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2014年3月

2014年3月30日 (日)

V・スカーリー『近代建築』長尾重武訳、鹿島出版会、1986

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引き続き学生時代に読んだものの再読、教科書的記述の確認。

原書の初版は1957年で、その元となった講話のタイトルは「近代建築・様式の再規定に向けて」であったと、序文にはある。つまり、1950年代末になっても「様式」が大きなアジェンダであったことを窺わせる。

ところでヴェネツィア派による『ジ・アメリカン・シティ』の序文では、ルイス・マンフォードとヴィンセント・スカーリーに一目置く記述があったが、あえて単純化すれば、戦前のフランク・ロイド・ライトとルイス・マンフォードの線から、戦後のルイ・カーンとヴィンセント・スカーリーの線へと整理できなくもないかもしれない。その後の線はと言えば、ピーター・アイゼンマンとケネス・フランプトンの線となるのだろうか。

さて、当然と言うべきなのか、米国建築について、比較的頁が割かれている。

メモ

「アメリカにいるヨーロッパ人は、決してその大陸にしっかり定着していると感じたことがないのはあきらかである。彼はヨーロッパの風景という閉じた庭園を彼の背後にのこしてきたのだ。そして彼の新しい自然環境は、いっそう広々としており、はるかに肥沃で、しかも彼がこれまで知っていたいかなるものに比べても、とりわけ無境界であった。アメリカ人は、それゆえ、近代の連続的な流動を経験した最初のヨーロッパ人であり、クーパーやメルヴィルからホイットマンやトウェーンへと至るアメリカ文学の最も顕著な特質は故郷喪失、移動、連続的な流動という名高いイメージであった。それらのイメージは一九世紀中葉までに浸透したものである。東部と西部を結びつけた金の犬くぎが鉄道の枕木に打たれる直前を襲った、最もポピュラーな印刷物は、アメリカの土地の広さの感覚や、その上での人間の営みの非永久性の感覚、そしてその上を横切るホイットマンの「オープン・ロード」と呼ばれる感覚を示している」(35頁)。

「永久性と安全性に対する等しく本来的で変わりなく増大する願望を抱いて連邦への連続性をめざす、本来的なアメリカ人の本能を最初に引き出した人こそ、ヘンリー・ホブソン・リチャードソンであった。彼のワッツ・シャーマン邸(一八七四年)は、その世紀の中葉に行われていた骨格の表現をすっかり除去したものである」(36頁)。

「リチャードソンのマーシャル・フィールド・ウェアハウス(一八八五-八七)はこれらの特質を最もよく表したものだ。それはルネサンスのパラッツォの権威あるたたずまいを思わせるが、そのアーチは垂直的に上方へと広がり、一方、水平的なスパンドレルがアーチの背後をぴったりとすべっていき、その結果、全表面は、それが包含している広々としたオープン・スペースの圧力によって広がっている。

ルイス・サリヴァンはマーシャル・フィールド・ウェアハウスの特質に注目して、次のように人類学的な言葉で記述している。「ここにあなたが見るべき人がいる。四本の足のかわりに二本の足で歩き、活動的な筋肉をもちい、生活し、呼吸する・・貧弱で小さな世界における一人の男・・」。そののち、サリヴァンは、この建物を、彼自身のデザインに根本的なインスピレーションとして用いたのである。彼はウォーカー・ウェアハウス(一八八八-八九)で、アーチを上階全体に広げ、スパンドレルをいくぶん奥まったところにおいている。その結果、外観は、はりつめたスクリーンというよりはむしろ分節的で三次元的な部材によるひだとなった。サリヴァンの最初の偉大な摩天楼であるウェインライト・ビル(一八九○-九一)においては、石材のエレメントは単に鋼鉄の骨組を覆ったものにすぎないのだが、彼はリチャードソンのアーチを放棄し、垂直ピアを二重にし、そしてピアやスパンドレルのすべてのひだが、基礎、上階、および隅面によって生み出される枠組の中に挿入されたものである。他のすべてのピアは構造上のコラムを内蔵していないということ、そしてそれゆえサリヴァンは意識的に建物の垂直性および彫塑的な密度の両者を強調し、また、「シカゴ」窓を特徴とする他のシカゴ派建築家が、皆熱中していた構造的なベイの表現をとらなかったという事実は記憶されるべきことである。サリヴァンの意図は、彼らの意図よりはるかに複雑であり、人間的であった。彼にとって、機能に「従った」形態は開放的な鋼製鳥かごの形態ではなく、直立するということを含んだ、フィジカルな力をもった形態であった。結局、ギャランティ・ビル(一八九五)はすべてのエレメントを一堂にあつめたものである」(39-43頁)。

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2014年3月29日 (土)

H-R.ヒッチコック+P.ジョンソン『インターナショナル・スタイル』武澤秀一訳、鹿島出版会、1978

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これも学生時代に読んだものの再読と確認。

あらためて序文によれば、最初の展会カタログにおける「スタイル」という表題は大文字のスタイルであった、とある。これは序文で強調される著者達の主張、つまり19世紀とは雑多な主義(それが歴史様式をともなった)の時代であったのに対し、20世紀的な「スタイル」を置くということでもあったのだろう。この考えはチェコ・アヴァンギャルドとも近い( http://d.hatena.ne.jp/madhutter/20090506 )。

「ユーゲントシュティル」や「デ・シュティル」のようにその名にわざわざ冠したものも少なくないように、「様式」概念は19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も議論された概念だったかもしれない。ただこの展覧会とそのカタログの「様式」概念がヨーロッパにおける議論だけを前提としたものであったかどうか。

「様式」もそうだが、ここで取り上げられている主題である「機能」や「装飾」なども実は『ジ・インランド・アーキテクト』誌における重要なアジェンダであった。おそらくその流れもあったろうし、そのあいだを介在するものとしてルイス・マンフォードやフランク・ロイド・ライトもあったはずであり、展覧会自体も実はライトがヨーロッパからの建築家と対比的に展示されることで、かえってライトが強調されるようになっていたとみることもできる。

メモ

19世紀においてはつねに、単一の様式というものはなく「諸様式」があった。「諸様式」の観念はひとつの選択を意味していた。最初の近代建築家たちによる個人的反抗は「諸様式」の威信を失墜させたが、それは意匠上の二つの美学的概念のうちのどちらかを選ぶという可能性の示唆を除去するものではなかった。これらの建築家たちは復興主義に対抗して、むしろ可能性の自由の多様性こそを探索しようとしたのである。その結果は概して、存命中の折衷主義による混乱にさらに輪をかけることになった。もっとも、新しい作品は先の復興主義者たちがまったく喪失してしまっていた広汎な生命力をもっていたのであるが」(26-27頁)。

「過去の偉大な諸様式の表面を模倣することなく、本質においてそれらと競うことが可能となったゆえに、ひとつの支配的様式、19世紀はそれにかえて諸様式の復興に身を委ねてしまった、を確立するという課題が解決の糸口となるのである」(27頁)。

序文で提示されたインターナショナル・スタイルの3つの特徴は「様式」の章でも繰り返される。

続く「歴史」の章でシカゴの建築家がおおきく扱われているのは、1932年の米国では新古典主義が主流であったことを鑑みるなら、やはりマンフォードらを介して歴史を見ているのではないだろうか。逆に、インターナショナル・スタイルは構造的にはゴシック的であり、美学的には古典主義的であるという説明などは、後期アメリカン・アメリカン・ルネサンスにおける新古典主義的な美学の何がしかの反映もあったかもしれない。

メモを続ける。

「しかしながら、新様式が最初に約束され、大戦にいたるまでもっとも速く進んでいたのはアメリカであった。70年代および80年代におけるリチャードソンは、デザインの単純化と構造の直接的表現において、ヨーロッパ大陸の次の世代と同じくらいの地点まで進むことがしばしばあった。彼に続いてルートとサリヴァンは、後続の世代によって部分的には修正されたものの本質的な変更を受けなかったいくつかの原理を、鉄の摩天楼の構造から導き出した。80年代および90年代のシカゴにおける彼らの作品は、依然としてあまりに知られていない」(34頁)。

「しかしながら、前世代の建築家たちのなかでライトが他の誰よりも大きな貢献をしたことは否定できない」(35頁)。

そして有名なインターナショナル・スタイルの第一原理としての「ヴォリュームとしての建築」という概念、いわずもがなこれは向井/マンフォードの「ヴォリューム/マッス」の概念と同じものでもあるが、本書の当該章の冒頭ではシカゴ構法についての記述で始まっていることにあらためて目がいく。

メモを続ける。

「現代の建設方式は籠、つまり支持体を現出させる。建物が外壁に囲われる前に現れるこの骨組は、誰の眼にも馴染み深い。支持体が金属であろうと鉄筋コンクリートであろうと、それは遠くから見た眼には垂直線と水平線からなる格子に映る。気象からの保護のために、この骨組はなんらかの方法によって壁で囲われる必要がある。伝統的な組積造においては、壁はそれ自体で支持体であった。いまや壁は、支持体の間にスクリーンのように嵌め込まれ、あるいはそれらの外側で貝殻のように支持される、単なる従属的要素となった。このようにして建物は、その内側には強い支持体をもち、外側には連続的な被覆をもつ船か傘のようなものとなった。過去の建物においては、支持と保護という二つの役割は、ともに同一の壁体が担っていた。耐力壁の部分が骨組構造と組み合わされることが依然として時折あるのも事実である」(50頁)。

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2014年3月28日 (金)

Robert Prestiano, The Inland Architect, Chicago`s Major Architectural Journal, 1883-1908, UMI Research Press, 1973

Inland

伝説の建築雑誌についての書である。たとえば向井正也の『モダニズムの建築』において「その直接の契機ともいうべき1893年シカゴ万博におけるシカゴ派の敗退とその運動の挫折・・」といわれる場合、具体的にはこれはどういうことかと述べれば、シカゴ有機的機能主義が終わって新古典主義の台頭云々と、まずは言える。しかしながらさらに具体的にはどういうことなのかと述べれば、ひとつには職能団体の、そしてもう一つが専門ジャーナルのあり方として、これはあったとさしあたり言えるであろう。

19世紀後半、米国にはすでにアメリカ建築家協会(AIA)が存在した。AIAに長く君臨したリチャード・モリス・ハントがそうであったように、これはニューヨーク(東部)を中心とし、かつボザール帰りの建築家を中心として成立していた。シカゴにもAIAイリノイ支部があったが、実はもうひとつイリノイ建築家協会が存在し、サリヴァンはこの協会の書記であったという。シカゴ万博の準備委員会でサリヴァンが書記を務めたのはそのままスライドしたということなのであろう。

そして、もうひとつが専門ジャーナルである。本書はシカゴ派を支えた『ジ・インランド・アーキテクト』誌について簡潔にまとめたのである。『ジ・インランド・アーキテクト』誌について、「職能を組織し、理論を広め、技術を共有する」ことをその是としたと述べられているが、これは近代・建築ジャーナルの原点であるとともに、また独特の視点であったかもしれない。というのも、ボザールであればジャーナルというより「官報」的であったかもしれず、自由放任経済のなかでその職能のあり方とその建築のあり方を模索していたシカゴの建築家たちの、よって立つあり方の表明であったかもしれないからである。

『ジ・インランド・アーキテクツ』誌は1883年2月号に始まり、1908年12月号で終刊したという。その初期はジェニーのホームインシュアランス・ビルが設計された時期に重なり、つまりシカゴ構法の始まりと重なり、後期はプレーリー・スクールの住宅の喧伝期に重なっていたという。

第1章はこの雑誌の名編集者であったロバート・クレイク・マクリーン(1854-1933)について割かれている。マクリーンの両親はスコットランドからの移民で少年時代は薬剤師を目指し、キャラ的には気さくで、オンタリオで先住民とブラッド・ブラザーズとなったとある。のちにシカゴにやってきてシカゴ・スケッチ倶楽部に入ったことがシカゴの建築家達との馴れ初めだったという。1905年にミネアポリスで発行されていた『ザ・ウェスタン・アーキテクト』誌編集部に彼は移っていくこととなり、これが同誌が『ジ・インランド・アーキテクト』誌の姉妹誌といわれる所以でもある。当時の米国の主な建築雑誌には他にAIAの建築家を中心とした『ジ・アメリカン・アーキテクト』誌(1876年創刊、今日の『ジ・アーキテクチュラル・レコード』誌の前身)があった。ただしマクリーンは広いアプローチの必要を強調しており、『ジ・インランド・アーキテクト』の動機が地域的なものと捉えられるのを懸念していた。東部の建築家にも参加を強く呼びかけていた」(10頁)という。

この雑誌の誌面で議論された主なものとして「有機的機能主義」や「有機主義(的建築)」、「装飾」、「ヴァナキュラー」、「コマーシャル」、それに「様式」があったという。1887年にはイリノイ建築家協会のミーティングが4回開催され、これらについて集中して議論されたという(107頁)。

有機的機能主義はまさに創刊号においてジェニーの論文において提起されたとある。やはりこの方向を付けたのはジェニーであったと思わせる。「建築とはその最良の定義において、装飾的であるとともに装飾された構造である。つまり構造それ自身が装飾的であるよう配された構造でなければならない。プロポーションは心地よく、開口と壁はそれぞれの目的を明快に示すようその効果を示すよう処理されねばならず、そしてその目的はユースフルでなければならない」(51頁での引用)が、その機能主義の定義であったという。またここに著者はジェームズ・ファーガソンとアンリ・ラブルーストの影響を見て取っている。これに続く議論を誌上において展開していくのが、サリヴァンやルートらである。

20世紀の機能主義が機械を喧伝し、つまりいわば無機的機能主義を喧伝し始めたのは第一次大戦における機械の圧倒的な力を見たことが契機であったことはよく知られている。そのいわば前史である19世紀の有機的な機能主義という考えあるいは理想形は、当時の生物論やハーバート・スペンサーらの考えともある程度関係しているのではないだろうか。「有機的建築」という言葉は1863年にチェザール・ダリーが初めて使用したという(117頁)。

そして「この雑誌の有機的理想形の表現の最も中心となったものが「様式」概念である。事実、『ジ・インランド・アーキテクト』誌で最も広く議論されたトピックが様式の意味だったのである」(121頁)。

「様式の意味について最も集中した議論、これは進化論的な概念を強調したが、1887年のあの会合のうち、最初の時で、ジョン・ルートが先導した。彼は様式を社会の基本的条件から進化してくる形式と理解した」(122頁)、「ルートは様式を抽象的意味で単に進化論的過程とみただけでなく、歴史様式を含む同時代状況からの進化とも見ていた。言い換えるから、様式進化は、ルートにとって進歩的(革新的)あるいは創造的なエクレクティシズムなものと理解された」(123頁)。サリヴァンにとっては「むしろ主観的な「周囲に対する有機的応答」であった。サリヴァンの様式理解は本能的なものであり、決して明快に定義できないものである」(125頁)。

ジェニーは「様式は先行者から進化してくるもので、人種や伝統や宗教や利用可能な素材や文明の要請に影響されるもの、つまり動物学者が「環境」と呼ぶものに影響されるものである」と述べている(126頁)。

ボウマンにとって道しるべはやはりゼンパーであった。1897年にボウマンはゼンパーを引用してこう述べている。「建築作品の人類の博物史への関係は、下等生物が成立している貝殻や珊瑚への関係と同じである。様式とは、建築作品と、その出自の歴史および、そのうえたまたまの条件とか状況との一致のことである」(127頁)。

1897年1月号、ライトは「様式進化の基本」と題した論文において、様式進化への高まる欲望を示し、上述の考えの概略を示した」(128頁)。

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2014年3月27日 (木)

ケインズ、「自由放任の終焉」、『貨幣改革論、若き日の信条』、宮崎義一、中内恒夫訳、中央公論社、2005

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「自由放任(laissez-fair)」という考えについて述べた小論。 19世紀の「有機的建築」とか「有機的機能主義」という概念がハーバート・スペンサー流の有機主義や生物論と関連していたことが言われ、かつそれが自由放任経済のなかで具体化していった一方、自由放任という考えもスペンサーと近い部分があった。 

ところで第一次大戦後に著されたこの小論で意外というべきなのかどうか、「多くの場合、支配と組織の理想的な規模は、個人と近代国家の中間のどこかにある、と私は信じている。それゆえに、国家の枠内に「半自治的組織」の成長を図り、その存在を容認することこそ進歩である、と私は考えたい」(77頁)とか、「私の提案は、分権的自治という中世的概念への復帰であるとも言えよう」(78頁)という記述からして、著者の基本的な考えは地域主義や中世主義に近かったのだろうか。

メモ

 「経済学者たちは、富、商業、機会は自由競争の賜物であり、自由競争がロンドンを築き上げたと教えた。しかし、ダーウィン主義者は、一歩進んで、自由競争が人間を造ったと説いた。もはや人間の眼というものも、奇跡的にすべてのものに最善の結果をもたらすよう仕組まれた神慮の現われではなく、むしろ、それは、自由競争と自由放任の条件のもとにおいて作用する偶然のもたらした最高の果にほかならない。適者生存の原理は、リカード経済学を広く一般化したものと考えてもよいだろう」(51頁)。

 「自由放任という言葉が、イギリスで最初に人口に膾炙したのは、フランクリン博士の用いたあの有名な一節によるものであったと私は考える。われわれの祖父の代に知られていたように、功利主義哲学に用いられていたように、功利主義哲学に用いられていた形で自由放任の法則が発見されたのは、じつはわれわれが、経済学者ではなかったベンサムの後期の著作に接したあとのことであった。たとえば、ベンサムは『政治経済学要綱』のなかで次のように述べている。「一般原則としては、政府は何事もしてはならないし、企てることもしてはならない。このような場合の政府の守るべきモットーないし標語は、お静かにということである。農業、製造業者、商業が政府に対して望むことは、あたかも、ディオゲネスがアレキサンダーに対して、私の日光をさえぎらないでください、と望んだのと同じくらい、穏当で理にかなったものである」

 この時以来、自由貿易のための政治運動、いわゆるマンチェスター学派の影響とベンサム流の功利主義者の影響、二流の経済学者の発言、マーティノー女史とマーセット夫人の啓蒙書などが相まって、正統派政治経済学の実践的結論として自由放任思想を一般の人々の心に定着させたのである。もっとも、この間に、マルサス的人口論が正統派政治経済学の思想によって受け入れられることにもなったため、十八世紀後半の楽観的な自由放任論は、十九世紀前半の悲観的な自由放任論にとって代えられるという、大きな相違が見られたが」(58-59頁)。

 「ケアンズは、彼が、一八七○年、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジで行った『政治経済学と自由放任』の序講において、正統派経済学者として、おそらく初めて、自由放任一般を正面から攻撃した。彼は、「自由放任の格率は、何ら科学的根拠をもっていない。それは、せいぜい、単なる実践のための便利な原則にすぎない」と断言している。この格率こそは、過去、五十年もの間、すべての指導的経済学者の見解であった」(62頁)。

 イギリスにおいて自由放任が主要原理であったのは1820年から70年の約半世紀であったということか。  

「すでに簡単に触れたように、経済上の自由放任論とダーウィン主義との間に見られる類似性は、ハーバート・スペンサーが真っ先に認めたように、事実、非常に密接なものである。ダーウィンが、効果的であると同時に望ましい線に沿って進化をおようし進めるものとして、競争によう自然淘汰と並んで、その補助として雌雄淘汰の過程で作用する性愛sexual loveに訴えたのと同様に、交換価値で測って最も望まれるものについて、可能なかぎり大規模な生産を実現するために個人主義者が訴えたのは、自然淘汰の補助として、利潤追求の過程で作用する貨幣愛love of moneyであった。

 このような理論は、あまりにも美しく、あまりにも簡潔であるために、それが、現実の諸事実から導き出されたものではなく、単純化のためにとり入れられた仮説から導き出されたものにすぎないことなど、往々にして忘れられがちである。その他の他のいくつもの反論には後に触れることにして別におくとしても、個人が自らの利益のために独立して行動すれば、富の総量を最大にできるという結論は、生産と消費の過程がけっして有機的に結びつくことはないとか、また、取引の条件に関する予備知識を得るのに適当な機会が存在するかという内容の、一連の非現実的な想定に依拠しているのである」(70頁)。

 以上が小論の前半における自由放任の検証と批判からのメモ。後半は著者の提案が続いていく。

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