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2014年4月

2014年4月14日 (月)

佐々木宏、『「インターナショナル・スタイル」の研究』、相模書房、1995

 

Sasaki

 

 MoMA建築部門創設に合わせて開催された展覧会の名称はModern Architecture: International Exhibitionで、これのカタログとほぼ同時期に出版されたThe International Styleとは微妙にタイトルが異なっている。

 展覧会を企画立案し、実行を推進してきたのは「バァ、ヒッチコック、ジョンソン、マンフォード」であったという。実行委員会にはもちろん他にも含まれているが、中心となってやってきたのは上記4人ということなのだろう(89頁)。見落とされがちだが、ルイス・マンフォードもこの企画に深く関わっていたということである。

 著者によれば、カタログの「第3部は、ほとんどルイス・マンフォードの担当で「ハウジング」Housingと題する論文に続いて文献リストがあり」(107頁)、という。この第3部は『ジ・インターナショナル・スタイル』にはない。

 「この「第2部」では、模型展示を含めてかなり多くの作品が住宅関係であったことは重要な意味をもっている。それは、これまでしばしば指摘され、また論じられてきたことであるが、20世紀前半の建築デザインの新しい試みは、住宅をひとつの主題として追及してきたということである。この建築展の当事者は『カタログ』の論文の中で、この点についてはとくに強調していないが、その現象については十分に理解していたものと考えられる。したがって、第3部として「ハウジング」を設定したことは、決して唐突ではなかったのである。むしろ、この建築展を立案企画した当事者たちが、かなり高度の見解をもっていたことがうかがい知れる。

 しかし、展覧会の構成には十分な配慮を必要とした。それは「ハウジング」が社会的な側面をもつものだけに、当時のアメリカとしては、ヨーロッパのようなある種のイデオロギー的に基づいて進められている傾向を前面に出すことは危険であった。この側面では、できるだけカムフラージュされねばならなかった。アルフレッド・バァによる序文の中で、「ハウジング」の重要性を指摘しつつも歯切れの悪い表現になっていることに、それは反映している。この部門を担当したルイス・マンフォードは、この問題に関してかなり慎重だった」(173)頁。

 さて「ジ・インターナショナル・スタイル」の方である。これに先行するものとしてヴァルター・グロピウスの「インターナショナル・スタイル」について一通り解説がなされる。

「アメリカの歴史学者のピーター・ゲイによれば、グロピウスは「派」Schuleとか「様式」Stilという言葉を避けていたという」、それゆえ「「インターナショナル・スタイル」の「スタイル」について、グロピウスの影響ではなかったことは明らかである」(191頁)と言われる。一方では、デ・シュティルについて

「中心的リーダーのファン・ドゥースブルフが1921年に行った有名な講演は「様式の意思」というものであった。この「意思」というのは、明らかにリーグルの芸術意思の概念から援用したものである」、「「インターナショナル・スタイル」の命名者や著者たちは、「スタイル」という用語を「インターナショナル」に結合するうえで、前に記した書物の題名よりも、この「デ・スティール」に影響されたと推測することが可能である。しかたがって、かなり意図的な造語であったというこうことができよう」(192頁)。

 さて、「ジ・インターナショナル・スタイル」において「様式」と「ヴォリューム」が主要な概念であったとして、まず再び「インターナショナル・スタイル」について

 「この章はザロモン・ライナッハ著の『アポロ』という本から引用されたエピグラフで始まる」、と述べ、

 「ここではゴシック建築の構造システムが、19世紀になってから展開されている鉄骨および鉄筋コンクリートによる様式に類似した性格をもっていたことを述べている。このエピグラフに注目するのは、その内容の当否は別にして、ゴシック様式についての言及がなされていることである。美術史を学んだ者にとって、ゴシックというのはかつて「インターナショナル・スタイル」とよばれていたものであった。著者たちがこのことを承知していたことは当然であろう。先に、この『本』の標題の命名について検討したとき、「インターナショナル・スタイル」という言葉はグロピウスからの転用であると書いた。しかし、著者たちは、ゴシック様式がそのような名称を与えられていたのを知っていたのである。このエピグラフを大胆に冒頭にもってきたのは、知る人ぞ知るという、読者の教養を試す試みも織り込んでいたのであろう」(201頁)と述べている。

 一方、ヴォリューム概念について。

 「彼らが「空間」に気づいていなかったことが、ここで判明する。もしも「空間」という言葉を用いたならば、明確に説明できたであろう。彼らは、先に引用した文章の中で「ヴォリュームとは、非物質的、無重量的、そして幾何学的に境界づけられた空間として感じ取られるものである」と述べているので、空間を意識していたことは明らかである。しかし、その「空間」を概念として展開させることなく、「ヴォリューム」の方に拘泥していたため、このように説得力を欠く論述になってしまったものと推察される。

 彼らが、ヨーロッパにおける建築美学の中で展開されてきた「空間」についてどれほど認識していたか、この『本』では明らかではない。彼らが、この『本』で「お手本」にしたル・コルビュジエがVolumeを用いたのは、明らかにCubeに代わるものとしてであり、Cubismを意識した代替であった。おそらく、彼らはこの点に気づいていなかったのではなかろうか」、「著者たちは、このようにして「空間」概念を導入することなく「ヴォリューム」の理論づけを進めている。皮肉なことに、この『本』のドイツ語版では、章のタイトルが、「Ein erste Prinzip: Architektur als umschlossener Raum(包囲された空間としての建築)」となっていて、一種の「空間」概念と見なされている。続く文中では、Raum umschlossen とVolumeが混用されているのが注目される」(221頁)。

 

以上、メモ。

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2014年4月10日 (木)

David P.Handli, American Architecture, Thames and Hudson, 1985

American


 

かつて読んだはずのものの再読、教科書的記述の確認、と言っても、やはりヴィンセント・スカーリーその他の記述よりはまったく新しい、当然ではあるが。3章・美と産業の野獣、4章・新しい類型へ、5章・保守の根拠、に目を通す。

 エドワード・R.・デ・ザーコの『機能主義理論の系譜』では機能主義理論の先駆としてホレーショ・グリーノウが言われていたが、そのことはここでは明確に否定されている。つまり、

「建築の機能主義の歴史にはいろいろある。グリーノウの考えは18世紀ヴェネチアのカルノ・ロドーリの考えに似ている。グリーノウはフィレンツェ滞在時におそらくロドーリの仕事の解説を読んでいたであろう。そして1940年代にグリーノウの論文が再発見されると、彼はすぐさま近代建築の先行者のチャンピオンとなった。しかしながらマサチューセッツ州コンコード周辺に集っていた超越主義者のうち、彼に注意を払っていた者はほとんどいなかった」(72頁)。

 さらに続けて

 「グリーノウとは異なり、ほとんどの建築家は、建築の美は少なくとも部分的に機能とは独立していると信じていた」(72頁)。

 有機的機能主義とホレーショ・グリーノウはまったく関係ないと見ていい。

 建築とは直接関係ないが、ブルックリン橋を設計したジョン・レーベリングについて、

 「1806年にドイツに生まれ、ベルリンの王立工科学校を卒業し、1831年に米国にやってきた。彼は単なる技術者ではなかった。彼はヘーゲルの下で哲学を学んだことがあり、プロジェクトをつねに実務と理念の双方から見ていた。レーベリングにとって橋の設計は物の力学を単に理解することではなく、橋とはそれまで別箇の部分を連結することゆえ、人間の交通を容易にすることでもあり、彼にとってはそれは形而上学的なことでさえあった」(62-63頁)。

 レーベリングのブルックリン橋は、吊橋のある理念形を造ったともいえ、この形はその後、サンフランシスコの金門橋を経て、日本の瀬戸内沿岸地方に多く掛けられる吊橋の理念形となったとも言える。ただし、日本の吊橋にレーベリングのような理念や形而上学的な何かがあるかは大変疑問である。理念なき猿真似というべきか。

 南北戦争後の概略は、

 「金ぴか時代であり、一握りの億満長者の成金が臆面もなくその贅沢を見せびらかした一方で、多くの労働者がかつてない貧困のレベルにまで沈んでいった。この解釈によれば、建築の質という点では見るべきものはわずかである。典型的な建物は、薄っぺらなマンションやぼろい借家、それに大都市で頻発した労働争議を鎮圧するための武器庫などである。

 この解釈を正当化するにはまだある。莫大な予算はしばしば俗悪な趣味と奇怪な建物を生み出し、地方行政は労働者の居住環境や労働環境をしぶしぶ改善する以上のことはしなかった。そんな時代であっても、建設的な時代でもあった。近代社会に相応しい制度の基本を確立しようとする最初の協調的な努力がなされたからである」(100頁)。

 そして建築家については

 「一握りの建築家がアメリカ社会一般に重要な文化人として初めて認知されさえした」(101頁)。

と述べる。つまりこの時代、ようやく一握りの建築家が文化人として社会的に認知され出したと言える。

 「1820年代後半から南北戦争まで米国建築の重要な部分の多くは同時代の英国で起こっていたことへの反応だった。米国の建築家はA.W.N.ピュージンやジョン・ラスキン、それに建築やランドスケープ・ガーデンについて書いた多くの英国人の著作を読んでいた」、「1840年代や50年代の米国での鋳鉄とガラスの使用さえ、1851年の水晶宮建設で頂点を迎える英国での技術革新によってのことだったのである」(101頁)。

 リチャード・モリス・ハントとボザールの影響については

「ボザールの影響は最初の米国人卒業生だったリチャード・モリス・ハント(1827-95)とともに始まる」(103頁)。

「南北戦争中は仕事がほとんどなかったので、ハントの仕事は1860年代末になってようやく実りだす。そこから彼の死である1895年まで一連の作品を設計した」(104頁)。

 そしてリチャードソンについて。

「リチャードソンの作品を理解するだけでなく、なぜ彼がかくも模倣されたのかを理解するには、彼の出発点におけるロマネスクという先行者の用い方が鍵となる。リチャードソンが仕事を始めたころ、ロマネスクはローマとゴシックのあいだの過渡的様式であると一般に見られていた。この解釈をリチャードソンは転倒したのである。彼にとってロマネスクとは双方の最良の質を統合したものだったのである」、「代わってロマネスクは直接的でシンプルであり、米国の19世紀末に向かって進んでいく建設方法へのアプローチを反映していると、彼は考えた。ロマネスクは実務という点でも大きな利点があったのである」(116頁)。

 さてアメリカン・ルネサンスについて。ここではアメリカン・ルネサンス期間を明確に定義していないが、ガイ・ウィルソンの述べる( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/american-archit.html )高期、後期ルネサンスがここでいうアメリカン・ルネサンス期にあたるのではないかと思われる。この点では1960年代末から1895年に活動したリチャード・モリス・ハントが、アメリカン・ルネサンス期と重なる期間は実はそれほど長くはない。またAIAのバイブルがジョン・ラスキンだったとすれば、ラスキンの中世主義、反古典主義、反ルネサンス主義は米国の建築家に大きな影響を与えたはずだが、ウィルソンも述べるようにヨーロッパ大陸での19世紀後半の諸著作が入ってくることで親・ルネサンス的な土壌が形成されていったのだろう。

そしてアメリカン・ルネサンスの代表的な建築家のように述べられるM.M.W.について

1890年代初頭に起こった米国建築の急激な変化の転回点を示すのに、マッキム・ミード・アンド・ホワイトのボストン公共図書館(1888-95)以上のものはなかろう。これはコプリー広場を挟んでヘンリー・ホブソン・リチャードソンのトリニティ教会と対面している。そしてチャールズ・フォレン・マッキム(1847-1909)とスタンフォード・ホワイト(1853-1906)はともに、事務所設立前にリチャードソンのオフィスに勤務していたのである。ホワイトはトリニティ教会の図面を引いてさえいたのだった。だがこの二つほど異なる建物を想像するのは困難である。トリニティ教会はそのディテールと精神において中世的であり、色使いにおいて情感的であり、量塊の扱いにおいてピクチャレスクである。ボストン公共図書館はイタリア・ルネサンスからの派生であり、主として単色的で対称的で平滑なファサードを通して自己を現している」(132頁)。

アメリカン・ルネサンスはリチャード・モリス・ハントのボザールから単線的に出てきた、あるいは進んできたのではなく、ヘンリー・ホブソン・リチャードソンのロマネスクから実は捻じれて出てきた、あるいは進んでいったと言うべきなのだろう。

 本書ではルイス・マンフォードの『スティックス・アンド・ストーンズ』中の「帝国のファサード」についても言及される。いわば「帝国のファサード」問題について、

 「帝国のファサード」においてマンフォードは二つの問題を挙げている。一つは彼の軽蔑的な「ファサード」という言葉に含意されるように、これは古典建築へのなにか不誠実なものである。マンフォードは建物は真実でなければならないと仮定していた。つまり、その外部は内部で起こっていることを明らかにし、またそれが造られたあり方を正直に表象しなければならないというものである。第二に、これらの建物が表現するメッセージは不遜であることをマンフォードは見出した。建物が骨格として機能する制度の帝国的性格を、ファサードは祝福していたからである。この建物の採用はフロンティアの消滅や、独占資本の急成長や、新たな貴族となりたがっていた成金男爵階級の台頭と手に手を携えていたからだった。実際、マンフォードはこの建築を軽蔑した。というのもローマ帝国のイメージに基づいたように見え、アメリカ社会の理想にそれは反しているように見えたからである。

マンフォードの批判はダニエル・バーナムやスタンフォード・ホワイトを懸念してのことではない、というのも彼らは真実よりも美に価値を見出していたからである」(136頁)。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年4月 4日 (金)

Axel Madsen, The Marshall Fields, John Wiley and Sons, New Jersey, 2002

Marshall

「マーシャル・フィールド王朝」についての書。

序章と建築関連部分について目を通す。

ときにいかさま的な商慣行が行われていた時代、固定価格や返金制度、顧客第一主義などを打ち出したマーシャル・フィールドは、いわば近代商業の黎明期の人物であったことが述べられる。とりわけ女性客と百貨店の関係は、本論とは別に論じられてもおかしくはないかもしれない。南北戦争の軍需特需で莫大な富を築いたシカゴは大都市へと急成長しつつあったが、そのダウンタウンでは、実はまだ女性が一人で入れる店は限られていたという。都市の中心部は男達の貨幣経済と経済活動の場であり、郊外が経済活動から隔離された女・子供達のための場所であるというキャサリン・ビーチャーらの都市と郊外のあり方についての考え(こちらも参照、http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/gwendolyn-wrigh.html )は、ヴィクトリア朝時代の価値観を背景としているのであろうが、しかしながらその後もある程度影響を持ったと言え、これについてはジェンダー論の観点からの都市論として論文がそれだけで一本書けそうである。

そうしたこともあってか、とともにシカゴのランドマークのひとつであったマーシャル・フィールド百貨店のイメージもあってか、建築史上での評価が高いリチャードンの卸売店についてはたった一行、コミッションが与えられたことが述べられ、その後は、通りいっぺんの建物描写が続いていくだけである。他方では、百貨店の設計を行ったバーナムについては「大建築家」などと形容され、ニューヨークでのバーナムとフィールドの営業場面なども挿入されている。ただし、バーナムのパートナーであったルートについては「ウィリアム・ルート」となっており(ウェルボーン・ルートが正しい)、経歴もオックスフォードに留学したとなっており(正しくはリヴァプール大学)、意外と不正確な記述である。そもそも早逝したルートに代わって百貨店を設計したのは後任のジョン・アトキンであった。

どちらにしても、マーシャル・フィールド自身は、ヘンリー・ホブソン・リチャードソンとその建築をあまり評価していなかったのだろうか、あるいは一般的にもそうだったのであろうか。そうだとすると建築的な建築評価と、商業的あるいは社会的な建築評価はまったくの別物という、これも見本のひとつとなるのだろうか。

リチャードソン設計によるものは、卸売店であり、訪れる顧客も男性の仲買人であり、そのデザインも男性的で内向的なものであった。他方で、小売の百貨店は、マーシャル・フィールドについて絶えず言われるように女性客を主な顧客とし、それも物腰柔らかく経験豊富な店員が対応し、そしてそのデザインもラグジュアリーなものであった。この百貨店はしかし、建築史にはほとんど登場しない。

カーソン・ピリー・スコットはマーシャル・フィールドの同業他社、競合者となる。この点からも、また別の点からもサリヴァンによるカーソン・ピリー・スコット百貨店のデザインについて、とりわけそのフレームと印象的な鋳鉄装飾の関係について、考察できそうである。

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