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2014年1月 6日 (月)

Giorgio Ciucci, Francesco Dal Co, Mario Manieri-Elia, Manfredo Tafuri, The American City, From the Civil War to the New Deal, The MIT Press, 1979, translated by Barbara Luigia La Penta

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伝説の書である。

ほぼ同じ時代に書かれ、同じく米国の都市と建築について論じた書にレム・コールハーズの『錯乱のニューヨーク』があり、同書は言わずもがなというほどよく知られている。コールハーズの同書がしかしながら学術的には?であるのに対し、本書はやはりヴェネチア学派のOpus Magnumではないだろうか。全体は序文と4つの論文(4章)からなる。序文では本書が扱う時代(アメリカン・ルネサンス期、つまり南北戦争終結からニューディール時代まで)について簡単に述べ、4人による4つの論文をあえてまとめずそのまま提示したことをことわっている。

1章はマリオ・マニエリ=エリアによる「帝国の都市へ向けて、ダニエル・バーナムとシティ・ビューティフル運動」である。今回はこれについて。

この章題自体、ルイス・マンフォードの『スティックス・アンド・ストーンズ』中の「帝国のファサード」を踏襲していると言え、文字通り、ダニエル・バーナムを軸としながらアメリカ合衆国のこの時期の都市化の過程および、1893年万博を契機としたシティ・ビューティフルおよびそれに続くアメリカ帝国の都市計画についてみていく。

バーナムはサリヴァン自伝でもライト自伝でも、どちらかといえばいわば悪役として描かれ、これはルイス・マンフォードにおいてもそうであった。というより、この部分を米国近代建築史において筋道としてつけたのはやはりマンフォードであったことが本論文においても示唆されている。「サリヴァンはしかしながら、1923年の自伝出版でそれに報復した。万博当時まだ生まれていなかったルイス・マンフォードは1931年にこう書くことになる。「アメリカ建築の伝統が断ち切られた。モダンな形式に着実に歩んでいくのではなく、それに代わって古典主義とエクレクティシズムの不毛な荒野に40年の長きにわたって建築家達はさまようことになった」。この(マンフォードの)論文はその後数十年にわたって規範となり、たとえ権威ある立場からの発言であってもいかなる異なる解釈も、無視され続けてきた。その一つとしてワーナー・ヘーゲマンのあまり知られていない解釈をあげることができる。ヘーゲマンはマンフォードやギーディオン、それにブルーノ・ゼヴィらとは反対の視点から「真実」を峻別している。1936年の論文でアメリカ・ネイティヴの建築派、リチャードソン、ルート、それにサリヴァン、そしてくわえてマンフォード自身をそのイデオロギー的な視点による偏った価値判断から非難し、またフランク・ロイド・ライトを絶対的価値へと運命づけたとして、酷評しているのである。比較的最近では、レオナルド・ヴェネボロやヴィンセント・スカーリーといった異なる視点の批評家が、万博評価について温厚な視点を与えてきている。しばしば歴史家に危険にも偏向を与えてきた(サリヴァンを)殉教者として描くという倫理的な解釈を避けることなどである」(41頁)。

ただし、これまでのバーナムやサリヴァンの評価を翻すことが本論文の目的ではもちろんない。この点について述べれば、単純化してしまえばマンフォード(や、おそらくマンフォードがつけた筋道を踏襲したギーディオン)の言説を教条的なモダニストの歴史観としてそこに「ポスト」をつけるのは簡単そうであり、実際、同じヴェネチイア学派のタフーリにはその傾向がなくはないように見える。

さて論の前半はシカゴ万博にいたるまで(および一部シカゴ万博以降)のアメリカ合衆国の資本主義と都市化の過程が手際よくまとめられている。南北戦争が北軍勝利に終わって合衆国の都市化が加速的に進む1870年代および80年代はアメリカのメトロポリス形成において決定的な時代であったとされる。東からは大西洋を渡って低賃金の移民労働者が絶え間なく流入し、西側には先住民からただ同然で手に入れた広大な土地と資源があり、「生活の場」であり、「生産の場」であり、「交換の場」であり、「政治的な闘争とストライキの場」であり、「労働力市場の場」としての(アメリカの)都市は、この時代にその骨格を形成したことがまず言われる。

この時代、つまり金ピカ時代の資本主義は自由放任経済であり、この経済の立役者は「親分」と「改革者」であったとされる。親分(boss)とは、東から来る移民労働者を保護し、彼らとアメリカの労働市場を仲介しかつ白人移民労働者が決して黒人階層にまで落ちていかないように面倒を見るとともに、移民労働者を搾取する存在である。概して親分はヤンキーではなく、移民の祖国での風習を持ち込むことを許容したとある。敷衍するとマフィアの親分もこうした親分衆の一部だったのであろう、というより、マフィアとか親分というのは日本も含めて資本主義の初期に登場する普遍的な組織や立役者なのであろう。対する改革者はアメリカ生まれの労働者(労働貴族)で親分衆に敵対的でその醜聞を暴き、また自らの労働市場にとっての脅威である移民労働者にも敵対的(排他的)である。しかしながらこの時代のアメリカの資本主義は両者のバランスによって生産力を伸ばす一方では保護貿易を課すことによって飛躍的に発展したともいう。そして親分も(資本の扱いに不慣れな)改革者もともに建築のパトロンにはなり得ない。パトロンとなったのはこの時代、「倒錯した親分」であったという。彼らが自らの業績を輝かしいものとするために「進歩的」知識人である建築家に建築の設計を依頼したのであった。「シカゴは当初から典型的なアメリカの都市だった。ヨーロッパの慣習へのノスタルジアなどそもそもない。ゆえにそこでは完全にネーティヴで、啓蒙的で、進歩的なコンセプトで建築が発展した。超越主義の哲学によって基礎づけられた個人主義と文化的独立という原理がその土台である。これは自由放任経済の時代、保護貿易に対応していた」(5頁)。

こうした自由放任時代はしかしながら1893年シカゴ万博に前後して終わっていく。一つには自由放任経済と親分・子分制度から、独占資本(トラスト)や大資本、および「科学」への移行があったからであり、シカゴについてはもう一つ、アメリカ合衆国の外交政策の転換が作用したという。それまでの孤立主義からウィリアム・マッキンリー以降の開国政策(つまり帝国主義)への政策転換によって、内陸部のシカゴから沿岸部のニューヨークやサンフランシスコへと、都市の軸足が移っていったからであるという。

 さてバーナムである。知識人で芸術家といった感じのリチャードソンやサリヴァンと比較すると、少年時代の成績は悪く、ハーヴァードとイェールに不合格となって西部に一攫千金を夢見て金鉱堀に行ったかと思えば(どこの政党かは不明)政治活動をしたかと思えば、南北戦争の地獄を見て大火後のシカゴにやって来てジェニーの事務所に入ったかと思えば製図には不向きで「これからはビッグビジネスだ」と大口をたたき(サリヴァン自伝による)、実際、容貌も確かに「世の中、銭ですわ」とその太鼓腹をたたいて言いそうなもので、そのくせ「わしは少年時代は不良やった。しかし見てみい、わしが成功者や」と成功談を吹いてまわりそうでもある(ただし印象)。建築史では悪役のバーナムは社会的成功者であったであろうし、それはサリヴァンをしてますます殉教者にしてしまうに十分であったかもしれない。

 本論文において焦点が当てられるのも(建築作品ではなく)シカゴ万博、シティ・ビューティフル、それに一連の「帝国の都市計画」である。

 シカゴ・コロンビア万博で採用された様式がボザール=古典主義であり、自由放任時代のリチャードソンやサリヴァンらの中世主義的な傾向とのその明確な相違は社会の在り方が変わってきたことを示すものであったことがまず言われる。「自由放任時代の中世様式に対し、古典主義は安定性を意味し、英雄時代の不確定が終わったことを示し、既成の権威による実績への忠誠を示している。とともにヨーロッパの建築の伝統との連続を意味し、それだけでなくもはやアメリカがそれに劣らぬことを示していた」、「最後に古典主義は建物類型の一貫性を意味し、それゆえ設計の経済性と生産効率のよさを意味した。このことはまた、英雄時代の個人主義が都市スケールにおける制御を要請される全体作品のディシプリンにとって代られたことを意味した」(19-20頁)。著者はこうしたことに加え実は博覧会自体がキッチュであり、大衆娯楽であったという視点も示唆する。「これはまたあたかも恒久建築に見えるかのように仮設建築を造るための選択でもあった。この手続きを選んだことはシカゴのはっきりしたビジネス感覚を明らかにしている」「この原理はできるだけ多くの建物をできるだけコストをかけずになおかつできるだけ記念的に見せるという建設法をとらせた。つまり恒久素材ではなくラスモルで造る建物である」「コロンビア万博は疑いなくキッチュである。しかしこれがその後の20年という最も重要な時期にアメリカの都市デザインに影響を与えたのだった」(20頁)。

ここで付言すれば、これは都市計画だけでなく、ニューヨークのコニーアイランドの先行者でもあろう。展示内容については「1889年のパリ博と同じく中東世界からは当地の典型的な街並みが再現され」「さらにミッドウェイ広場では蠍喰いや蛇使いがニューヨークからのポップコーン販売機と並び、この販売機は10万ドルを稼いだ。チューインガム・セラーも同じくらい稼いだ」、「旧世界からは古拙的でおとぎ話のような雰囲気を驚きや恐怖で掻き立てるような展示が、新世界からはこれとは異なる仕方で訪れる人を驚かせるもの、つまり新世界の新テクノロジーへの称賛という展示がなされた。これはフェリス・ホイールで頂点に達する」(31頁)といった感じである。

展覧会の会場計画と建築設計については、まずコッドマンによって「ヴェニス」をモデルとして計画され、リチャード・モリス・ハントが最も重要な建物を手掛け、さらにMMWも重要な建物を手掛け、サリヴァンらが脇に追いやられたのは実はこの時期、アドラー+サリヴァン事務所はジ・オーディトリアムの工事を巡ってトラブルのさなかにあったからだという(24頁)。またそのサリヴァンが手掛けた交通館にフランス装飾芸術連盟からゴールドメダルが贈られたのは、その正面装飾を評価してのことであって、マンフォードのサリヴァン評価、つまり「機能」によるものではなかったことも、確認される。さらに、フランク・ロイド・ライトはまさにこの建物の担当者であったが、ライトがこの博覧会において日本に衝撃を受けたことはよく知られていよう。

博覧会が行われた1893年は経済恐慌の年であった。翌年には有名なプルマン・ストライキが起きている。これは鎮圧に陸軍を要したほどのものであった。「この状況において共和党が掲げる反インフレと安定化の政策が好感をもたれ、また人気を博し始めた。とりわけ悲惨な状況に置かれた大量の移民を前にしてはそうだった。新しい組織的秩序の必要を説いてきた者たちは共和党の勝利によって、当然有利な位置につくことになった。バーナムはこの分野におけるこのグループの一人である」(48頁)。

シカゴ万博はデザインにおいてもコンセプトにおいてもそのままシティ・ビューティフル運動へとスライドしていく。バーナムはまさにそのまま新時代の立役者となっていったのだった。

「シティ・ビューティフル」という考えについて、「この点でシティ・ビューティフル運動は都市計画全体と同義ではなく、むしろ特定の計画方法に等しい。私の考えではそれも、当時にあって実践に移せるただ一つの方法であった。ホワイト・シティとシティ・ビューティフル運動を同一視することは、古典主義の肯定というより統御され設計された都市計画と見ることにおいて意味がある」「この状況はこの時代のアメリカ人にとって、とりわけバーナムにとってリアルなシティ・ビューティフルとはパリだったと認めるなら、より明らかとなる。それもナポレオン1世と3世のパリであり、バーナムはその地図を絶えず机のそばに置いていた」(52頁)。

帝国の都市計画が帝政期の都市計画をモデルとしていたとみる点で、この視点はマンフォードの視点をなぞっていると言える。ここでは都市計画についてみていくことが主眼ではないので、ざっと見る。シカゴに対し、バーナムらはジャクソン・パークだけでなく、メトロポリタン・エリアの計画を提示している。それはパテやオスマンのパリ計画のように放射状街路を用いたものである。さらにワシントンD.C.の計画も手掛けている。驚くべきことに、ランファンの18世紀の計画は20世紀初頭になっても進んでおらず、バーナムらがそれを引き継いでいる。さらにウィリアム・タフトに要請されてマニラ計画を手掛け、また国内ではサンフランシスコ地震後のサンフランシスコ計画を手掛けている。いずれもバロック的な放射性街路を基本としたものである。この計画に前後して1907年から合衆国は再度不況期に突入し、景気浮揚の方策として各都市で都市計画の話が持ち上がってきたという。

1909年にはワシントンD.C.で都市計画会議が開かれ、翌年にはロンドンでRIBA主催で都市計画会議が開かれている。そしてこの会議は都市計画における世代交代を示すものだったという。パトリック・ゲデスやエベネザー・ハワードに影響されたガーデン・シティ派とバーナム達のホワイト・シティ派という構図もさることながら、目覚ましい勢いを見せたのはドイツからの発表で、フランスやイギリスの計画をマスターして凌駕したかのような自信ぶりだったという。

論文の掉尾はタイタニック号沈没で締めくくられる。もちろんバーナムらの計画をタイタニックになぞらえている。そのしばらくのちバーナム自身、ヨーロッパで客死する。

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