« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月

2014年1月31日 (金)

清水知久『近代のアメリカ大陸』、講談社、1984

Kindai

これもかつて読んだものから。一般的な教科書的時代記述の確認。

メモ

「北部の産業資本は南北戦争で肥え太った。戦争それ自体から利益をあげたし、政府から高関税をはじめとして数々の保護や援助を受けた。戦後もこの傾向は続いた。工業生産は飛躍した。生産額は1860年の19億ドルから70年の42億ドルへと伸びた。鉄鋼業はこうした飛躍ぶりの代表だった。南北戦争終了後の1865年、鋼鉄生産高は14000トンだったが、その後の15年間に100倍も伸び、1890年には400万トンを越し、イギリスを抜いて世界一の座に就いた。

めざましい工業の発展は、資本の集中、企業の合同によってもたらされた。工業の発展と独占化は並行して進んだのである。1873年の恐慌が独占化へのきっかけとなったが、1880年代には、石油精製、タバコ、マッチなどにトラストが成立していった。独占化がいちばん早く進んだのは、巨大な資本を必要とする鉄道だった。最初の大陸横断鉄道が完成したのは1869年だが、鉄道は独占化で他に先んじただけでなく、汚職や横暴さでも他の産業を圧倒した。鉄道の建設には広大な土地が必要であり、払い下げられた公有地はイギリス全土よりも広かったが、この公有地払い下げには贈収賄がほとんど必ずつきものだった。できあがった鉄道は高い運賃を農産物に課した。だから、農民にとって鉄道は足をのばして害をなす「タコ」であり、『鉄の海賊』であり、不満や怒りの的だった。鉄道会社の不正や横暴に抗議する農民運動が盛んになった」(162-165)

「工業の発展は都市化を促進した。外国からの移民がニューヨークなどの都市を巨大化したが、それだけでなく、農村からも多くの人が都市に移り住んだ。かつでは西部の土地が人々をいざなった。こうした傾向が終わったわけではないが、成功を求め、華やかな生活に憧れて都市を目ざす人の方が多くなったのである」(165)

「大西洋に海底電線が敷かれたのは1858年だったが、66年には第二の海底電線が敷かれ、ヨーロッパと米国は通信の面ではひとつになった。交通・通信の日進月歩には終わりはなかった。1874年には、ニューヨークに市街電車が走るようになり、76年、アレキサンダー・グラハム・ベルが電話を発明し、翌年には家庭にも設置されるようになった。トマス・エジソンは79年、白熱電球の実用化に成功した。「自由の女神」像が建った1885年は、シカゴに最初の高層建築、いわゆる摩天楼が登場した年でもある。摩天楼はシカゴやニューヨークなどの大都会の象徴であるばかりか、機械文明を示す象徴でもあった。1893年、シカゴで万国博覧会が開かれた。この催しは米国の工業と機械文明・科学技術を誇示する国家的な行事だった」(171-173)

「『草の葉』の詩人ホイットマンは、1871年『民主主義の展望』を、『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』の作者マーク・トウェインは、73年に『金ピカ時代』を発表した。ふたりとも南北戦争後の米国社会の混乱や腐敗、物質主義に強い批判と不信を表明したのだった」(175)

1890年におこなわれた米国の国勢調査は、フロンティア・ラインの消滅を告げていた。この事実に着目した歴史家フレデリック・J・ターナーは、1893年「米国におけるフロンティアの意義」と題する論文で、「米国史の第一期の終了」を宣言した。広大なフロンティアの存在がヨーロッパとは異なる米国の独自性と民主主義を保証してきた、ターナーはそのように考えていた。そのフロンティアがなくなったとすれば・・・

実際には広大な土地がなくなってしまったわけではない。しかし、大陸での膨張がもはや限界に達した事、いままでとは異なる発展が必要なこと、未知の時代が訪れつつあることは、ターナー以外にも、多くの識者が感じ始め、不安をもつようになっていた。工業は発展の一途をたどり、総生産額は1860年からの30年間に5倍に伸び、ほとんど100億ドルに達した。この世界第一の工業力が、では国民に共通の恩恵をもたらしたかというと、事実は逆だった。貧富の格差は誰が見てもはっきりわかった。しかもその差は広がる一方だった。豪邸に住み、貴金属で身を飾る百万長者が「みせびらかしの消費」を楽しむ一方で、スラム街で飢える人々、紡績工場で働く10歳の少女たちが増えていった。

大都市を埋める移民たちの大半、低賃金の工場労働者、生産物の安さに苦しみ土地を奪われた農民たちにとって、「アメリカの夢」は手の届かないところに去ってしまった。こうした不平等を極限にまで推し進めたのが、1893年の恐慌だった。恐慌は4年間続き、労働者の6人ないし7人に一人が職を失った。労働者は急進化し、ストライキが頻発した。その代表が鉄道労働者のストライキだった。賃下げに反対したこのプルマン・ストライキは約2か月続いたが、大統領がとったのは連邦軍の出動という強硬措置だった。

労働者のはげしい闘争は、支配層のあいだに、米国にもやはり階級は存在する、米国は独自性を失いヨーロッパ並みに転落してしまったという失望を生んだ。そればかりか、彼らは労働者の動向に「内乱」や「革命」の兆しさえ読み取って、不安と恐怖を強めていったのである。

「米国流生活様式」の背骨であるはずの農村でも反乱が相次いだ。農民たちは南北戦争後から各種の団体をつくって、独占体、とくに鉄道会社の横暴に抵抗していたが、その運動は労働者の一部と結びついて、1891年、人民党という名の第三党結成に実を結んだ」(214-218頁)。

1896年の選挙は、独占体を中心とする支配層の立場からはは、「アメリカニズム対アナキー」「アメリカニズム対社会主義」を争点として、危機からの脱出を図る政治的な機会と考えられた」(220)

「過激派」と言われたフランク・ロイド・ライトがアナーキストのピョートル・クロポトキンの思想を基盤としつつ、「米国流生活様式の背骨であるはずの農村」に「ブロードエーカー」や「ユーソニアン」を構想したことには、こうした背景があったのか?

1896年の選挙で共和党が勝ち、現状は維持されることになった。しかしこれで「アメリカの夢」が復活するわけではなかった。労働者に職と賃金を保障し、農民に市場を与えることができなければ、混乱の再発は避けにくかった。今度混乱が起これば、いったいどのような事態にいたるか。

資本もまた市場の拡大を求めていた。1895年、恐慌の最中に結成された全米工業家協会は、恐慌脱出策として、12項目の提案をかかげたが、そのうちの7項目は海外市場の拡大制覇を要求していた。海外市場の拡大制覇という願望は1890年代にはじまったものではないが、恐慌があらわにした体制の危機はこの願望を切実な要求に変えたのだった。知識人や政治家の中からも、資本家や農民の利益を代弁しながら、また独自の立場から、海外市場の拡大を求める声が強くなってきた。宗教や文明上の使命感や軍事戦略の面から海外進出を主張するものも多かった。

こうした要求や主張の一致点は、ほとんどあらゆる意味で、かつての「マニフェスト・デスティニー」論に似ていた。かつては土地が目標、今度は市場だった。もっと市場をという声は、共和・民主両党の間でも、農民・労働者・資本家の間でもほとんどちがいはなかった。市場の拡大は自由、キリスト教、文明など、すべて好ましきものの拡大と理解された。かつての「マニフェスト・デスティニー」とちがいがあるとすれば、それはいぜんが土地を、つまり「陸の帝国」を求めたのに対して、今度は市場を、つまりアメリカ大陸をこえる「海の帝国」を、という点にあった。そして米西戦争はこの「海の帝国」建設への合意を決定的に固める役目を果たした。

ジョン・ヘイ国務長官は米西戦争を「すばらしい小戦争」とよび、プエルト・リコの占領は、戦闘を指揮したマイルズ将軍の「月夜の散歩」といわれた。189851日、デューイ提督指揮下の米国極東艦隊はマニラ湾でスペイン艦隊を撃破したが、米国海軍は一艦一兵の損失もこうむらなかった」(222-224)

「フィリピンの獲得で、ハワイ、グアム、マニラと連なる基地を米国は確保した。広大な太平洋をつなぐ米国の「橋」が完成したのだった。そしてこの長い「橋」の前方にはアジア大陸が広がっていた」(228)

「たしかに米国でも、貧富の差は巨大だった。しかし百貨店は決して金持ちだけの「消費の殿堂」ではなかった。一般大衆にも消費の機会を与えてくれた。大量生産による商品の普及は、錯覚であるにせよ、貧しい人々に平等を実感させた。客となり、商品をわずかでも手に入れることも、社会参加へのひとつの形だった。都市と農村の間には、生活様式や価値観などで大きな差があったが、通信販売はこの差を縮めていった。ここでも距離は克服されていったのである。手間は多少かかるが、農村の人々も都市住民と同じ商品を使うことができるようになったからである。交通の発達、移動や輸送の簡便化、通信網の拡充、技術の発達や新発明、新聞や雑誌の発達、広告の巨大化と浸透などなど、要因は数多いが、これらの条件に促されて、世紀末の米国に、第一期大量消費社会ともいうべき社会が生み出されたのだった」(235-236)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月30日 (木)

アメリカン・ルネサンス期間の定義について

リチャード・ガイ・ウィルソンのこちら定義では、アメリカン・ルネサンス期は1870-1938年とされ、これはさらに前期(1870-1887年)、高期(1887-1917年)、後期(1917-1938年)に分けられる。

http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/american-archit.html

同じリチャード・ガイ・ウィルソンのブルックリン美術館での1979年の展覧会ではおおよそ1876-1917年とされている(この時代は「金ピカ時代」と「新帝国主義」の時代に一致する)。またこれは上記の前期と高期にほぼ重なる。

http://en.wikipedia.org/wiki/American_Renaissance

文学では大雑把に19世紀中葉、とりわけ1850-1855年とされる。

http://en.wikipedia.org/wiki/American_Renaissance_(literature)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月29日 (水)

ル・コルビュジエ『伽藍が白かったとき』生田勉+樋口清訳、岩波書店、1957

Garann

かつて精読したものから、スカイスクレーパー批判について再読。この書自体、かつては文化産業批判に目がいったが、タフーリの論を読んだ後では、ル・コルビュジエによるスカイスクレーパー批判がかなり明確になってくる。「6、ニウヨークの摩天楼は小さすぎる」は別に挑発的言説などではなく、ル・コルビュジエの「デカルト的スカイスクレーパー」との都市組織上の概念的な相違を言っていると見た方がいい。また歴史的経緯としては、中心部における高層化とその周辺をクリアにすることなどにおいて、1910年の世界都市計画会議後のガーデンシティの知見を採り入れたものであったり、といったことである。

メモ

「ニウヨークの摩天楼は小さすぎる、

十分な大きさではない、と始めて(ママ)見たル・コルビュジエ氏は語る。

大きく、そしてもっと間をあけなければならない」

「理屈は明瞭で、それを支える証拠はいくらでもある。満ち溢れた街路、都市の全き荒廃。

摩天楼は、都市の頭につけた羽飾りではない。そのように建てられているが、それは間違いだ。羽柄飾りは都市の毒であった。摩天楼は道具である。人口を集中させ、土地の充血を散らし、類別し、有効な内部を持つ道具。労働条件を改善させる不思議な泉、経済の創造者、したがってまた富の消費者。

しかし、羽飾りとしての摩天楼は、マンハッタンの地に多く建てられ、経験にたいする尊敬を失ってしまった。ニウヨークの摩天楼は、私がデカルト的摩天楼と呼ぶ理性的な摩天楼を傷つけてしまった。(国際雑誌「プラン」1931年パリ刊)。」(66-67)

「すでにニウヨークでは「ロックフェラー・センター」が、フィラデルフィアのホウ・レスケーズの摩天楼とともに、その便利で高貴なホールによって新しい時代の品威を世界に断言しているのだ」(69)

「ニウヨークの摩天楼の歴史は、効用や虚栄の問題と入り混じっている。ウォール街に高い建物が建てられたのは、短時間に事務を処理するため、株式取引所の廻りに事務室を積み重ねなければならなかったからだ。人々はそこに、キャニオン、荒々しく深い裂け目、かつてない街が現れ出るのを見た。しかもそれは、それほど醜くはない!」(71)

「この十年の間また、ニウヨークはあまりに小さな摩天楼があまりに多く建ちすぎたため、土木建築係の役人たちが茫然とするほど街路を混乱させ、土地を石化させてしまった。彼らは、その都市を、街路を、窒息した交通を、どうしたらよいのか分からない、全く分からないのだ。しかし彼らは、マンハッタンの美しい海洋性の空に輝く伽藍を手に入れたのだ。

私は恐れない。アメリカ人は、こうした「大繁栄」の異常な開花を打壊して、高貴で有用な道具に代えるべきであることを認めるだけの強さをもっている。道具としての摩天楼、自由な敷地の広さと建物の高さの函数、それがニウヨークのなすべき次の仕事である。それはこの都市の第三の変貌となろう」(74-75)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月28日 (火)

向井正也『モダニズムの建築』、ナカニシヤ出版、1983

Mukai

これも学生時代に読んだものの再読、かつての教科書である。

この書の肝はヴォリューム/マッス概念の明確化にやはりあると思われる。ヴォリューム概念は曖昧に使われることが少なくないが、基本的にはマッスとの相対的な概念である。ドイツ美術史学でいうラウムリッヒ/ケルパーリッヒ概念に近いものの、しかしながら絶対的な概念ではなく相対的な概念である。学生時代、この部分を読んで建築の見方(読み方)が変わった記憶がある。

そのヴォリュームの説明に際して実はルイス・マンフォードの1949年のAR誌の論文も引かれていることにあらためて目が行く。さらに意外と本書ではアメリカ建築について比較的詳しく述べられ、マリオ・マニエリ=エリアと同じくマンフォードの『スティックス・アンド・ストーンズ』中の「帝国のファサード」から敷衍している部分があることにも目が行く。いささか驚くべきことにトーマス・E・トールマッジまでが引用されている。

メモ

「アメリカはもともと社会経済的に、近代主義の発育に好都合な風土的条件をかねそなえていた。逆説的ではあるが、アメリカにおける近代主義の発展をかくも長期にわたって阻止して来たのもまた、このような条件から来るものであった。その直接の契機ともいうべき一八九三年シカゴ万博におけるシカゴ派の敗退とその運動の挫折によって来る源は、当時ようやく西部辺境地域にまで進出して来た北部の金融資本の建築的シムボルともいうべき、古典主義建築の勝利によるものであった。

それは当時、リチャードソン以来の西部における、ロマネスク様式によるアメリカの「新伝統」(ヒッチコック)に対するニューヨークの、「商業古典主義」(ギーディオン)の攻撃と解せられる。ここに、ロマネスクを通じ、ライトを通じて、ベルラーヘやオランダ、ひいてはヨーロッパの近代建築運動との密接な関連の上で、アメリカにおいてもまた一九世紀から二○世紀にかけて、ヨーロッパと並行的な発展のあとをたどるべく運命付けられていた、アメリカの近代建築運動は一つの終止符が打たれた。サリヴァンの予言のように、以後アメリカは三○年代の本格的な近代建築運動に入るまで、久しく反動的な折衷主義の支配下におかれることになろう」(111-112頁)

「こうした二つの対立した傾向をクーウェンホーヴェンはアメリカにおける「闘う二つの伝統」として次のように解している。

1、  文化的伝統(ヨーロッパから移植のもの)

2、  ヴァナキュラーな伝統(アメリカ固有の伝統)

1が何事も、ヨーロッパ的伝統に追随しようとする「文化的植民地」アメリカの劣等感に由来する前記のマイナス傾向の源であるのに対して、2は新天地に自由を求めた、初期以来の移民地のいわゆる開拓者精神に基づく、自由で独自なアメリカ土着の伝統という、プラスの面をあらわすものといえる。

 クーウェンホーヴェンはこうした二つの伝統がアメリカ建築史、ひいてはアメリカの芸術史全体をとおして芸術のあらゆる分野において発展してきたと考える」(112-113)

「金融資本家の立場はそこにはまだあらわれていない。しかしアメリカ資本主義精神の客観化過程において金融資本家的モチーフは次第にその比重を高め、次第に産業資本家的モチーフを圧倒し、今世紀に入ってからはほぼ完全にアメリカ経済全体の基調となってしまった。

アメリカにおける近代建築運動たるシカゴ派を衰退にみちびいた社会経済的背景は以上のようなものであった。マンフォードは当時の金融資本家とそのシムボルとしての建築の状況を「帝国的ファサード」なる題目の下に、キリスト死後1-2世紀ごろのローマ帝国の建築にたとえ、こうした時代の主調としての古典主義(ギーディオンの「商業古典主義」)が、アメリカ資本主義の一九世紀末での変化としての、企業の集中や合同がはじまるかはじまらぬ先に、すでにウォール街のシムボルとして、建築面に固有の形式をとるにいたったとのべ、その背景としての金融資本の制覇を次のように建築と関連付ている」(115)

「たとえばジェームズ・フィッチは、「その合流によって、近代建築として知られる理論と実践の体系を形成した幅広い三つの傾向として」、

1、  単純化、能率、経済を要求するアメリカ人固有の常識

2、  リチャードソン、サリヴァン、ライトなど一連のシカゴ派の作品

3、  ヨーロッパから移植せられたいわゆる「国際様式」の合理主義

の三つをあげ、これらの源流が合流して本質的に一つの運動にとけこんだとしている。

その当否はしばらくおくとしても、現在最大の資本主義国アメリカにおいて、はじめて本来の意味での「大資本主義様式」を確立したと見られる点からしても、この運動はまさしく「アメリカの近代主義」と呼ぶことができよう」(121-122頁)。

「ともあれ、サリヴァンはもとより、シカゴ派の運動そのものが、リチャードソンからジョン・ルートを経てサリヴァンへの、一貫してロマネスク復興運動としてとらえられる一面を持っていた事実も見逃せない。トールマッジはシカゴ派の運動を、こうした「ヨーロッパにまったく類例を見ない」西部における運動として、これを東部、ニューヨークを中心とする古典主義(折衷主義)との様式上での対立において考察し、サリヴァンはどこまでもロマネスク様式によるアメリカ様式の創造に希望を抱いていたのだと述べている」(124)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月27日 (月)

ジークフリート・ギーディオン、「市民センター:ロックフェラー・センター、1931-1939年」、『空間・時間・建築、2』、太田實訳、丸善、1969

Edg

『空間・時間・建築』中のロックフェラー・センターの記述はどんなであったかを確認のために再読する。

当該部分は実は「都市計画における時-空間」と題した章に配され、なおかつK.マイケル・ヘイズが『ポストヒューマニズムの建築』の冒頭でギーディオン批判の文脈で引いていたエドガートン(エッジャートン)の写真も用いられている個所である。この部分は実は全体のcruxの一つと言えるのではないか。

全体として高く評価しているが、しかしながらそれは都市複合施設とその根底となっているものについてより、人文主義的な一点透視的なものではなく断片的な「空間-時間的」なものとしての複合体の視点への評価であるように見える。ただし、それがK.マイケル・ヘイズが述べるメトロポリス的あるいはポストヒューマニズム的なものであるとも、実は言えるかもしれない。

メモ

「まず、これらの造形的要素とは一体いかなるものなのか、建築的には、どんな意味をもっているのかを考えてみよう。80年代のシカゴの、15階から20階くらいの事務所建築は、気品と、力強さと、釣合いのとれた大きさをもっていた。それらの建築群は、通常U字型の中庭式平面をもった開放的な平面計画によって、あらゆる場所に光線を採入れるようになっていた。ニューヨークの初期の摩天楼は、このような特色をぜんぜん持っていなかった。それは単に極端に高い塔となっただけで、釣合のとれた大きさとか気品とか力強さといったものに欠けていた。ルイス・サリヴァンは、後の発展において追随されるようになる最も純粋な二、三の範例を生み出したが、彼は「低級なニューヨークの建築は、われわれの文化と芸術の悲劇的な否定によって、救いようのないほど堕落してしまった」ということを指摘している。ニューヨークの摩天楼が堕落したのは、その塔のあまりにも誇張された使用にある。つまり、そこには似非歴史的な回想の混合と、そのと都市の全構造に影響するような無情な環境無視があった」(942)

「このような巨大な建築集合体は、ルネサンスの単一視点などは予想していない。それはわれわれの時代の多面的な近づき方を予想しているのである。この間の相違は、ボローニャの貴族アシネーリとガリセンダ両家の2つの斜塔のような13世紀の構築物とロックフェラー・センターとを比較することによって、明瞭になる。この貴族私有の要塞は、壮大に空に向かって聳え立っているが、一つの視点から一瞥によって包含されうるものである。そこには、観者にとって相互の釣合関係に関して不明確に思われるようなものは何も存在していない。一方、ロックフェラー・センターのような組織体の本質的な性格は、中心軸に制約されるような一視界のうちには、少しも顕示されていないのである。そこには種々の対称性が採用されているが、それはその全体の美学的重要性についてはそれほど意味のないものである。この集合体は近代の科学研究や近代絵画において成就されてきたものに類似しているような、空間と時間についての理解を必要としているのである。

エッジャートンのストロボスコープの研究では、運動を10万分の1秒に止められたコマの中に固定して分析することが可能であり、全運動が連続的な成分に分解して示されている。ロックフェラー・センターでも、人間の眼は同じような働きをしなければならない。眼は個々の眺望をそれぞれ単独に取り上げて、それらを一つの時間の連続の中に結び合わせながら相互に関連づけなければならない。こうすることによってのみ、われわれは量と面の壮大な演技を理解し、その多面的な意味を感知することができる」(949)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月25日 (土)

藤井厚二『聴竹居』1928

1

南東側立面、おそらく最も流布している立面。正面に落葉樹、その下に満天星。

2

その縁側/コンサヴァトリの内側。腰壁部分に吸気用引戸。天井には排気用開口が。借景の在り方は修学院離宮や円通寺を思い出させる。

3

片持梁で端部を抜いている。

4

アプローチ。玄関は北東を向いているのか?

5

玄関ドアは内開き。鐘馗のような「怪獣」は伊東忠太へのオマージュであるとか。

6

床下、束は木製。

7

少し前まで、日本の住宅の壁の大半は木舞壁。

8

大阪湾からの海風を取り入れ、夏を涼しくするという床下の持ち上げ。上は畳丘。これは西山卯三の『これからの住まい』でも論じられていたもの。

9

客間。窓辺の造作椅子は、アドルフ・ロースのモラー邸からルイ・カーンのフィッシャー邸まで、たびたび登場する要素。

10

ダイニングルーム、ここでも窓辺の造作椅子。

11

広間、窓型と戸当で繰り返される四分円など。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月24日 (金)

Manfredo Tafuri, “The Disenchanted Mountain:The Skyscraper and the City,” The American City, From the Civil War to the New Deal, The MIT Press, 1979

Disenchanted

 引き続きThe American Cityから、マンフレッド・タフーリによる最終章。

まず全体の構成としてエピグラフにジョン・ドス・パソスの小説『USA』に登場するキャス・ギルバートのウールワースビルの記述を、掉尾にハーマン・メルヴィルの『白鯨』を示唆する言葉を、なおかつ二つとも同じような修辞で、つまり「時代の先端」でありながら既に時代からずれ始めており、かつ他者を示唆するものとして配しているところは、それこそ痺れるほどかっこいいと言うべきだろうか。T.J.クラークにせよ、マンフレッド・タフーリにせよ、その論文は単に論理を構築してくだけでなく、いい意味で「文学」であるところが時々あるように思う。さらに章題である“The Disenchanted Mountain”は実質的にはロックフェラー・センターを指していると言えるが、章全体をいわば山型に構成し最後に再び転倒させてみせるところなどは、若きタフーリ冴えているな、とも思う。付言すれば。Disenchantedにはアドルフ・ロース風のという含みがあるようにも。

全体の構成はシカゴ・トリビューン・コンペからニューディール期の地域主義への一瞥を経て、ロックフェラー・センターの建設から戦後1970年代のジョン・ハンコック・センターやワールド・トレード・センターなどのスカイスクレーパーまでを、自由放任経済の終焉からanti-cyclicな資本主義(この語用はアーネスト・マンデルを彷彿させる)を背景に述べていく。こうした記述は実は資本主義と近代都市の変貌と、そして都市建築の変遷の根幹に触れるものであるとも述べ得るかもしれない。またシカゴ・トリビューンからロックフェラー・センターへという経緯はコールハーズの『錯乱のニューヨーク』とも同じであるが、コールハーズの書ではいまひとつ不明瞭であった部分も実に鮮やかに述べられているとも、言い得るかもしれない。ついでながら、この二つのプロジェクトに関わったレイモンド・フッドの立ち位置も、本書では明確化されている。フッド自身が意識していたとされるように、フランク・ロイド・ライトやルイス・マンフォードらとは対極に位置する。

全体の大雑把な論の展開を確認する。

自由放任経済時代にグリッド上の自律したオブジェとしてあったスカイスクレーパーが20世紀初頭には資本主義と都市の変容のなかで既に時代遅れなものとなりつつあり、シカゴ・トリビューン・コンペは、文字通りシカゴ・トリビューン社という企業の(都市から自律した)オブジェとして計画された、まさにその最後のものであったことが確認される。

ただし、1920年代に企画されたこのコンペにはアヴァンギャルドを含むヨーロッパからの建築家も、多数応募したことはよく知られている。そして、アヴァンギャルドを含むヨーロッパの建築家とアメリカの建築家の相違はそのデザインにあるのではなく、スカイスクレーパーの扱い方そのものにあったことことが述べられる。アメリカの建築家が相変わらずスカイスクレーパーを先述した自律的なオブジェとして扱っていたのに対し、ヨーロッパの建築家はアヴァンギャルドからエリエル・サーリネンのような建築家まで、都市を組織するエレメントとして見ていたのだという。ル・コルビュジエの『300万人の現代都市』計画はこのコンペとほぼ同時代のものであるが、そこではスカイスクレーパーはまさに都市を組織するエレメントとしてあった。ヨーロッパにおいては実質的にスカイスクレーパーはまだ一棟も建っていなかったにもかかわらず、この概念上の深化は、やはり瞠目に値するかもしれない。このコンペに応募したエリエル・サーリネンもアドルフ・ロースも、ルイス・ヘンリー・サリヴァンへのオマージュを述べている。しかしそのサリヴァンをしてさえ、アメリカの建築家はスカイスクレーパーをまだ単なる自律したオブジェとして捉えていたということになるのであろう。

サーリネンはさらにシカゴの再開発計画にも携わっており、そこで今度はシティー・ビューティフルをも称揚しているが、しかしながらここでもアメリカの建築家とサーリネンの都市の組織化への考えの相違が際立たされている。

大恐慌と続くanti-cyclic経済を背景とし、都市計画から地域計画へと組織と管理の問題が拡大して行く過程で、フランクリン・D・ローズヴェルトに近かったアメリカ地域計画協会およびセイジ財団とルイス・マンフォードらの応酬についても触れられている。双方の論点をまとめると、アメリカ地域計画協会やセイジ財団がスラム・クリアランスの必要を唱えたのに対し、マンフォードらはそもそもスラムを生み出しているシステム自体に手を付けるべきだと主張したという。実際には博愛主義的観点からローワー・マンハッタンをはじめとしてアメリカ地域計画協会の案が実行されていくのであるが、趨勢という点ではいずれにせよ、都市の組織や管理の問題が、住宅問題とエネルギー資源の問題へと集約されていったと言える。

さてロックフェラーセンターである。複合巨大施設としてのこの施設は、既に自由放任経済時代の自律したオブジェとは異なった次元にあろう。面白いことにというか、やはりというか、オペラハウスではなくミュージックホールその他を擁したこの施設はオルテガ・イ・ガゼットからも批判されたといい、おそらくホルクハイマー+アドルノの文化産業批判でも念頭に置かれたものの一つだったのではなかろうか。

ロックフェラー・センターは数ブロックにまたがる巨大複合施設だったが、1970年代のジョン・ハンコック・センターは一つのビッグボックスのなかに執務空間から居住空間、その他付帯空間までを一括したモノリスとなる。いわば都市を内包した、しかしそれ自身都市のなかにある、反・都市的な存在である。

1979年出版となっている本論文は、都市とスカイスクレーパーの変容をここで終えている。都市そのものがサバーバンネーションや中心空洞化していく現象は、この時代、まだあまり議論されていなかったのかもしれない。

いずれにせよ、ハードルとなる論文の一つである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月 6日 (月)

Giorgio Ciucci, Francesco Dal Co, Mario Manieri-Elia, Manfredo Tafuri, The American City, From the Civil War to the New Deal, The MIT Press, 1979, translated by Barbara Luigia La Penta

American1

America2_2

伝説の書である。

ほぼ同じ時代に書かれ、同じく米国の都市と建築について論じた書にレム・コールハーズの『錯乱のニューヨーク』があり、同書は言わずもがなというほどよく知られている。コールハーズの同書がしかしながら学術的には?であるのに対し、本書はやはりヴェネチア学派のOpus Magnumではないだろうか。全体は序文と4つの論文(4章)からなる。序文では本書が扱う時代(アメリカン・ルネサンス期、つまり南北戦争終結からニューディール時代まで)について簡単に述べ、4人による4つの論文をあえてまとめずそのまま提示したことをことわっている。

1章はマリオ・マニエリ=エリアによる「帝国の都市へ向けて、ダニエル・バーナムとシティ・ビューティフル運動」である。今回はこれについて。

この章題自体、ルイス・マンフォードの『スティックス・アンド・ストーンズ』中の「帝国のファサード」を踏襲していると言え、文字通り、ダニエル・バーナムを軸としながらアメリカ合衆国のこの時期の都市化の過程および、1893年万博を契機としたシティ・ビューティフルおよびそれに続くアメリカ帝国の都市計画についてみていく。

バーナムはサリヴァン自伝でもライト自伝でも、どちらかといえばいわば悪役として描かれ、これはルイス・マンフォードにおいてもそうであった。というより、この部分を米国近代建築史において筋道としてつけたのはやはりマンフォードであったことが本論文においても示唆されている。「サリヴァンはしかしながら、1923年の自伝出版でそれに報復した。万博当時まだ生まれていなかったルイス・マンフォードは1931年にこう書くことになる。「アメリカ建築の伝統が断ち切られた。モダンな形式に着実に歩んでいくのではなく、それに代わって古典主義とエクレクティシズムの不毛な荒野に40年の長きにわたって建築家達はさまようことになった」。この(マンフォードの)論文はその後数十年にわたって規範となり、たとえ権威ある立場からの発言であってもいかなる異なる解釈も、無視され続けてきた。その一つとしてワーナー・ヘーゲマンのあまり知られていない解釈をあげることができる。ヘーゲマンはマンフォードやギーディオン、それにブルーノ・ゼヴィらとは反対の視点から「真実」を峻別している。1936年の論文でアメリカ・ネイティヴの建築家、リチャードソン、ルート、それにサリヴァン、そしてくわえてマンフォード自身をそのイデオロギー的な視点による偏った価値判断から非難し、またフランク・ロイド・ライトを絶対的価値へと運命づけたとして、酷評しているのである。比較的最近では、レオナルド・ヴェネボロやヴィンセント・スカーリーといった異なる視点の批評家が、万博評価について温厚な視点を与えてきている。しばしば歴史家に危険にも偏向を与えてきた(サリヴァンを)殉教者として描くという倫理的な解釈を避けることなどである」(41頁)。

ただし、これまでのバーナムやサリヴァンの評価を翻すことが本論文の目的ではもちろんない。この点について述べれば、単純化してしまえばマンフォード(や、おそらくマンフォードがつけた筋道を踏襲したギーディオン)の言説を教条的なモダニストの歴史観としてそこに「ポスト」をつけるのは簡単そうであり、実際、同じヴェネチイア学派のタフーリにはその傾向がなくはないように見える。

さて論の前半はシカゴ万博にいたるまで(および一部シカゴ万博以降)のアメリカ合衆国の資本主義と都市化の過程が手際よくまとめられている。南北戦争が北軍勝利に終わって合衆国の都市化が加速的に進む1870年代および80年代はアメリカのメトロポリス形成において決定的な時代であったとされる。東からは大西洋を渡って低賃金の移民労働者が絶え間なく流入し、西側には先住民からただ同然で手に入れた広大な土地と資源があり、「生活の場」であり、「生産の場」であり、「交換の場」であり、「政治的な闘争とストライキの場」であり、「労働力市場の場」としての(アメリカの)都市は、この時代にその骨格を形成したことがまず言われる。

この時代、つまり金ピカ時代の資本主義は自由放任経済であり、この経済の立役者は「親分」と「改革者」であったとされる。親分(boss)とは、東から来る移民労働者を保護し、彼らとアメリカの労働市場を仲介しかつ白人移民労働者が決して黒人階層にまで落ちていかないように面倒を見るとともに、移民労働者を搾取する存在である。概して親分はヤンキーではなく、移民の祖国での風習を持ち込むことを許容したとある。敷衍するとマフィアの親分もこうした親分衆の一部だったのであろう、というより、マフィアとか親分というのは日本も含めて資本主義の初期に登場する普遍的な組織や立役者なのであろう。対する改革者はアメリカ生まれの労働者(労働貴族)で親分衆に敵対的でその醜聞を暴き、また自らの労働市場にとっての脅威である移民労働者にも敵対的(排他的)である。しかしながらこの時代のアメリカの資本主義は両者のバランスによって生産力を伸ばす一方では保護貿易を課すことによって飛躍的に発展したともいう。そして親分も(資本の扱いに不慣れな)改革者もともに建築のパトロンにはなり得ない。パトロンとなったのはこの時代、「倒錯した親分」であったという。彼らが自らの業績を輝かしいものとするために「進歩的」知識人である建築家に建築の設計を依頼したのであった。「シカゴは当初から典型的なアメリカの都市だった。ヨーロッパの慣習へのノスタルジアなどそもそもない。ゆえにそこでは完全にネーティヴで、啓蒙的で、進歩的なコンセプトで建築が発展した。超越主義の哲学によって基礎づけられた個人主義と文化的独立という原理がその土台である。これは自由放任経済の時代、保護貿易に対応していた」(5頁)。

こうした自由放任時代はしかしながら1893年シカゴ万博に前後して終わっていく。一つには自由放任経済と親分・子分制度から、独占資本(トラスト)や大資本、および「科学」への移行があったからであり、シカゴについてはもう一つ、アメリカ合衆国の外交政策の転換が作用したという。それまでの孤立主義からウィリアム・マッキンリー以降の開国政策(つまり帝国主義)への政策転換によって、内陸部のシカゴから沿岸部のニューヨークやサンフランシスコへと、都市の軸足が移っていったからであるという。

 さてバーナムである。知識人で芸術家といった感じのリチャードソンやサリヴァンと比較すると、少年時代の成績は悪く、ハーヴァードとイェールに不合格となって西部に一攫千金を夢見て金鉱堀に行ったかと思えば(どこの政党かは不明)政治活動をしたかと思えば、南北戦争の地獄を見て大火後のシカゴにやって来てジェニーの事務所に入ったかと思えば製図には不向きで「これからはビッグビジネスだ」と大口をたたき(サリヴァン自伝による)、実際、容貌も確かに「世の中、銭ですわ」とその太鼓腹をたたいて言いそうなもので、そのくせ「わしは少年時代は不良やった。しかし見てみい、わしが成功者や」と成功談を吹いてまわりそうでもある(ただし印象)。建築史では悪役のバーナムは社会的成功者であったであろうし、それはサリヴァンをしてますます殉教者にしてしまうに十分であったかもしれない。

 本論文において焦点が当てられるのも(建築作品ではなく)シカゴ万博、シティ・ビューティフル、それに一連の「帝国の都市計画」である。

 シカゴ・コロンビア万博で採用された様式がボザール=古典主義であり、自由放任時代のリチャードソンやサリヴァンらの中世主義的な傾向とのその明確な相違は社会の在り方が変わってきたことを示すものであったことがまず言われる。「自由放任時代の中世様式に対し、古典主義は安定性を意味し、英雄時代の不確定が終わったことを示し、既成の権威による実績への忠誠を示している。とともにヨーロッパの建築の伝統との連続を意味し、それだけでなくもはやアメリカがそれに劣らぬことを示していた」、「最後に古典主義は建物類型の一貫性を意味し、それゆえ設計の経済性と生産効率のよさを意味した。このことはまた、英雄時代の個人主義が都市スケールにおける制御を要請される全体作品のディシプリンにとって代られたことを意味した」(19-20頁)。著者はこうしたことに加え実は博覧会自体がキッチュであり、大衆娯楽であったという視点も示唆する。「これはまたあたかも恒久建築に見えるかのように仮設建築を造るための選択でもあった。この手続きを選んだことはシカゴのはっきりしたビジネス感覚を明らかにしている」「この原理はできるだけ多くの建物をできるだけコストをかけずになおかつできるだけ記念的に見せるという建設法をとらせた。つまり恒久素材ではなくラスモルで造る建物である」「コロンビア万博は疑いなくキッチュである。しかしこれがその後の20年という最も重要な時期にアメリカの都市デザインに影響を与えたのだった」(20頁)。

ここで付言すれば、これは都市計画だけでなく、ニューヨークのコニーアイランドの先行者でもあろう。展示内容については「1889年のパリ博と同じく中東世界からは当地の典型的な街並みが再現され」「さらにミッドウェイ広場では蠍喰いや蛇使いがニューヨークからのポップコーン販売機と並び、この販売機は10万ドルを稼いだ。チューインガム・セラーも同じくらい稼いだ」、「旧世界からは古拙的でおとぎ話のような雰囲気を驚きや恐怖で掻き立てるような展示が、新世界からはこれとは異なる仕方で訪れる人を驚かせるもの、つまり新世界の新テクノロジーへの称賛という展示がなされた。これはフェリス・ホイールで頂点に達する」(31頁)といった感じである。

展覧会の会場計画と建築設計については、まずコッドマンによって「ヴェニス」をモデルとして計画され、リチャード・モリス・ハントが最も重要な建物を手掛け、さらにMMWも重要な建物を手掛け、サリヴァンらが脇に追いやられたのは実はこの時期、アドラー+サリヴァン事務所はジ・オーディトリアムの工事を巡ってトラブルのさなかにあったからだという(24頁)。またそのサリヴァンが手掛けた交通館にフランス装飾芸術連盟からゴールドメダルが贈られたのは、その正面装飾を評価してのことであって、マンフォードのサリヴァン評価、つまり「機能」によるものではなかったことも、確認される。さらに、フランク・ロイド・ライトはまさにこの建物の担当者であったが、ライトがこの博覧会において日本に衝撃を受けたことはよく知られていよう。

博覧会が行われた1893年は経済恐慌の年であった。翌年には有名なプルマン・ストライキが起きている。これは鎮圧に陸軍を要したほどのものであった。「この状況において共和党が掲げる反インフレと安定化の政策が好感をもたれ、また人気を博し始めた。とりわけ悲惨な状況に置かれた大量の移民を前にしてはそうだった。新しい組織的秩序の必要を説いてきた者たちは共和党の勝利によって、当然有利な位置につくことになった。バーナムはこの分野におけるこのグループの一人である」(48頁)。

シカゴ万博はデザインにおいてもコンセプトにおいてもそのままシティ・ビューティフル運動へとスライドしていく。バーナムはまさにそのまま新時代の立役者となっていったのだった。

「シティ・ビューティフル」という考えについて、「この点でシティ・ビューティフル運動は都市計画全体と同義ではなく、むしろ特定の計画方法に等しい。私の考えではそれも、当時にあって実践に移せるただ一つの方法であった。ホワイト・シティとシティ・ビューティフル運動を同一視することは、古典主義の肯定というより統御され設計された都市計画と見ることにおいて意味がある」「この状況はこの時代のアメリカ人にとって、とりわけバーナムにとってリアルなシティ・ビューティフルとはパリだったと認めるなら、より明らかとなる。それもナポレオン1世と3世のパリであり、バーナムはその地図を絶えず机のそばに置いていた」(52頁)。

帝国の都市計画が帝政期の都市計画をモデルとしていたとみる点で、この視点はマンフォードの視点をなぞっていると言える。ここでは都市計画についてみていくことが主眼ではないので、ざっと見る。シカゴに対し、バーナムらはジャクソン・パークだけでなく、メトロポリタン・エリアの計画を提示している。それはパテやオスマンのパリ計画のように放射状街路を用いたものである。さらにワシントンD.C.の計画も手掛けている。驚くべきことに、ランファンの18世紀の計画は20世紀初頭になっても進んでおらず、バーナムらがそれを引き継いでいる。さらにウィリアム・タフトに要請されてマニラ計画を手掛け、また国内ではサンフランシスコ地震後のサンフランシスコ計画を手掛けている。いずれもバロック的な放射性街路を基本としたものである。この計画に前後して1907年から合衆国は再度不況期に突入し、景気浮揚の方策として各都市で都市計画の話が持ち上がってきたという。

1909年にはワシントンD.C.で都市計画会議が開かれ、翌年にはロンドンでRIBA主催で都市計画会議が開かれている。そしてこの会議は都市計画における世代交代を示すものだったという。パトリック・ゲデスやエベネザー・ハワードに影響されたガーデン・シティ派とバーナム達のホワイト・シティ派という構図もさることながら、目覚ましい勢いを見せたのはドイツからの発表で、フランスやイギリスの計画をマスターして凌駕したかのような自信ぶりだったという。

論文の掉尾はタイタニック号沈没で締めくくられる。もちろんバーナムらの計画をタイタニックになぞらえている。そのしばらくのちバーナム自身、ヨーロッパで客死する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »