことは、柳が朝鮮に見出した「偉大な美」が、中国的・貴族的な伝統の下にあった美術ではなく、儒教的な身分制イデオロギーの下で蔑まされてきた手仕事にあったという点である。朝鮮民族が「偉大な美を生んだ国」であるというとき、柳は、それを支配している日本を批判しているだけでなく、そのような手仕事を蔑んできた朝鮮の身分制社会・・それが日本による植民地支配を招いた・・をも批判しているのである。手仕事に「美」を見出すためには、旧来の身分制社会と道徳を廃棄しなければならない。朝鮮の独立はむしろそこから始まる、と柳は考えていた。朝鮮の独立運動は民芸運動であり、民芸運動は独立運動なのである。また、柳は、朝鮮人が暴力によって独立を獲得しようとすることを批判した、それは日本人のやり方・・それは不可避的に滅びると彼はいう・・を真似ることでしかない、と。」

「もちろん、朝鮮の独立を支持した者は柳だけではない。他のヒューマニストもマルクス主義者もそれを支持した。しかし、それは口先だけで、柳宋悦ほどに朝鮮民族の側に立って行動しようとした知識人は稀であった。こうした柳の倫理性は、彼の美的姿勢と切り離せないのである。彼は「美」のために朝鮮民族の解放を希求したのではない。だが、「美」がなければ、彼のように深いコミットメントをすることはありえなかっただろう。柳は芸術作品を通して、その背後にこれまで無視されてきた制作者個々人の存在を見出した」(170)。

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コメント

お久しぶりです。

最近、柄谷行人の『内省と遡行』、岡倉天心の『茶の本』、柳宗悦の「美の法門」という文章を読んだばかりでしたので、とても興味深く拝読し、ブックマークさせていただきました。

フロイトの『文化への不満』は昔読んで内容は忘れていましたが、文化が死の欲動としての超自我で、戦争がそれへの敵対なのですね。

しかし、ぼくはゴダールの「文化と映画は不倶戴天の敵同士だ」という言葉を思い出しました。
これを「文化と芸術は不倶戴天の敵同士だ」と敷衍したいです。
つまり芸術は文化ではない、と。
また草間彌生は「戦争しないでセックスしよう」と言いましたが、文化に対抗するために、戦争ではなくて芸術とセックスをもってするということを考えました。

柄谷は『内省と遡行』所収の「言語・数・貨幣」のなかで、「『自然』とは、自己言及的な形式体系であり、その自己言及性の禁止によって、はじめて文化が自律しうるのであり、また『文化と自然』の二項対立が派生するのである。」と述べています。
芸術を、この意味での「自然」と考えたいです。

具体的には、的外れかもしれませんが、能などの日本の伝統芸能やジョン・ケージの音楽を思いますけれども、そうすると、大東亜戦争のイデオロギーとしての「美」とつながりファシズムに結びつくかもしれません。

『芸術崇拝の思想』という本の書評で柄谷は、国民国家の確立のために、宗教にかわって芸術がネイションをまとめるためのイデオロギーとなった、と述べていました。

ぼくはここで「人情」ということを考えます。「人情」は日本独特の概念で、たとえば英語にはこれにあたる言葉はないのではないでしょうか。(外国人が不人情だという意味では決してありません)。
『草枕』の漱石も『茶の本』の岡倉天心も蕪村論の萩原朔太郎も、人情を重視しています。
ナイーブかもしれませんが、いま日本は電車のなかのベビーカーに文句をいうような薄情な国になってしまいましたが、人情を第一義とすることでファシズムに対抗できるのではないでしょうか。

そして、芸術を人情(道徳)と結びつけることによって、芸術が国民国家のための美というイデオロギーになってしまうこと防げるのではないでしょうか。

しかし、芸術は人情味がなければならないということは岡倉天心もいっているので、やはりあまり有効ではないのかもしれませんし、ナチは「退廃芸術」を排撃したので、かえってファシズムを助長するのかもしれません。

尻切れトンボの長文、失礼いたしました。いろいろと考えることができました。有難うございました。

投稿: 加ッ田鳥屋 | 2013年7月15日 (月) 19時04分

ご無沙汰しています。
コメント有難うございました。
日本語の「人権」は英語のhuman rightの訳かな~という気もします。どちらにしても、人情大事ですね。
ところで久しぶりに柄谷さんの本を読んで、岡倉についての「伝統は産業化のなかで遡行的に見出された云々」という柄谷さんのこうした論理は、ニーチェの遠近法的倒錯批判から来ているのかなとも思いました。
また岡倉のヘーゲル主義をむしろヘーゲルの三項性批判としてのonenessとして捉え、さらにそこから西田の絶対矛盾的自己同一まで引っ張っていく鮮やかな論理は流石だなと思います。この点で京都学派の悪名高い「世界史の哲学」におけるヘーゲル的三項性から一・即・多、多・即・一、という大東亜共栄圏イデオロギーは既に岡倉の中にあったといえ、かつかなり強引にも見えます。
岡倉は魅力的ではあるけれど、ここでその岡倉に民芸運動の柳宋悦が対置させられる、と言う感じでしょうか。
エドマンド・バークの読みはどうかな、とちょっと気になりました。

いずれにしても、人情、いいと思います。ではまた。

投稿: madhut | 2013年7月16日 (火) 15時47分

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