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2013年7月

2013年7月29日 (月)

Gwendolyn Wright USA modern architecture in history, Reakiton Books, London, 2008

Usa

グウェンさんこと、グウェンドリン・ライトによる新版米国建築史である。序章にT.J.クラークの引用がある。広い文脈でみれば、T.J.クラーク、マンフレッド・タフーリ、ベネチア派、そしてグウェンさん達は、方法論的に近いと言える。またこちら( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/gwendolyn-wrigh.html )のルートレッジから2004年に出た米国建築史のアンソロジーとも近い。同書の扉には「書かれるべき新しい歴史があり、書き直されるべき古い歴史がある」いう(ジョン・クーリッジの引用による)枕詞があったように思う。建築史・論や建築史自体の歴史つまり建築史・史というのは当然あるし、かつてそれについては論じた。ついでに、歴史は書かれ、そして書き直され、そして書き直され、そして・・と言っても、それはパリンパセプトではないように思う。また、歴史哲学としてはヨハン・ゲーテの「人は生きている限り自分を正当化しようとする。そのことを裁くのは、今われわれの目の前で戯れているあの幼子達である」という箴言も、立派な歴史哲学であろう。とりわけ、歴史とはまさしく大文字の他者であることを言っている点でそうである。この言葉はなぜか、あるいは少なくとも『色彩論』のなかにあったように思う。

ということで、方法論の確認と、骨格の参考のために1章と2章を読む。

第一章は「近代の地固め」として1865年から1893年を扱っている。南北戦争終結からシカゴ・コロンビア万国博覧会あるいは1893年恐慌までで、まさにThe Gilded Ageであり、中小資本による都市開発が建築を先導した時代である。

第二章はその後の第一次大戦までの時代で「革新建築の時代」とされている。「革新的(progressive)」とは、この時代に流行した言葉という。面白いのは、J.A.ホブソンやウラジミール・レーニンが「帝国主義」と呼び、ルイス・マンフォードが「帝国」と呼んだこの時代、つまり資本集中が起こったこの時代を、著者はまた「革新的」という別の側面から捉えていることである。ホブソン、レーニン、マンフォードに対し、著者は資本集中によって起こったことを異なる側面、異なる視点によって捉えていると言える。章の冒頭においてこの言葉について語りながら、テディ・ローズベルトの「革新党」について触れているが、セオドア(テディ)・ローズベルトは、言わずもがなシャーマン反トラスト法によってスタンダード石油トラスト(ロックフェラー帝国)を解体した一方、自身はカリブ海他に拡張していった大統領である(それゆえロン・チャーナウは、ローズベルトを政治的に「雑種」と見做す/ http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/bp2000-742d.html)。

資本の集中とはある面から見れば「拡張」(帝国ないし帝国主義)であり、別の面から見れば「革新/進歩」に見える、と言える。またマンフォードはこの時代の米国建築の主流が文字通りローマ帝国のファサードをまとっていったことに着目したが、著者は工場建築やオフィス建築に着目する。そしてこれこそはヨーロッパのモダニストが目をつけたものであり、「モダニズム」とラベルを張って運動を始めたその元となった大きな要因の一つなのであろう。

ここで著者がこの時代のキーワードの一つと見做し、また実際当時流行した言葉の一つとしてあげるのが「システム」である。この時代のフランク・ロイド・ライトについても、この視点から捉えた個所がある。

さて、メモ。

19世紀後半の専門誌の相次ぐ創刊。American Builder and Journal of Art(1868~), Carpentry and Building(1870~), American Architect and Building News(1876~), Inland Architects(1883~), Architectural Record(1890~), National Builder(1885~)。18頁。かの『インランド・アーキテクツ』誌には「シカゴの偶像破壊的雑誌」という形容詞付。

ウィリアム・ル・バロン・ジェニーの建築の受容について「ジェニーのような人物は文化的バイアスの変遷を明らかにしてくれる。まず原・アメリカ的発明者と見られ、それから強力な資本主義の意志を単に満足させたただの実践者というのちの歴史家の批判にさらされた」(21頁)。これに続いてコーリン・ロウの有名な一文が続く。

さらにこれに続いてモンゴメリー・スカイラーについての言及、さらにジークフリート・ギーディオンの『空間・時間・建築』についての言及。シカゴ派という命名はギーディオンなのか? →いずれにせよギーディオン再読の要あり。

「ダウンタウンという言葉は明確にアメリカの言葉であり、そのコンセプトは1880年代にヨーロッパの散漫で多様な商業地に対比するものとして始まった」(22頁)。

「二人のボストンのディベロッパー、ピーター+シェパード・ブルックスはシカゴのモダニティを定義するのに寄与した。世紀が終わるまでに彼らは9.3平方キロの新たなオフィススペースをファイナンスした。これは当地のローカル・マネージャーのオーウェン・アルディスとともに行った。アルディスがマネージした他の建物と合わせると、ループ内の1/5の面積である」(22頁)。

ザ・モナドノックについて、ピーター・ブルックスによるジョン・ルートへの要望。「経済性とメンテの容易性から、外壁の突起はなくすこと。壁について全てはフラッシュ、またはフラットで滑らかであること。ルートの錬金術はこの制約を創造的建築に変えた。」これにモンゴメリー・スカイラーのあの有名な形容が続く。(22-23頁)。

「バーナム+ルートによるバーリントン+クインシー鉄道本社ビルは、外周ブロックのなかの広々した光庭を導入した」(24頁)。

リライアンスビルについて。

「当時のコメンテータはこれを金儲け主義の具体化として、明るい広い外皮を嫌った。80年後、マンフレッド・タフーリはこれに同意する。レッセフェール資本主義の純粋記号とこれを呼んだ。よりフォルマリストの批評家はこの外皮をミラージュと見た。外皮を透明でほとんど非・物質的なカーテンウォール、かつてルートが訳したゴットフリート・ゼンパーを引用しながら。ゼンパーは壁を織物と仄めかし、それゆえ未来の建築を予見したのだと」(25頁)。ここでの引用はジョアンナ・マーウッドのGR04(2004)論文。GRの過去論文も一通り当たる必要あり。

「ヘンリー・ホブソン・リチャードソンによるマーシャル・フィールズはアイコンとなった」「それも建築家だけでなく、この地域全体の商人やショップキーパーの参照点となった」(28頁)。

「アメリカの「ミドルクラス」は1870年代に登場した。急速に成長してきたサービス業、店員、専門職の意識をを記しながら。クラスが職業や給料によるとすれば、正しい家というものは、目に見える商品へとこれを変えた。多くの人は賃貸に住んでいたが、銀行やビルダーがよい条件を示し始めると大家が増え始めた」(30頁)。「郊外は誇張されたジェンダー領域の理想郷を具体化した。それは商業や産業の野蛮な男の世界から女子供を保護するもの、というものである」「キャサリン・ビーチャーの『アメリカの女の家』(1869)」は」「ほとんど強迫的に郊外モデルに焦点を当てる。二つのフルバスルーム、造作家具、可動間仕切、コンパクトなサービスコア。家をほとんど自律的舞台と定義することで、この健康と効率の神殿に、ビーチャーはのちに彼女が「家族価値」と呼ぶものを与える。彼女が理想とする家はビジネスの世界から完全に隔離され、ただしそうではない仕事、つまり少なくとも女の仕事からは隔離されていないものである。ギーディオンその他はビーチャーの考えを1920年代モダニズムのよろしくないものの予兆として描いた。実際、彼女の際立ったスキームはビクトリア文化の興味深い側面、それにモダニズムの忌み嫌われる側面のハイライトなのである。当時も今もビクトリア期の住宅の広い訴求力は、部分的には利便性や快適性や健康性を小器用に統合しながら、家族や個人的な幸福への人間の深い欲望を象徴化する力にある」「今日でも合衆国の近代的な住宅建築は19世紀後半に登場した四つのテーマに集約される。第一にニューメディア」「第二にモダンテクノロジー」「敷地計画が三番目」「最後にアメリカの住宅は個人化と標準化を結びつけた。マスマーケットの売買は相変わらず個性の表面的イメージ、予測できる均質性と融合した自律性という幻想、に依拠している」(32頁)。

ARの編集者、ハーバート・クローニー。『アメリカンライフの約束』(1909)は小冊子だったが影響力があった。その後、アメリカの改革主義についての態度変更。これはフランク・ロイド・ライト、社会改革者のジェーン・アダムズ、哲学者・教育者のジョン・デューイ、フェミニストのシャルロット・パーキンス・ジルマンらと歩調を合わせたものだった(47頁)。

1870年から1920年までにおよそ2千万人が米国に移民した。とりわけ南部・東部ヨーロッパから」(50頁)。

「エンジニア、専門事務職、技術の専門職が合理的アプローチの具現化となり、これがすぐさまあらゆるタイプの仕事や建物に影響を与えだした」(51頁)「素人も専門家も、統計、地図、ドキュメンタリー写真を含む見た目は客観的という視覚素材の武器庫を積み上げていった。証拠は公共的な改革の要求を生み出し、そしてそれがとるべき方向を示すと期待しながら。ダニエル・バーナムのような建築家はそうしたデータを都市計画のために用いた」「革新時代のアメリカはその都市を万華鏡を通して眺めた。断片化され、そして終わりなく魅力的であるように。彼らはチェンジを求め、そしてしばしばそうした」(51頁)。

「アーネスト・ランサムはカリフォルニアで1880年代にコンクリートフレームを完成させた。これは部分的には地震の危険に対応したものだった」(53頁)→続くランサムの靴工場→バンハムの『コンクリート・アトランティス』のあの話。

続いてアルバート・カーンのフォードの工場の話。

「これは急成長してきたメールオーダー石鹸会社の本社ビルである。ライトはこれを「コマーシャル・エンジン」と「家族が集う場所」と巧みに呼んだ」「特殊な要求にデザインを合わせた。メールオーダーのシステム的捌き、注意深く塩梅されたヒエラルキーと全体イメージ、これは石鹸会社の本質的宣伝でもあった」(58頁)。

「『レディーズ・ホーム・ジャーナル』誌の編集者であるエドワード・ボックは1890年代にアメリカの住宅建築を近代化するための十字軍計画を立ち上げた。彼の定義は機能的だった。あやふやなパーラーをリビングに置き換え、「無意味な装飾」はなくす。少なくても一つの寝室と改善された換気」(64頁)。→ここから例のライトの話に続く。これとともに同誌についての研究書(単行本もあったはず)。

ライトの「アーツ・アンド・クラフツ」マニフェスト(1901)について(75頁)。

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2013年7月20日 (土)

オープンネット出版『イエヒト』創刊号

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オープンネット出版さまから『イエヒト』創刊号をご恵投あずかりました。

編集から出版までを米子市の建築士さん達が手掛けられています。

オープン・・・という名前から分かる通り、分離発注を主題としています。

オープンシステム/分離発注の主題そのものからは少しずれてしまうかもしれませんが、建設工事費の曖昧な部分というのは、実はそのまま、手戻りや駄目工事、あるいはアフターその他の不確定部分を見越してのことだったとも言えるのかもしれません。

経済的な不確定要素を「リスク」と呼びますが、その「リスク」をどれだけ見込むかというのは経験と勘という、結局曖昧なものによったということでしょうか。ただそれが暴走すると「丼勘定」という言葉で言われるものになったり、実際、そうしてできてくるものはやはりというかいかがなものかというものが少なくないのかもしれません。

ところでルイス・マンフォードの『都市の文化』のなか、メトロポリスについて論じた章で、都市/資本の集中化を促進したものの一つに保険会社があげられています。保険会社の商品とは「リスク」対応であり、そのために保険金を少しずつ集めると、単純化すると、そう言えるかもしれません。チリも積もれば・・と集められた保険金は大都市へと集積し、それがまた大都市のさらなる大都市化を促進していく。もっと言えば、保険会社の集積するニューヨークなどの国際都市に集積していく。

何年か前に住宅瑕疵担保法が施行されました。地場の建設会社が「リスク」のためにプールした資金はその地場に再度流通して地域経済に貢献することもあるのかもしれませんが、保険はあくまで地方からの保険金を大都市ないしは国際都市へと集積させていくものと言えるかもしれません。

少し話がずれました。

オープンネット出版さま、有難うございました。

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2013年7月14日 (日)

柄谷行人『ネーションと美学、定本柄谷行人全集4』岩波書店 2004

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序章は著者の言う「帝国」と「帝国主義」の相違など。

帝国主義は帝国とは異なり、国民国家の延長であること、それゆえ帝国主義はその延長で、新たな国民国家を結果する。

第一次大戦後の東欧諸国独立や第二次世界大戦後の東アジア諸国独立はその例と言うべきか。

ただ、著者の述べる「帝国」は帝国あるいは「帝国主義」のある状態を言っているのではないか、むしろ著者のこの区別自身が歴史の遠近法的倒錯ではないのかと言うことはできるかもしれない。たとえば、ローマ帝国は都市国家が膨張して「帝国」になったものであり、『ゲルマニア戦記』に見られるようにその過程は絶えざる戦争の過程でもあった。つまり著者が述べる「帝国」とは帝国のある時期の状態である、とは言えるかもしれない。

メモ

「くりかえすが、フロイトは「死の欲動」を、戦争そのものからではなく戦争神経症から考えたのである。戦争神経症は、戦争一般や外傷的神経症一般に解消されない。ある観点から見れば、第一次大戦は従来の戦争と同じであり、戦争が終われば、人々はもとに戻るはずであった。だが、元に戻らずに毎夜戦争を反復している神経症者がいる」(84)

「フロイトが「死の欲動」論を文化論として語り始めたのは、実際は1930年代の『文化への不満』からである。そこで、彼は、文化(彼は文化と文明を分けるドイツ的伝統を否定する)をさまざまに定義しながら、根本的に、それを「超自我」と見なしている。その場合、外的な規範としての分化=超自我が快感原則に立つエスを抑圧するという旧来のロマン主義的な考えに対して、フロイトは、文化=超自我はそれ自体、死の欲動の派生物であると見なしている」(86)

「『文化への不満』において、フロイトは「文化の敵対」の跳梁を見出している。「文化の敵対」は第一次大戦から見られた傾向であり、「生の哲学」と呼ばれたりもするが、基本的にロマン主義的傾向である。たとえば社会主義者ソレルは、文化的秩序の暴力forceに対して、それに対決する「生」の肯定としての暴力violenceを肯定した。戦争が始まると、抽象的なインターナショナリズムに依拠していた社会主義者は、一斉に参戦に踏み切った。これをたんに国益の観点だけで見ることはできない。彼ら自身あるいは大衆が、戦争のもつ生=攻撃性の魅力に抗しきれなかったからだ。すでに述べたように、フロイト自身がそれにある共感をおぼえていたのである」(86-7)

「しかし、フロイトは、いかに居心地が悪いにせよ、「文化」=超自我が強まることを肯定しようとした。彼の考えでは、攻撃欲動を抑制するのは、外的なものではなく、攻撃欲動それ自体である」「超自我、そして、文化の意味を根本的に変えてしまうような転回をフロイトに迫ったのは、戦争が終わっても、毎夜、戦争を反復している患者たちであった、ということに注目すべきである」(88)

「第一次マゾキズムであれ、死の欲動であれ、経験的な概念ではありえない。攻撃性が戦争の観察から容易に得られる認識であるのに対して、攻撃欲動はいわば戦争神経症の「悪夢」からのみ得られる超越論的な過程である。しかし、攻撃欲動を、さらにそこから派生するとされる一次的な「死の欲動」と仮定するのは、形而上学の導入ではない。フロイトはあくまでもフィジカルな視点を貫きながら、そこにメタ・フィジカルナものの不可避性を「欲動」として見出したのである」(102)

「フロイトが脳内物質を予想していたことは、以上の記述からも明らかである。今日の大脳生理学は彼が予期していたように進んでいる」(103)

「にもかかわらず、伝統派が勝利したのは、たんに伝統工芸がヨーロッパやアメリカで美学的に評価されたからというよりも、商業的に成功したからである。ウィーン万国博での成功の結果、日本政府は1878年のパリ万博にも約45千点もの作品を送ったが、即売会でこれが売り切れた。生糸の他には輸出品をもたなかった日本にとって、これは何よりも輸出産業としての意味をもったのである。文化官僚である岡倉は、このことを利用して西洋派に対する覇権を握った。ナショナリズムは一般的に、美学的な意識において成立する。日本のナショナリズムの萌芽である江戸時代の国学者本居宣長においても、それは知的・道徳的な視点(インドや中国に由来する)に対して、美学的視点(もののあはれ)を優位におくことにはじまっている」「それに対して、視覚芸術が違っているのは、日本人がそう思う前に、西洋において評価されていたことである」

「東京美術学校の創設において伝統派が勝利したのは、それが伝統的だったからではなく、それが西洋に評価され、且つ産業としても成立していたことによるのである。もちろん、東京美術学校は、設立後十年も立たぬうちに、岡倉を追い出した西洋派にとってかわられた。しかし、「西洋派」はそれ以降根本的な背理に苦しむことになるだろう。なぜなら、日本において先端的であり反伝統的と見える仕事は、西洋においてはたんなる模倣と見えてしまい、「伝統派」に回帰した方がかえって先端的に見えるからである。この問題は、今日にいたるまで続いている」

「岡倉は美術が商品であること、さらに世界市場において日本美術が商品であるということを自覚していた。この自覚の鋭さにおいて、岡倉は、西洋派と伝統派のみならず、フェノロサとも違っていた。生涯にわたって工業資本主義を否定した岡倉が、にもかかわらず、美術の商品性には極度に敏感であったことに注意すべきである。岡倉は、美術が当時国際的に通用するがゆえに、それによって日本を代表させることを明確に自覚していた。」

「フェノロサは日本の絵画の特質を明瞭な輪郭を持った「線」に見いだし、且つ画家たちにそれを奨励した。しかし実際には、いわゆる「朦朧派」がアメリカを含む海外の市場で大成功をおさめたのである。つまり、印象派の評価のほうが優位にあった。おそらく、岡倉とフェノロサの間に亀裂が生じ始めたのはそのころからであろう。岡倉は躊躇なく「売れる」方を選んだのである。フェノロサが影響力を失ったのは、日本の西洋派・伝統派の争いとは無関係であって、世界市場そのもののためである。

 しかし、これはたんに商業的な問題ではない。重要なのは、この過程で岡倉が、美術が何よりも言説的闘争の場だということを自覚したということである」(130-134)

「というのも、岡倉自身がベンガルの独立運動に加担していたからである」(139)

「彼はヘーゲル的な西洋中心主義を逆転するだけでなく、その弁証法そのものを標的にしている。ヘーゲルにおいては、矛盾が重要である。それが、闘争を生み歴史を発展させるからだ。しかし、岡倉はそこに、インド哲学のadvatism(不二一元論)、いいかえれば、相違し多様なもののonenessを持ち込む。」「岡倉はヘーゲルの弁証法そのものを否定し、それに対して、矛盾するものの根源的同一性を言うのである。それはたんなる同一性ではなく、あらゆる多様性を許すような同一性であり、彼の言葉で言えば「愛」である。それは、のちに哲学者西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」といったものに近い」(139-140)

「審美主義者がいつも反植民地主義であるように、彼らはいつも反産業資本主義的である。しかし、それは産業資本主義の実現によってのみ可能なのだ。われわれは、ファシズムが、まさにこの審美主義を核においていることを見出すだろう。つまり、ファシズムは、一見して反資本主義的でありながら、そのことによって資本主義的経済がもたらす矛盾を美的に昇華するものなのである」(161-162)

「しかし、この岡倉に対しては、次のことが指摘されねばならない。第一に、岡倉を先導したのは、アメリカ人フェノロサ・・岡倉はのちに彼を排除したが・・である。第二に、彼が日本の芸術の優位性を、そして美術によって日本を代表させようとしたのは、フランスのジャポニズムに示されるように、日本の美術工芸が当時、日本の生産物の中で生糸を除いて唯一輸出できるものだったということである。要するに、これは商品生産の問題なのだ」

「彼が仏教の哲学から見出したと称する東洋の普遍的原理は、歴史的に産業資本主義の浸透の中で遡及的に見出されたものに他ならない」(163-4)

「彼は日露戦争の後は、アジアの植民地解放の運動から離れ、ボストンの美術館で、もっぱら美的な関心に閉じこもった。彼の本が日本で読まれるようになったのは、1930年代、つまり、日本が「大東亜共栄圏」を志向した時点である。そのときは、彼の美学から見出されるアジアのonenessは、日本のアジア支配を美化するイデオロギーとして機能した」(163-6)

「それに対して、岡倉の死後に活動を開始した柳宋悦の仕事は、岡倉と比較することによって明らかになる。柳は「民芸運動」を始めたことで知られている。そこに岡倉と同様に、反近代、反産業資本主義的な姿勢があることはいうまでもない。しかし、それはイギリス人によって「東洋のモリス」と呼ばれたモリスよりも、はるかにモリスに近いものであった。柳と岡倉の違いを最も顕著に示す事実は、柳が岡倉の無視した朝鮮に「美」を見出したことである。のみならず、朝鮮の民族的独立を支援したことである」(168)

「柳はのちに1930年代に、沖縄における強制的な言語的・文化的同化政策に反対したときも、沖縄の「偉大な美をもった民衆」を称えた。だが、それは「偉大な美」がなければ、彼らが独立する根拠がないということを意味するのだろうか。岡倉の場合、そのような傾向があった。彼はインドや中国を称えたが、それは「偉大な美を生んだ国」だからであり、他方、朝鮮に「偉大な美」は存在しなかったのである。柳にとってはそうではなかった。

 第一に注意すべきことは、柳が朝鮮に見出した「偉大な美」が、中国的・貴族的な伝統の下にあった美術ではなく、儒教的な身分制イデオロギーの下で蔑まされてきた手仕事にあったという点である。朝鮮民族が「偉大な美を生んだ国」であるというとき、柳は、それを支配している日本を批判しているだけでなく、そのような手仕事を蔑んできた朝鮮の身分制社会・・それが日本による植民地支配を招いた・・をも批判しているのである。手仕事に「美」を見出すためには、旧来の身分制社会と道徳を廃棄しなければならない。朝鮮の独立はむしろそこから始まる、と柳は考えていた。朝鮮の独立運動は民芸運動であり、民芸運動は独立運動なのである。また、柳は、朝鮮人が暴力によって独立を獲得しようとすることを批判した、それは日本人のやり方・・それは不可避的に滅びると彼はいう・・を真似ることでしかない、と。」

「もちろん、朝鮮の独立を支持した者は柳だけではない。他のヒューマニストもマルクス主義者もそれを支持した。しかし、それは口先だけで、柳宋悦ほどに朝鮮民族の側に立って行動しようとした知識人は稀であった。こうした柳の倫理性は、彼の美的姿勢と切り離せないのである。彼は「美」のために朝鮮民族の解放を希求したのではない。だが、「美」がなければ、彼のように深いコミットメントをすることはありえなかっただろう。柳は芸術作品を通して、その背後にこれまで無視されてきた制作者個々人の存在を見出した」(170)。

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