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2014年2月

2014年2月13日 (木)

Thomas J. Schlereth, H.H.Richardson`s Influence in Chicago`s Midwest, 1872-1914, The Spirit of H.H.Richardson on the

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シカゴ大火後から第一次大戦前までのシカゴにおけるリチャードソンの影響について述べた論文。リチャードソニアン・ロマネスクに影響されたシカゴの建築家としてルート、サリヴァン、トリート・アンド・フォルツ、ヘンリー・コブ、それにビーマンが挙げられている。1880-90年代を世紀末アメリカ(fin de ciel America)と仮に呼ぶとし、かつここがデザイン的にも転換点だったとして、その基調はリチャードソニアン・ロマネスクであったと言える。ちなみにゴシックの上昇性や非・物質性/精神性とは対照的にデザインとしてのロマネスクは水平的、物質的と述べ得る。シカゴに建設されたリチャードソン自身の設計になる建物は、アメリカ商工組合エクスプレス・カンパニー・ビル(1872-73)、ザ・マーシャル・フィールド卸売店(1885-87)、J.J.グレスナー邸(1885-87)の3つである。ただし最初のアメリカ商工会ビルはリチャードソン自身にとっても初期の作品で、まだいわゆるリチャードソニアン・ロマネスクというわけではない。

この論文の冒頭で引かれる「私がデザインしたいものは穀物サイロや大型蒸気船のインテリアである」というリチャードソン自身の言葉は、Marcus Whiffen and Frederick Koeper, American Architecture,1607-1976, The MIT Press, 1981, 227頁からの引用。

メモ

「リチャードソンのシカゴでの作品にはいくつかの特徴がある。第一に都市的である。南北戦争後の商業/社会的地区に明確な建築形態が必要と認識していたビルダーの仕事でもある。第二に石造である。リチャードソンの自然素材や幾何学的シンメトリーへの傾倒に典型的な自然石の耐力壁構造で、直方体的である。第三に、リチャードソンを中西部へ送ったクライアントはこの建築家同様、東部と関係があった。ニューイングランド出身のマーシャル・フィールド、彼はマサチューセッツ州コンウェイで店番をすることから経歴を始めた。J.J.グレスナーはニューハンプシャーに夏の家があった。彼らは東部の人材を介してリチャードソンを知った」(46頁)

『インランド・アーキテクト』と並んで『ウェスタン・アーキテクト』、(47)

「(マーシャル・フィールド・ホールセールストアは)スケールにおいて巨大であり、文字通り画期的な構造体として登場した。1880年代半ばのシカゴに典型的な街路の光景に対し、サリヴァンの評価では、数多くの熱にうかれたまやかし物の中にオアシスのように登場した。他のものはそれほど詩的な表現をとっていない。「宮殿のように広大」、「キュプクロスのように巨大」、「マンモスのように巨大」、といった表現が一般に使われた。ルイス・マンフォードが彼を「巨人」と呼んだようにこの個人商店はサイズにおいてこの街のどこにもないほどであった。シカゴの建築家はリチャードソンを歓迎した、というのもそれは街の一部のように見えたからである。ただマーシャル・フィールドの名前だけがそれを特定したが、建物はそれ自身のみ語った。ジョン・エーデルマンはこれを「商売のいかめしい要塞である、巨大な四角い箱で光を採り入れるための直角の開口を持ち、マッシヴでシンプルでブルータルでナイーヴで、その内向的性格のこれが真の表現である」と呼び、このことを認識していた。」(47-48頁)

「その後40年、マーシャル・フィールドの中心店をしょっちゅう訪れる中西部の何千というビジネスマンが同じように考えたと想像するのは理に適っている。オゴールマンが記したように「それは即物的な空間であり、短い時間で購入者が効率よく購入できるよう効率的に配されていた。彼は夜行列車でシカゴに行き、近くの駅で降車し、店に入るとゼネラルセールスマンに会ってクレジットを立て、各売り場をまわり、小奇麗にかつシンプルに飾られたウェアを見つけ、選択をし、自分のビジネス地に送るよう手配し、その日の夕刻にはホームタウンに帰っていく。中西部の典型的な町民がリチャードソンの男性的な建物とフィールド社の卸売部門で見たものの直接的な関係を追うことは無理だが、しかし少なくともシカゴへの旅行者のある部分はアメリカの石を荒々しくカットしたモニュメンタルな性質を、自分のホームタウンに文明的で文化的で都会の商業的な壮麗さとして身の丈に合った形で持ち込もうとしたことはあり得ることである。リチャードソンのマッシヴなモニュメントはしかなしながら、変化の激しい経済に生き残ることができず、1930年代にフィールド社が卸売事業から撤退する時に取り壊された」(48)

「とりわけジ・オーディトリアム・ビルは直接的でよく分かる形である。サリヴァンはリチャードソンのプロジェクトを研究し、意識的にオーディトリアムのオリジナルのファサードを、フィールド・ビルを心に描きながら変更した」

「(リチャードソンとルートには)共通点がある。二人とも南部出身で留学歴があり、そして東部と関係があった。ともに熱心に働き、速く働き、最後には建築だけのために短い生涯を終えた。ともにその最初の評伝は女性が書いた(リチャードソンの場合はヴァン・レンセラーということか、とともにライトが自伝を出版したのはサリヴァンを意識してのことで、サリヴァンが自伝を出版したのは、リチャードソンとルートの評伝を念頭においてのことであったのか)」(53頁)。

「トーマス・トールマッジはバーナム+ルートがシカゴにあけるロマネスク・リヴァイヴァルの到達点であると考えた。これはモンゴメリー・スカイラーも同意している。ルートの証券取引所、ザ・ルーカリー、フェニックス・ビルにおける軽やかな表現と、リチャードソンの重々しい石造を比較している」

「ザ・モナドノック同様、ザ・ルーカリーはスタディが重ねられている。その二重構造工法、内部の光庭、鮮やかな中心ロビー」「同時代人には正確な分類を拒ませるもので、ムーア風とか、インド風(Indian)とか、インド風(Indic)とかロマネスクとか言われた。だがこの建物はルート独特のタッチを持っている」(55)

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2014年2月10日 (月)

Mariana Griswold Van Rensselaer, Henry Hobson Richardson and His Works, Dover Publications, Inc., New York, 1969

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ウィリアム・モーガンの序文によれば初版はリチャードソン没後2年の1888年であり、これはリチャードソンの評伝の最も古いもので、1936年に出版されたヘンリー・ラッセル・ヒッチコックによるThe Architecture of H.H. Richardson and His Times も本書に謝辞を表しているという。

著者のヴァン・レンスラー夫人は「ヴィクトリア朝時代の独特な夫人として、建築批評家として特筆される。1851年生まれで個人教師とヨーロッパ旅行で教育され、1884年の夫君の死後、建築・美術批評家となった。読書家で高い知性の持主であり、建築以外にも絵画、園芸、詩、歴史について著作や記事を書いた。このなかには『アメリカの人物画家と版画家』(1886)、『6枚の肖像画』(1889)、『英国の聖堂』(1887)があり、最後のものは英国ゴシック建築について米国人の興味の更新におそらく役立った。だが最も知られているのは『17世紀のニューヨーク』(1909)である」(V)とある。1851年生まれということは1838年生まれのリチャードソンの13歳年少ということになる。

また本書とヒッチコックの書のあいだにマンフォードの『褐色の三十年』があり、その後にジェームズ・オゴールマンらの著作がある。いずれにせよ本書がリチャードソンについてのまとまった評伝あるいは記述としては最も古いと見ていい。

マーシャルフィールド・ビルについて、メモ

「シカゴ型建物の性質として繰り返される類型への彼自身の判断は18854月にマーシャル・フィールド氏に依頼されたものである。構造へのある考え、主要なある特質、が(エイムズ・ビルと)二つに共通している。しかしその扱いはおおいに異なっている。そしてその効果も表現もまったく似ても似つかない。

二つとも主要構造物の考えは同じだが、フィールド・ビルではより大胆かつシンプルに用いられ、大円形アーチには複数層が含まれている。これはリチャードソン独特というわけではないが・・彼の影響だけという訳では決してない・・この目的のために有能な建築家に多く採用されたものである。下層部分の単調さや数えきれないほどの小窓をこれは救っている。これはこの高さの建物にふさわしいスケールを与える。これは過度に水平線を強調することなく、目を水平方向に導くのである。」

「パラディオが装飾の付加で行ったことをわれわれは構造の方法で行う。さらに彼の作品では表層的な美が大きかったが、われわれのものでは真に建築的な優越としてある。われわれのものは表面上だけでなく、構造それ自身であり、窓の範囲は互いに統合化され、かつ一つ一つは重いマリオンや桟によってはっきりさせられている。

フィールド・ビルは区画まるまる中に置かれた巨大な長方形の箱である。敷地は325フィート×190フィート、そしてまるまる125フィートの高さまで建ち上がる。屋根は見えず、入口は目だたず、装飾はわずかしか用いられない。全体効果は壁の構造そのものに拠っている。これほどその目的を正直に表現した建物はなく装飾の使用を否定した建物もない。しかし周到に配され、多様化され、装飾された構造はこれ以上のデザインはないというほどである。そしてその量塊性の第一の特質は立面と一致し、その容積と一致した威厳はこれ以上の美は必要ないというほどである。素材は色においてもよい・・上部の赤砂岩、下部のミズーリ産の赤花崗岩。この二つの色調は微妙に異なり、仕上げも上部では磨き、下部では岩肌仕上となっている。寡黙な彫刻装飾のディテールはありがちな厳格さに抗っており、注意深く技量に秀でた芸術家たちの手の痕跡は構造壁のいたるところの装飾に見られ、これは表面全体を面白くしている。角度の美しい断面、軽重交互に配された付柱の窓の単調さを和らげている。つまるところこの巨大で平滑な建物は最も詳細に注意深くスタディされ、コンポジションの教科書でもあるのである」(97頁)。

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2014年2月 1日 (土)

渡辺俊一、『「都市計画」の誕生、国際比較からみた日本近代都市計画』、柏書房、1993

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これもかつて読んだものから、メモ

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、西欧・北米諸国では、突如として従来とまったく異なるスタイルの都市計画が現れた。

 世界でもっとも早く産業革命を経験したこれら諸国では、その結果として、急速な工業化・都市化に見舞われ、深刻な都市問題が発生した。それに対処するため、都市の物的構造や物的環境を公共の手によって、総体的にコントロールしようとする社会的技術が生まれた。「市街地の総体的コントロール」、これが欧米近代都市計画である」

「これに比べると、フランス第二帝政下、ジョルジュ・オースマン(Georges Haussmann)によって進められたパリ改造事業は、19世紀中葉の偉業ではあるが、工業大都市の課題以前の、都市内部における改造事業であり、欧米近代都市計画からみるとその「前史」としての性格が濃厚である」(8)

「一般に一国の都市計画の「個性」は、その成立期における当該社会の状況によって決定的な刻印を帯びる、と考えられるからである。筆者はこのような仮説を「成立期テーゼ」と呼んでいる。

仮にそうだとして、なぜその出発点を明治期の市区改正ではなく、大正期の旧法におくのか。その答えは、第一に時期的に、欧米近代都市計画の本格的伝播という文脈でみると、市区改正はそれ以前の時期にあたるからである。第二に、内容的に、市区改正が範を求めたオースマンのパリ改造事業は、上述のとおり、欧米近代都市計画の中心課題としての、工業大都市における郊外新市街地の計画的開発ではなく、既成市街地の改造であったという点である」(11頁)。

「プロシアでは、街路線・建設線法(1875)による建築線の制度化、シュテューベン(Joseph Stuben)のStadtbauplan提案(1885年)によるマスタープラン概念の形成、フランクフルト市の段階的建築規制(Staffelbauordnungen,1891年)による地域性の出現、アディケス法(1902)による区画整理・地帯収容の制度化など、各種の計画手法が次々に開発されていった」

1909年、イギリス最初の都市計画法が制定された。これが「1909年住宅・都市計画等法(Housing,Town Planning, Etc. Act(以下、「1909年法」という)である」。

「イギリス田園都市論はドイツ中世都市のイメージを範としており、またアメリカの都市美運動はオースマンのパリに強く影響されている。さらに、イギリス郊外住宅地の低密度開発は、プロシアの段階的建築規制の形成に影響を与えたが、ニューヨーク市の地域条例は、まさにこの段階的建築規制を手本として作成されたのである」(30-31頁)。

「このようななかで、1909年法のスタートを祝うためロンドン「都市計画」会議(以下「ロンドン会議」という)が開催された。じつはイギリスでは、この都市計画という新分野での主導権をめぐって、既存プロフェッションである建築家・土木技師・サーベイヤー等の間で争いがあった。ロンドン会議はこの争いにおける建築家側の勝利を示すものであり、その組織と規模は目をみはらせるものであった」(63)

「これは、もはや啓蒙の段階をすぎて、法制化の段階へとはいったイギリス都市計画としては当然のことであった。またアメリカにおいても、1910年前後は「都市美運動(City Beautiful Movement)」がそろそろ峠をこえて、都市計画の基本原理が当初の「美観の都市」から「効率の都市」へと移りつつある時期でもあった。都市計画は、市民運動から自治体の行政サービスへと性格を変えつつあったのである。

つまりロンドン会議は、形成途上の近代欧米都市計画が、建築的な設計技術から都市経営的な社会的技術へと移行しつつある転換期に開催されたのである」(67)

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