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2013年10月

2013年10月29日 (火)

Joanna Merwood-Salisbury, Chicago 1890, The Skyscraper and the Modern City, The University of Chicago Press, 2009

Chicago1890 

謝辞にはビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー、ジョージ・ティソ、それにアレッサンドラ・ポンテの名が見える。

これまで「シカゴ派」と呼ばれてきた建築家とその建築についての見直しをはかる書の一つであるとともに、近代建築の文脈での再考をはかる書の一つである、と言える。大火後から20世紀初頭までの変遷、さらに20世紀中葉における位置付けの言説までを概観している。概観という言葉をここであえて使うのは個別的に見ていくだけではバランスを欠いてしまう視点をも提供してくれるからである。最後のダニエル・バーナムについての記述等は、とりわけそうだろう。

サブタイトルにある「スカイスクレーパー」の変容もこの時代において概観的に見られる。大雑把にいえばシカゴの地域的あるいは地域主義的なものからアメリカのナショナルなアイコンへと変容していった過程である。アメリカ資本主義のアイコンのように見られがちなこの「タイプ」、いわば露骨な不動産投資の道具として生まれ、様々なイデーや幻想を纏いつつ、都市発展、公害、都市問題のなかで最終的に徐々に規制をかけられ、結局のところ「美しい都市を」として混沌に規制をかけた途端むしろ都市は死に体となり、建築類型自体はマンハッタンへと飛び火して今度はナショナルなアイコンとなり、他方で都市はと言えばオスマンの亜流のような陳腐な「美しい都市」を目指しながらも実は今度はヨーロッパの都市計画に影響を与えていくという複雑な相互関係を生み出し、それもこれまでサリバンの視点からは東部ボザールの勝利といまいましく言われてきたものの立役者はむしろバーナムなのであり、バーナムは芸術家というより経営者としてもっぱら記述されてきたがそのバーナムにもいろいろと考えがあり・・・。

また20世紀における位置付の言説としては、前回みたルイス・マンフォードの『褐色の30年』(1931年)の2年後、ヒッチコックとジョンソンがMoMAにおいてこのマンフォードの視点を補強する形で『初期近代建築、シカゴ、1870-1910』という企画展を打ったことはこれまであまり言及されなかった(140頁)。『インターナショナル・スタイル展』は単独で打たれた企画ではないのではないか。さらにギーディオンの『空間・時間・建築』(1941)はこの展覧会の8年後であり、そのギーディオンの言説はマンフォードやヒッチコック+ジョンソンらの言説を追った可能性がこの点であるのではないか。たとえば耐力壁からカーテンウォールへという「見事な」筋道をつけたのは、本書によればマンフォードの後を襲ったヒッチコック+ジョンソンらだったからである。また意図的かギーディオンは建築家名を外してアメリカの建築を匿名的なものあるいは「建物」と扱ったことも言及され、掉尾においては今日にいたるまでいささか規範的に引かれるコーリン・ロウの「シカゴ・フレーム」(1956)の言説も、この延長上のものと見做されている(144)。“inheritor of Giedion`s mantle as Europian spokesman of architectural modernism in America…,”文字通りdismantleと言うべきだろうか。

さて、序章で方法論について一通り述べられる。どこかT.J.クラーク風でもある。「しかしながら私の興味はこのタイプの発達における技術や形態にあるのではなく(それゆえダイアグラムはもはやいらない)、自律した芸術分野としての建築にあるわけでもない。代ってこれらの建築的人工物をその時代のレンズを通して、その社会的・都市的文脈を通して見たいのである」(4頁)。サポーティング・ポイントはザ・モナドノック(1889)、シカゴ・フリーメーソン寺院(1892)、リライアンス・ビル(1895)とされる。

第一章はいわば創生期である。有機体論(organicism)という言葉はこの時代、スペンサーの影響があったことが指摘される(22)。また東部のAIAではラスキンの著作がバイブルとなっていたことも指摘される(23)

ジェニーの建築観には民族誌的な考えがあったことが言われ、ここにはヴォレ==デュクの影響(25頁)があることも示唆される。同じくフレデリック・ボウマンの場合はゼンパーの影響(26)となる。19世紀の三大建築理論家は、ジョン・ラスキン(英国)、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク(フランス)、ゴットフリート・ゼンパー(ドイツ)と言えるが、それが職能や留学や移民を通してアメリカにはやってきた、と言えるであろう。

民族誌的な発展史観や有機主義は「人類の発展という19世紀後半の人種差別的理論」(27頁)との関連もあるだろう。セオドア・ローズベルトが「マニフェスト・デスティニィ」のイデオロギーを一般化させた『西洋の勝利』において西洋人の優越性を言うのは1889-96年においてで、しかしこれは実はもはやフロンティアが消滅した時代においてだったのであり、さらに歴史家のフレデリック・ジャクソン・ターナーがローズベルトのこの議論を支持して「(アメリカの)フロンティア精神」を神格化したのは、実は1893年シカゴ万博においてであったという(26-27頁)。

「建築とアナーキー」と題した後半の節では、19世紀後半の移民のうちドイツ系移民は建築家からレンガ職人まで様々な職業でアメリカ社会に入っていったものの、ラディカルな政治的姿勢や民族意識の強さなどからしばらく「白人の外部」に留まり続けたことが言及される。まさに経済発展の場として移民が押し寄せ、それもドイツ系移民が多く入ってきたシカゴは摩擦点であり、メーデーの発端となる「アナーキストによる」ヘイマーケット爆弾事件が起きたのも、そのシカゴにおいてであった。リチャードソン以前のこの時代の建築の多くはエクレクティシズムであり、シカゴではエクレクティックな建物の竣工パーティの窓の外でアナーキストが集会を開いているさまがまさにアナーキー(エクレクエィシイズムは視覚的にアナーキーな様式でもあるので)と、続く章ではモンゴメリー・スカイラーが例によっていささか小馬鹿に批評するのが引かれている(43頁)。

ジョン・ラスキンが東部のAIAでバイブルのように扱われているとして、サリバンの考えは「シカゴ構法」を反ラスキン的なものとすることだったという。

一つには職人から労働者へという変容があろう。ラスキンの中世主義はまだ建築家のいない職人の世界であり、その「ゴシックの本質」もピクチャレスクの美学も、いわば職人主義である。サリバンのテラコッタ装飾は現場施工ではなく、工場で生産したものを現場で組み立てていくものだった。サリバンがデザインし、モデラーのクリスチャン・シュナイダーがモデルを製作した(51頁)。一般的に「この年のレンガ職人のストライキは建築家をして別の素材の採用を考えさせた。この年代の終わりまでに高層ビルの外皮にはテラコッタが好ましい素材となっていた。テラコッタは石より安価でレンガより軽く、制作期間も比較的短く、モデラーがいったん制作すれば繰り返し使うこともできた」(48)

もう一つは軽さである。鉄には石のような重みはない。「ラスキン的範型では建築の価値は美学的にも道徳的にもその重さに結びついていた。そしてそれを創造するにあたっての労働の正しさに結びついていた。鉄は決して真の建築の基礎とならぬものだった」(47)だったからである。

「芸術的にみた高層ビル」(1896)と「装飾と建築」(1892)では、建物芸術を職人術から分離することをサリバンは示したという。「建築家は新しい素材を新しい方法で用いることにその想像力を使うべきである」「キャスティングは建築家の心と成果品を、労働者の介在を最少のものにすることで直接結び付けることを可能とする」(51頁)。「建築家の役割についてのサリバンの考えは産業資本家の援護者と軌を一にしていた。アメリカの都市を民主的社会の自然な産物と考えていたからである。彼らと同じくサリバンの民主主義のコンセプトも政府の形式的システムにあるのではなく、あらゆる人間に等しくある個人的自由の感覚にあるのであり、その感覚はただ芸術だけが表現できるものだった。サリバンの民主主義の考えはウォルト・ホイットマンに強く影響されていた。法にではなく民主的精神は個人の心や感覚に根差すべきと信じていたからである」(51)。「彼にとって建築の政治的役割はそれを製作した職人の集団労働にではなく、それを設計した建築家ただ一人の天才的な芸術表現にあるのだった」(52)。「1889年から1894年のあいだに、スカイスクレーパーは民主的社会の象徴となった。シカゴ証券取引所、シラービル、シュレジンジャー+メイヤー百貨店、セントルイスのウェインライトビル、バッファローのギャランティービルは都市のスカイラインのアイコンになることに成功した」(52)

「芸術作品であることをサリバンは意図する一方、その装飾カーテンウォールは資本主義アメリカ社会の未来を楽天的に宣伝するバナーでもあった」「シカゴのストライキの労働者やアナーキズムの指導者にサリバンが抱いたシンパシーは社会的コントロールの恣意的で腐敗した形式の拒絶という点においてであったのであり、個人の責任という点からであったのであり、サリバンもアナーキストも「自然法」の普遍という点から官僚制を拒絶するという点からなのであった」「労働運動の指導者たちがラスキンやウィリアム・モリスに固執した一方、サリバンはこの英国の有機体論者たちを捨て去った。有機的建築という考えにおけるラスキン主義とサリバン主義の相違とは、それぞれの国のアイデンティティと望むところにあったのである。ラスキンは労働者を理想化したが、サリバンにとっての英雄はアメリカの個人主義を体現するビジネスマンだったのである」「職人ではなく、建築家こそが民主主義の新しい象徴だったのである」(53-57)

続く章ではザ・モナドノックが検証される。ザ・モナドノックは16階でありながら耐力壁構法であることが特徴的とされ、さらにケーソン工法も教科書的には言われる。しかしファサードは古典的三層がなく、オリエル・ウィンドウが下から上まで寸胴で建ち上がるところなどから、「モナドノックはその美学においてラディカルだったが、構造においてはそうではなかった」(59)と言われる。階数は収益性の観点から決められ、耐力壁を採用したことには大きな理由がなく、ファサードの暗い色調を強調するようデザインは方向付けられる。

「より特筆すべきはドイツの建築家・理論家、ゴットフリート・ゼンパーのエジプト建築への興味がザ・モナドノックのデザインに影響を与えたかもしれない」(61)というのは、ドナルド・ホフマンも指摘していたことである。ここではもう少し詳しく「この設計期間中、ルートはゼンパーの『様式論』のなかのナイル岸辺に建つエジプト建築についての部分を翻訳していた。初期文明の建物としてエジプトの形態は合衆国のような若い国にはふさわしいものと彼は考えた」(61)と述べられる。

メモ、「チェコ移民でニューヨークで活動した建築家レオポルド・エイドリッツはリャードソン、ライト、スカイラー、それに1860年代から70年代にかけての全建築家、批評家の友人でメンターでもあった。彼独特の有機体論は『芸術の自然と機能』(1881)で描かれたが、ドイツ系理論でいう「感情移入」にきわめて関係していた。当時米国ではこの考えはまだ広まっていなかった」(68)。「この時代のアールヌーボー様式は大きな変化を経験している休みなく神経質な社会の表現であったが、バーナム+ルートはモナドノックをその反対物として意図した。すでにいらだった神経をさらに逆撫でするのではなく、それを鎮め落ち着けるものとして信じた」(69)

章の副題である色彩について。これはマンフォードの『褐色の時代』とも被るかもしれない。「セオドア・スターレットはモナドノックの設計期間にバーナム+ルートに勤務していたが、この建物はレンガの美的可能性の実験であったと主張している。形だけでなく色彩においてもだった」「色彩が感覚に直接語る力にルートは長いこと引かれていた。1883年の論文「純粋色彩の芸術」で装飾より色彩に効果を置く建築の可能性について論じている。同時代絵画における形、色、具体、抽象の議論を完全に理解してたことをこの小論は示している。シカゴ芸術組合の初代代表として1883年に「白と金」の会の議長を務めたが、これはジェームズ・マクニール・ホイッスラーにおそらく影響されたものだった」。ラスキンとホイッスラーのあいだで争われた有名な裁判(http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20080302)についてルートはホイッスラーに同意し、絵画は「純粋色彩」へと進化するとする。ホイッスラーの考えを建築へ応用し、建築も装飾よりも色彩によってその効果を高めるかもしれないとルートは論じた。副次的な装飾要素としてではなく、テラコッタタイル、ステンドグラス、それにモザイクタイルはその深く純粋な色素によって人造環境の美学の中心的役割を果たすと彼は信じた」「ルートの論文はフランス象徴主義者ギュスターブ・カーンの「多彩色ガラスの美学」と同時代的だった」(71)

「その素材の斬新な使用にもかかわらず建築の真実はその理念にあるという信条にルートは留まり続けた。目に見える世界の構造やプログラムを模倣するのではなく、不可視の形而上学的真実を表現すべきであると信じたのである」「サリバン同様、ルートの高層ビルの定義はプラグマティックなものでも実用的なものにでもあるのではなく、社会的で精神的なものにあった」(72)

フリーメーソン寺院とリライアンスはここでは飛ばす。

最終章は文字通り世紀末から20世紀初頭にかけて。これまで通常シカゴ・コロンビア博による東部ボザールの勝利とシカゴ派の衰退として記述されてきた時期である。メモ、「スカイスクレーパー・ブームは1890年代半ばには衰退に入っていた。国家経済の下落によって、高層ビルはもはや投資ビジネスとしては手堅いものではなくなっていた。1893年の世界コロンビア博に影響され、シカゴは垂直都市から水平都市へと構想を変えつつあった。ダニエル・バーナムとエドワード・ベネットがシカゴのグランドプロジェクトを発表した1909年までに都市解決策としてのスカイスクレーパーは終わったように見える」「1890年にスカイスクレーパーは良くも悪くもアメリカン・メトロポリスの象徴として建っていた。繁栄や技術的到達、国家の進歩の象徴として、あるいは経済的不公平、混雑、産業経済における伝統的コミュニティ形式の喪失の象徴として」「1892年から1910年のあいだに、建物の所有者、建築家、施工者、都市改革者、政治家、それに社会コメンテーターは多くのアメリカの都市で高さ制限を設けるよう闘うようになっていた」(116-117)

シティ・ビューティフル運動がこれに追い打ちをかける。「ルーシー・パーキンズの1899年の論文、「シティ・ビューティフル、シカゴの芸術的可能性の探究」はシティ・ビューティフルの観点から見た最初のプランの一つであり、この問題を直接的に扱ったものだった」(120)。エベネザー・ハワードの『明日の田園都市』が英国で出版されたのはこの前年である。

「ナポレオン3世のパリやフランツ・ヨゼフのウィーンはアメリカにおける近代的都市計画の絶対的な範例だった」「1887年、ビルディング・バジェット誌はシカゴが中心性を欠いており、いまだパリになっていないと批判した」(121-122)。「1906年、商業クラブや商業組合の要請でバーナム、西部の有機体主義のチャンピオンにして高層ビルで名を成した建築家は、シカゴを万博をモデルとして新しく作り直すことに乗り出した。所員のエドワード・ベネットと都市計画委員会とともに1908年に任務を完了した。1909年にこれは発表される」「バーナムのゴールはこの地域全体の合理化に留まらなかった。世界コロンビア博どころか既にある都市より広範囲におよぶ計画だったのである」「水平拡張と垂直成長をコントロールするのにバーナムとベネットはフラットな平原風景に二つのもの、それもシカゴがかつて持ったことのないものを導入した。中心と縁である」「彼らは最善を尽くしてグリッドから放射状都市へと、その形態論理を変えたのである」(128-129)

1893年の経済恐慌で不動産バブルが弾けると、新しい都市計画の強力な理念が台頭し、自立的モニュメントとしてのスカイスクレーパーの増殖をこれは止めることになった。1900年頃、都市芸術としてのスカイスクレーパーは、都市そのものを芸術作品と見做すビジョンへととって代られたのである。高さ制限はより大きなスケールでの都市のコンポジションに個々の建物が従うよう課されたものだった」「1900年から1920年にかけて、バーナムの巨大な権力と影響によって、都市表象の任務は一時的に建築家から都市計画家に移されたのだった」(133)

シカゴの都市計画のモデルとなったのはパリやウィーンだけでなく、コロンビア博がその契機であり、そのモデルの一つでもあったというのは留意しておいていい。同博覧会にはフェリス・ホイールや電飾、その他も登場している。→コニーアイランドやエッフェル塔との関連。

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2013年10月14日 (月)

ルイス・マンフォード『褐色の三十年、アメリカ近代芸術の黎明』富岡義人訳 鹿島出版会 2013

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訳者の富岡義人氏よりご恵贈あずかりました。有難うございます。

こちら(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/towards-modern-.html)でも触れた書の全訳です。

全体は、四章からなり、第一章は著者が「褐色の30年」と呼ぶ時代の概観とその時代の芸術について述べた章、第二章はランドスケープについて述べた章、第三章は「近代建築へ向かって」という私も要約した章、そして第四章は主に絵画や写真について触れていく章です。

帯にも書かれているように原書はルイス・マンフォードの出世作でありかつまた代表作の一つでもあり、さらにはそれまで漫然と記述されてきたアメリカ芸術史に一つのコンセプチュアルな骨格を与えた、最初の書であると言えます。

著者が「褐色の30年」と呼ぶ時代は南北戦争後の約30年のことで、これは「金ピカ時代(The Gilded Age)」ともほぼ重なり、またアメリカン・ルネサンス(1970-1938)の前半ともだいたい重なり合う時代です。

この時代、アメリカの資本主義と都市文化は飛躍的に発展したことがよく知られています。人口でいえば南北戦争終結時の約3800万人7600万人へとおよそ倍増しています。余談ですが、南北戦争終結時と同時代の日本の人口も同じくらいで、こちらは1900年には約4300万人へと漸増しています

第一章はそんな時代の感覚そのままにスピード感あふれる筆で飛ばしていきます。ただし一般的には「金ピカ」と呼ばれるこの時代を「褐色」と呼ぶのには、本書が書かれた時代である第一次大戦後という時代、それも当時のヨーロッパのある種のシニシズムと南北戦争後のことを重ね合わせ、そこにある暗さと可能性を重ね合わせているからだろうと思うのです。褐色は文字通りには、この時代に流行したニューヨークのブラウンストーンのアパートメント(高級の含みがある)、同じくウォールナットなどの濃いインテリア(これも同じく高級の含みがある)、アルバート・ピンカム・ライダーの絵画に観られる褐色・・という時代の雰囲気(それを造りだしたのは経済条件かもしれませんが)もあるのでしょう。

「私たちの経験してきた最近の歴史は、戦争が産業と経済の変貌をもたらし、それを促進することを、あますところなく明らかにした。製鉄所の発展、農業の機械化、鯨油から砿油への転換、職制労働組合の成長、汚職、投機、特需によって築きあげられた巨大資本の集中、そして巨大鉄道会社に対する貴重な土地の無条件供与である」(18)という時代に、著者が積極的な価値を見出すのは「だが理解しておくべきことは、当時、場違いで、馬鹿げた、常軌を逸した作品とされ、傍流に追いやられた多くのものが、実際には完璧なる成功であり、発展しつつあるアメリカの伝統の、新たな機運であったということ」(35頁)なのです。

繰り返すなら、建築においては、ヘンリー・ホブソン・リチャードソン、ルイス・サリバン、フランク・ロイド・ライト、それにジョン・ウェルボーン・ルートといった東部の主流派から離れたところで仕事をしていた建築家たちがアメリカ建築史のなかにコンセプチュアルに、生き生きと、組み直されたのはかつてみた通りです。

風景の刷新と題された第二章は、フロンティアが消滅していったこの時代のアメリカのランドスケープについて書かれたものです。「土地というものは、原始的生活条件のもとでこそ大きな影響を及ぼすと考えられている節がある。「文明」が成立した後、すなわち商業、産業、都市が組織された後では、土地の影響力が小さくなっていくように見えるのだ。実際はその逆で、文明の発展とともに土地の重要性は増していく。すなわち利潤と活動のシステムである「自然」こそが、文明化された人間が生み出す重要な創造物のひとつなのだ」という言葉で第二章は始まります。この文章だけでも、ルイス・マンフォードがいかに慧眼であったかが分かろうというものです。

章の前半は主にヘンリー・デビット・ソローらに、後半はフレデリック・ロウ・オルムステッドらについて頁が割かれていきます。「ソローという人物を通じ、ついにアメリカ人の意識のなかに風景というものが入ってきた。もはやそれは潜在的な利用区域でも、共和制の政体に仕える領土でもなかった。それは内面的な宝となったのだ・・」(72)。都市の適地、金鉱、油田探してではなく、「大地を味わ」ったソローによって、それもフロンティアが消滅しつつあった時代(ソロー自身はその先行者)にアメリカの風景が発見されたと読むことも可能でしょう。「肝に銘じておかねばならないのは、ソローの表明した自然主義的・生物学的潮流が、私たちが生きている機械主義的世界よりも、後から始まったことである」(73)

オルムステッドの形成期に影響を与えたのはまず18世紀英国のピクチャレスクの美学、そしてそれに続くジョン・ラスキンであったようです。さらにオルムステッドは太平洋を渡り広東で10年農夫として働いたかと思えば、ヨーロッパを旅し、さらにメキシコや南部奴隷州をもまわっています。「農夫からランドスケープ・アーキテクトへの転身は、考えられる限り最も健全な経過をたどった」(86)

「近代建築へ向かって」の第3章はここではすでに述べたので省略しましょう。

第四章は主に絵画と写真についてです。

絵画ではトーマス・イーキンスとアルバート・ピンカム・ライダーが中心的な人物として描かれています。とりわけライダーは20世紀アメリカ芸術に大きな影響を与えています。さてこのイーキンスやライダーに比べると、「ホイッスラーは、ライダーとイーキンスのあいだで埋没してしまう。技法自体は両者を凌駕していたが、片側の想像力には追いつけず、もう片側の厳しく簡素な力強さには、彼の魅力と能力と国際的知識をもってしても、達すること叶わなかった」(184)と述べられてしまいます。余談ですが、ウィリアム・ル・バロン・ジェニーがパリ留学時代、実はホイッスラーと懇意にしています。そしてそのホイッスラーを介して、同時代の印象派の画家たちとも接近していたことは想像に難くないと思うのです。ジェニーは概して技師寄りの建築家という印象で記述されてきましたが、実は芸術をよく解し、観る目もあったのではないかと思うわけです。このあたりのいわば「ジェニーの神話」も再考の余地があるかもしれません。それから「オーギュスト・ロダンは、褐色の30年の芸術についてこう語っている。「アメリカはルネサンスを経験した。だがアメリカはそれを知らない」(185)のくだり。同時代のヨーロッパの芸術家達もアメリカ芸術の動向に注目しその影響を何がしか受けていたことも、しかし表立ってはそれを言わずにいただろうことも、想像に難くないと思われます。

さて写真です。メモ。「スティーグリッツにとって写真とは、単に映像を撮るだけのことではなかった。それは生命体に対する態度であり、彼の周囲にある人格や力の認識であり、それらを結び合わせ、補足し、論評し、解釈し、その発展の道筋を延長していく企てであった。彼は写真が芸術であるか否かということには関心がなかった。本当になぜこんなことを問題にする必要があるのだろう?結果さえ面白ければ、その名が何だろうと重要ではないのだ。スティーグリッツにとって、写真は近代の経験の主要な要素となった。それは現実性を意味し、光を意味し、人間の人格が周囲の世界に反応することを意味した」「写真におけるスティーグリッツの天命は、建築におけるライトのそれと似ていた」(226-227)

あまりメモや引用をし過ぎると、いささか差し仕えがあるかもしれませんので、この辺で控えましょう。

繰り返しになるかもしれませんが、著者はこの褐色の30年に、続く20世紀芸術の萌芽を読み取り、それも当時傍流とされたであろうものにそれを読み取り、かつ平板な歴史記述ではなくコンセプチュアルで生き生きとしたものとして組み直し、その後のアメリカ芸術史の枠組みに大きな影響を与えたと思えるわけです。そしてこれはまた訳者あとがきでも述べられているように、単にアメリカ近代芸術史というより、実は「「褐色の三十年」は、依然として近代建築史の盲点だとも言えるだろう」(252頁)とも、言えるわけです。確か『コンクリート・アトランティス』におけるレイナー・バンハムも似たようなことを言っていたはずです。

僭越ながら「モンゴメリー・シュイラー(Montgomery Schuyler)」の表記は「(モンゴメリー・)スカイラー」の方がいいと思います。

たいへん誠実に訳されています。

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