« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月24日 (木)

Lloyd Wendt and Herman Kogan, Give the Lady What She Wants!, Marshall Field and Company, 1952

Give


  マーシャル・フィールド社から出ているので社史のようなものであろう。しかも2001年までに16版も重ねているのだが、建築家の表記がヘンリー・ロブソン・リチャードソンと誤記のまま出版され続けている。米国においても建築家の社会的認知度はこの程度なのかと思えてくる。

 フィールド アンド ライター社からマーシャル・フィールド社への変遷過程について述べたのは163頁あたりから。

 またナンシー・ケーンの著作中、「1946年にジョセフ・F.・ケネディがマーチャンダイズマートを買い取り」と述べられていた卸売部門は、既にリチャードソン設計の卸売店ではなく、その次の世代の建物で実際に「マーチャンダイズマート」という名前になっている。これはさらに巨大な建物である。またリチャードソン設計の建物自身も、少なくとも2代目のものでその前のものが手狭になったので建設されたものだった。いずれにせよ、トーマス・J.シュレレスの著作ではその後取壊されて現在は駐車場になっているという記述がある。

 

メモ

「卸売部門が成長を続け、年間20921000ドルから翌年には2165万ドルとなったので、フィールドは有名建築家であるヘンリー・ロブソン・リチャードソンに新しい建物を設計するようコミッションを与えたのち、古い建物を取壊している。この花崗岩と褐色砂岩の嵩張った建物はアダムズ、クワンシー、ウェルズ、それにフランクリン通りに四週を囲まれ、四角形の街区を占めていた。1887620日に開店した。会社に富と名声を与えたのは小売部門だけでなく、変わりゆく嗜好と顧客の要求にいかについていくかを反映したこの巾の広い品揃えでもあった。カーペット、ゴムのおむつ、ベビーカー、オペラグラス、香水吹、ハーモニカ、機械油、縄マットレス、幻灯機、アコーディオン、ヴァイオリンやギターさえあった。

 新しい建物の玄関の両側には二人の出迎人がいた。ジョー・ジラードとルー・バッカスである。客が建物に入りその部署の責任者かトップセールスマンに要望を出すと、ドアの内側で「ベンチに待機している」半ダースのボーイに客のお望みの品を持ってくるよう、この出迎人が指ぱっちんで合図をした。各部署の責任者はこのエスタブリッシュメントでは現実のエリートだった。部下から「ミスター」で呼ばれていた。ただし綿とギンガムの主任であったステイーン・ビロウだけは本人が強く望んだので「ビロウ」と呼ばれていた」(194)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月22日 (火)

カール・マルクス、『賃銀・価格および利潤』、長谷部文雄訳、岩波文庫、1935

Chingin

 

マルクス自身の著作は学生時代に読んで以来かと思う。最後に読んだのは院試の前だったのでかれこれ30年前、今くらいの季節、受験勉強にまた付き合わされるのかやれやれと気が進まず、『資本論』を読み始めたら面白かったのでそのまま2巻まで読んだというものだった。有名なG-W-Gなどの図式などである。

とともにクロード・レヴィ=ストロースは論文を書く前にウォーミングアップとしてマルクスを読んだ云々といった旨のことを確か述べていたが、構造力学の受験勉強のウォーミングアップに『資本論』はよかったのかもしれない。ニーチェを読めば元気が出るし、マルクスを読めば頭の体操になろう。

本書は1865年の講演が元になっていて、一方マルクス初期の『経済学・哲学草稿』は1844年のものだった。実はT.J.クラークの初期三部作が扱うのも1840年代から1870年代あたりである。ニューアートヒストリーはその方法論に目が行きがちだが、この対象とされた時代もきわめて重要だったのではないかと思えてくる。つまり「近代」と呼ばれているものの骨格はフランスあるいはヨーロッパにおいてはこの四半世紀という意外と短い期間において形成されたのではないかと言えるからであり、マルクスはまさにその時代に居合わせそれを分析したのであるとも言えるからである。米国においてこれは少し遅れているように思われるが、方法論だけでなく扱う対象あるいは時代あるいは時代領域においても意識的であった方がいい。最終的には「遅れてきた米国」が様々な分野において19末から20世紀(初頭)にかけて今度はヨーロッパに影響を与えていく。

1844年の『経済学・哲学草稿』中の疎外論はマルクス初期の特色のひとつと言われる。本書ではそれが「分離」として発展的に述べられている個所がある、つまり「労働人と労働用具のあいだの分離がひとたび確立されたならば、この状態は、生産様式における新たな根本的な変革がそれをふたたび転覆して本源的結合を新たな歴史的形態において再建するまでには、それ自身を維持し、たえず増大する規模においてそれ自身を再生産するであろう」(78)といったくだりである。1865年にいたってもいささか否定的な含みで語られている。疎外論や物象化論はアントニオ・グラムシを経て今日のポストヒューマニズム論(K.マイケル・ヘイズ)の美学にとっても重要な概念だろう。ただしヘイズやあるいはジェイムソンの瞠目すべき点は、この価値観をまったくひっくり返したことにある。

また本書において有名な「交換価値」概念が登場している(「使用価値」という概念は登場しない)。マルクスがここで展開している諸概念は経済学だけでなく、むしろ根本的なところではカント哲学なのではないかと思えてくるふしがある。価値と価値の表象、価格、価格の表現形態、労働と労働力云々、はカントの物自体と物の表象という考えが基本にあって縦横無尽に論理展開できるのではないかと思えてくるふしがあるのである。冒頭での賃銀の高低を温度の比喩で論じるあたりもそうである。賃銀が上がれば価格も上がるので意味がないとする「ウェストン君」の謬見(これはすでにリカードの『経済学原理』で粉砕されたはずのものであるという)について、温度は融点や沸点などの自然現象との関連(言及されてないが人間の体感温度も含まれるだろう)においてのみ高低の意味を持ち、単に相対的な数字の多寡を見ていても謬見にしかならないと論じている部分はそうであり、こうした議論は結語部分における労働(力)の価値について、人間の生物学的側面と社会・歴史的側面を持ち出して論ずる部分とも共通している。なおかつ序論と結論が結ばれるように計算して全体の論を組み立てている、という全体構成上の側面もある。

余談ながらロシアはアメリカ南北戦争を扇動したとある。「アメリカ人はたびたび、彼らの過剰生産物を焼くことを余儀なくされた。そしてロシアは、もしわれわれがアーカード氏の言を信ずべきであるならば、その農産物の輸出がヤンキーの競争によりヨーロッパ市場で減殺されたものだから、合衆国の南北戦争を扇動したのである」(41)。「愛国心」がそうである程度には「奴隷解放」というものもイデオロギーであり、内戦の根底には生産様式の齟齬があると見るべきである。アンリ・ルフェーヴルは「社会とは生産様式のことである」と述べていた。ただ単なる「社会」という言葉ではまだ曖昧である。

これもついでに本書では、その奴隷(農奴)と賃銀労働者の違同について剰余価値の観点から、「ある人が、一週間のうち三日間を自分の耕地で自分自身のために働き三日間を主人の領地で只で働くのも、工場または仕事場で一日に六時間を自分のため六時間を雇主のために働くのも、実は同じことなのであるが、ただ後の場合には、労働のうち支払われた部分と不払いの部分とが相互に不可分に混合されており、そして全取引の本性が契約の介在により、また週末に受け取られる支払いによって全く隠蔽されているのである。無償労働が、一方の場合には自発的に与えられるように見え、他方の場合は強制的なように見える。異なるのはそれだけである」(87)と述べている。これはあくまで剰余価値について述べた部分であって、奴隷と賃銀労働者は勿論、異なる。疎外と物象化によって自らの労働力を「商品」として商品市場に投入している点でこの労働力という商品も市場変動のなかにあって高騰もすれば暴落もするからであり、その結果「奴隷の安全さを得ることなしに、奴隷の全窮乏を共にすることとなる」(111-112)こともあリ得る。

最終的には「資本制的生産の一般的傾向は、賃銀の平均標準を高めないで低めることにある」(123)と分析される。



 さて諸概念の整理と関係について。



「資本は集積された社会的力である」(125)
 
「「価格」とは交換価値であり」「貨幣で表現された交換価値であるから、右の命題は、「諸商品の価値は労働の価値によって決定される」ということ、または「労働の価値は価値の一般的尺度である」ということに帰着する」(57)

「諸商品の交換価値はこれらの物の社会的機能に他ならぬのであって、自然的諸性質とはまったく何の関係もないのであるから、われわれはまず、すべての商品の共通な社会的実体は何であるか?とたずねねばならぬ。それは労働である。商品を生産するには、そのために一定量の労働が用いられまたは費やされねばならぬ。しかもそれは、単に労働ではなく、社会的労働である。」「商品を生産するためには、ひとは、何らかの社会的欲求を充たす品物を生産せねばならぬばかりでなく、彼の労働そのものが、社会によって支出される総労働量の一部分をなさねばならない。それは社会内の分業に従属しておらねばならない。それは、他の諸分業なしには無意義であり、またそれ自身、他の諸部分を補足することを要求されている」(62)

「労働に対する報酬と労働の分量とはまったく別ものだということである」(64)

「諸商品に実現された社会的必要労働の分量が、それらの商品の交換価値を規制するとすれば、一商品の生産に要する労働の分量が増加すればするほどその商品の価値が増大し、またそれが減少すればするほどその価値が低減するに違いない」「労働の生産書力がが大であればあるほど、一定の時間内により多くの生産物が仕上げられ、労働の生産諸力が少であればあるほど、同じ時間内により僅かの生産物しか仕上げられない」(68)

労働の生産諸力が依存するものとして、自然条件と「労働の社会的諸力の進歩・改良、大規模生産、資本の集積と労働の結合、労働の再分割、機械、作業方法の改良、化学的その他の自然的諸機能の応用、交通=および運輸手段による時間と空間の短縮、発明・・・」(69)

「諸商品の価値は、それらの生産に使用される労働時間に正比例し、使用される労働の生産諸力に反比例する」(70)

「価格は、それだけのものとしては、価値の貨幣的表現に他ならない」(70)

「その限りでは、一商品の市場価格はその価値と一致する。他面、価値または自然価格以上となったり以下となったりする市場価格の同様は、需要供給の変動に依存する」(72)

「労働者が売るのは、彼の労働そのものではなくて、彼の労働力であり、この労働力の一時的な自由処分を彼が資本家に譲渡するのである」(76)

「以上述べたところによって、労働力の価値は、労働力を生産し、啓発し、維持し、永続させるに要する必需品の価値によって決定される、ということがわかるであろう」(80)

「資本と労働とのこの間のこの種の交換こそは、資本制的生産または賃銀制度の基礎であり、そしてそれは、労働者としての労働者および資本家の資本家の再生産を引き続き生ぜざるをえないものである」(84)

「労働力の価値または価格は、労働そのものの価格または価値たる外観をおびる」「この間違った外観は、賃労働を、他の歴史的な労働形態から区別づける」(85-86)

「資本家にとって商品の生産費と、その現実の生産費とは、別ものである。だから、くり返していうが、正常的かつ平均的な利潤は、諸商品をその現実の価値以上にではなく、その現実の価値で売ることによって得られるのである」(89)

「剰余価値、すなわち、商品の総価値のうち労働者の剰余労働または不払い労働が実現されている部分を、私は利潤と名づける」(90)

「地代、利子、および産業利潤は、商品の剰余価値の、または商品に含まれている不払い労働の、種種の部分に対する種種の名称に他ならぬのであり、そしてそれらは、等しくこの源泉から、しかもこの源泉だけから生じるのである」(91)

「資本制的生産はある種の周期的循環を通して運動するものである。それは、平静・好転・繁栄・生きすぎ・恐慌・および停滞の状態を通して運動する」(109)

「労働力の価値または労働の価値は、ある種の特徴によって他のすべての商品の価値と区別される。労働力の価値は二つ以上の要素によって形成される。その一方は単に生理的なものであり、他方は歴史的または社会的なものである」(113)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月15日 (火)

ナンシー・ケーン、「マーシャル・フィールド、1834年-1906年」、『ザ・ブランド、世紀を超えた起業家達のブランド戦略』、樫村志保訳、翔泳社、2001

Marshall


 かつて読んだはずのものから当該個所を読み返す。

 このハーヴァード・ビジネス・スクールのブランディングの教科書(参考書)で、マーシャル・フィールドはまるまる一章をあてがわれている。主題は百貨店、田舎の雑貨店の丁稚から一代で百貨店王となったいわば立志伝中の人物として。

 著者は本書において、マーシャル・フィールドの強みの一つは小売部門と卸売部門の「垂直統合」にあったとしている。本書ではほとんど触れられないものの、Give the Lady What She Wantsでは、当初のフィールド+ライター社の共同経営者であったレヴィ・ライターとの離反理由が、まさにこの二つの部門の相違だったと述べられている。つまりフィールドが得意としたのは小売で、しかし主に女性のエンドユーザーで現金決済の小売より、男性の行商人相手でクレジット決済の卸売の方が一度に売れる量も多く手間ひまもかからず、商売的には実入りがいいだろうといったところで、ライターは路線を違えていったという。ライターはおそらくジェニーのあのライター・ビルのライターで、とすると、ますます狭い世界の話になってくる。

 さらに本書においてもフィールド百貨店の代名詞のように登場するのは1902年竣工のダニエル・バーナム設計のものである。リチャードソンの卸売部門の建物はマーシャル・フィールド社としてはいわば傍流のものだったということだろうか。実際、

 

「卸売・小売部門の売上げは大恐慌の時期にかなり落ち込み、マーシャルフィールズは1932年に初の損失を出した。1946年、ジョセフ・F.・ケネディがマーチャンダイズマートを買い取り、1950年までに同社は卸売・製造業のほとんどを売り払った。しかし、中西部、そしてフレデリック・ネルソンのあるワシントン州での百貨店の新規出店は続けた。世紀の変り目にフィールド自身がデザインにかかわったシカゴ都心の美しい建物は、同社の旗艦店として残り、マーシャルフィールズのブランドは何百万人もの消費者にとって品質、サービス、スタイルを意味するものであり続けた」(198-199)

 

会社の存続が危うくなった時に売却され、取壊されたのはリチャードソンの卸売店だったのであり、会社の旗艦店として残されたのはバーナムのシティ・ビューティフル的な小売の百貨店であったのである。このあたりは建築史の評価とはまったく異なっている。単に建築史上の評価との相違というだけでなく、卸売/小売という商業上の相違、それにリチャードソンの男性的な(とされる)デザインとマーシャル・フィールドの女性客を主な顧客としたブランディング方法の齟齬も、ジェンダー的な観点も含めて興味深かろう。そもそもマーシャル・フィールドは丁稚時代から女性客の人気が高く、シカゴのステイト・ストリートをレディズ・ハーフ・マイルとしたいわば「まちづくり」は、彼としては当然の帰結だったともとれる。

もっともジェンダー的な相違だけではない。繰り返すならバーナムのマーシャルフィールズは建築史の教科書には登場しないが、ルイス・サリヴァンのカーソン・ピリー百貨店はしばしば登場する。そして

 

「こうしてフィールズは、1900年代はじめまでに、最高級クラスの百貨店として揺るぎない評判を打ち立てた。ちなみにシカゴのほかの小売業者、たとえばカーソン・ピリー・スコットとシュレジンジャー・アンド・メイヤーは中流階級、フェア、ビー・ハイブ、ボストン・ストアは労働者階級と中流よりやや下の階級を相手にしていた。当時はやった子どもの唄は、フィールズの高級イメージを次のように捕らえている。

 

ハイヒールをはいている娘は、みんなマーシャルフィールズで買い物をする。

床を磨いている娘は、みんなボストン・ストアで買い物をする。」(187)

 

だったのである。

最高級品店であったバーナムの百貨店は建築的には駄作と言わないまでも建築史にはほとんど登場しない一方、中流相手のサリヴァンのカーソン・ピリー・スコットの方はしばしば登場する。ここから近代建築史の視点が窺われると言えないこともないのかもしれないが、それだけではなかろう。社会的な建築評価と、建築的な建築評価は必ずしも一致はしないという一般論を、とりあえず述べるにここではとどめておく。

 

メモ

 

 「ほとんどのアメリカ人は、まだ物質的に豊かなわけでも満たされてもいなかった。南北戦争前、大多数の人々は、衛生状態の悪い、狭い家に住んでいた。1830年代末までの米国は圧倒的な農業国で、ほとんどの農家は地下室もなく床も張っていない、34部屋しかない家に住んでいたのだ」「1850年代以前、大多数のアメリカ人が所有する耐久消費財の数は十指に満たなかった」(149)

 

 「米国の全国市場の発展は、1800年代半ばからはじまり、後半に加速した。南北戦争後の電信と鉄道の劇的な拡大によって、人や家畜、商品が以前よりはるかに速く、安く、確実に大陸を縦横に移動できるようになった。1830年代には、サラサや輸入陶器をニューヨークからシカゴへ運ぶのに三週間はかかっていたが、1860年代にはたったの三日にまで短縮され、1880年代までには人も商品も24時間以内で移動できるようになった。

 こうした輸送・通信革命は、前例のない規模の経済を作り出した。以前は各地で転々と行われていた取引は、地域、産業、国をまたがる、より頻繁な商取引に道をゆずった。1880年代になると、ダコタ地方などの僻地の開拓者でさえ、食品のほとんどをもう自分たちで生産していなかった。その代わり西部では、東部の市場で売るために小麦を栽培したり、牛を飼う農家が増えた」「統一的な全国市場の発展も、大量生産に拍車をかけた。1869年、米国で生産された商品の半分以上は農産物で、約3分の1が製品だった。30年後、その比率は逆転し、生産された商品の33%が農産物で53%が製品になった。残りの14%は鉱業と建設業での製品だった。

 産業化に刺激され、経済成長と所得の上昇が起きた。所得の上昇は小売取引をさらにあおった。1869年から1900年までの間に、物価の変動で調整した一人当たりの所得は、複合年率で平均2.1%増加している。19世紀後半になると、1873年、84年、93年の不況によって上昇は一時中断したものの、長期的には強い上昇傾向にあった。これは、過去、現在を問わず、米国経済が経験したもっとも著しい成長だった。その明らかな成果の一つが、ベークドビーンズの缶詰、既製品の上着、刈り取り機など、数々の新しい商品の大量生産だった。また工場では、技術改良などによって、すでにある時計、カーペット、猟銃、本、ボタンなどの商品も、より良く、安く、大量に生産されるようになった」「全国販売の規模と範囲が拡大するにつれ、消費者は地元小売店の製品アドバイスに徐々に依存しなくなっていった。その代わり、広告によって新しいブランド商品を知り、信用するようになった」(150-151)

 

「当時、商品の値段はほとんどが店員と客との交渉で決められ、支払いは現物が多かった。そうした環境で、フィールドは町の人や農夫と上手に取引きする術を学んだ。客のほとんどは、牛乳、バター、卵、農産物をほかの食品や塩・砂糖などの必需品と交換するために来店した。彼は、いかに個々の客の要求を判断し、それを客に請求するコーヒー、小麦粉、釘、サラサの値段に反映させればいいかを学んでいった。フィールドの古い友人は、その集中力と鋭い感覚で女性客の気持ちを理解する彼のことを、次のように振り返っている。

 

私たちは彼のことを「マーシュ」と呼んでいましたが、そのニックネームに腹を立てたりはしませんでした。でも、町の若者とつきあうことはほとんどありませんでしたね。仕事を恐れていたわけではないけれど、いつも何か考え事をしているようでした。店員としては、ピッツフィールドが雇ったなかで最高の人材の一人でしたが、とにかく女性に人気がありました。彼は女性が何を欲しがっているのかがズバリわかるようで、店にその品物の在庫がなくても、騙すことなく、ほかの物をすんなり売ることができたんです。

 

フィールドは男性客の扱いもうまく、デービスはその平静さと販売テクニックに感動したという」(158-159)

 

「当時は卸倉庫でも店舗でも、買い手が実際に商品を買うかどうか、買うとすれば何を買うかを決める際に、判断のよりどころとなる情報はほとんどなく、サービスも限られていた。19世紀半ば、商人と買い手の間では、「買い主の危険負担」が取り引きの基本で、顧客は、欠陥商品を買ってしまったらそれは自分の責任だということを心得ていた。結果的に、商人と顧客の間にしばしば強い相互不信が生まれた」「1850年代から1875年にかけて、多くの百貨店起業家が小売条件を変えはじめた。A.T.スチュワート、ポッター・パーマー、ローランド・メーシーなど、その多くは革新的な販売方法も打ち出した。たとえば、フィラデルフィアのジョン・ワナメーカー、シカゴのポッター・パーマーは、商品に満足しなかった場合の返金制度を導入し、メーシーは、値切り交渉や値段の不透明さをなくす正札制を設けている。こうした方針は買い物客をひきつけた。

しかし、マーシャル・フィールドのように、顧客の興味をそそり、満足させることに組織をあげて取り組んだ企業はほとんどなかった。フィールドたちはパーマーの事業を引き継いだときから、信頼のおける魅力あるブランド、つまり卸売顧客や、特に小売顧客に店の名前、商品、サービスを連想させるブランドの確立が会社にとって重要なことをはっきり自覚していた」

「フィールドたちは、輸送・通信革命の需要サイドにうまく対処するには、自社の評判を慎重かつ巧みに作り上げることが不可欠であることに早くから気づいていた。効果的なブランドは、同社を中西部市場の競合他社と差異化する力になるはずだ。そうして消費者のロイヤリティを得たブランドは、会社を過剰な価格競争から守ってくれるだろう。同じく重要ななのは、強いブランドというものは、取引したい潜在顧客とそうでない潜在顧客をはっきりさせ、ターゲット市場を明確化する一助になることである」

「フィールドが考えたように、そのようなアイデンティティを築くための柱は、信頼性、高品質、スタイルだった」(176-177)

 

さて卸売部門について。卸売部門を持っていたことはマーシャル・フィールドの強みでもあった。著者はこれを「垂直統合」と呼んでいる。

 

「こうしたなか卸売部門の収益は急速に伸び、1870年の1100万ドルから1890年には2600万ドルに達した」(183)

 

リチャードソンの巨大な卸売店の建設はまさに、この卸売部門の急成長に対応したものだったのである。そして、

 

「小売事業もこの成長の恩恵を受けた。1865年から81年のフィールドとライターの共同経営時代を通じて、小売部門は商品のほとんどを自社の卸売部門から仕入れていた。小売の各商品部門のバイヤーは、原価に6%を上乗せして在庫を毎日補充することができた。このニ部門の統合は、社内に卸売部門がなく商品を中継ぎ商から買っていたシカゴの多くの百貨店に比べ、新製品を常にどこよりも早く選ぶことができた。

またこの垂直統合によって、納品と小売在庫の補充が迅速化され、在庫回転率が高まった。さらに消費者需要に目配りすることなどで、両部門の商品在庫を無駄なく売りさばくことができた」(183)

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月 5日 (土)

James F. O`Gorman, Living Architecture、A Biography of H.H.Richardson、Simon and Schuster Editions, N.Y., 1997

R

9章「スタジオの日々、1880年代」、第10章「最後の作品群、1882-86」を読む。

1883年までにリチャードソンが自ら中世のカトリックの修道僧に扮し、写真家ジョージ・コリンズ・コックスがそれを撮影した一連の写真があり、「彼はそれを世界にプレゼンテーションすることを望んだ」(151)とある。中世修道僧に扮したことはこの時期までにロマネスク風のデザインを自家薬籠のものとし、そこに自らを重ね合わせる意図もあったのであろう。「ネオ中世的なマスター・ビルダーあるいは前・工業時代の職人というイメージ」、「A.W.N.ピュージンが自らのスタジオにおいてゴシックの建築家・僧侶として描いたように」(151)というわけである。

ここには当時の米国の建築家の動向、つまり同時代英国の建築の動静、とりわけヴィクトリアン・ゴシックを参照した中世主義をまず読み込めるが、それだけでなく、当初土木技師志望であったリチャードソンが建築に転向した理由としてヒッチコックが推測していた1850年代のハーヴァードにおけるドイツ哲学の雰囲気と同質のもの、つまりアメリカ超越主義における中世主義や中世美学への傾倒もあったのではないかと推測される。リチャードソンの初期作品から出世作、つまりハーヴァードのクレイン図書館やボストンのトリニティ教会はおそらくハーヴァード人脈によるもので、かつロマネスクへといたるあり方にはアメリカ超越主義の影響も何がしかあったのではないか、と読めるのである。

もう一点は自ら中世の修道僧に扮し、中世のマスター・ビルダーないしは建築家・僧侶というイメージを写真を用いて演出しようとしたことは、既にこの時代が写真による複製技術時代に入っていたことを示している。アメリカ南北戦争は人類史上初の総力戦であり近代戦であったとされるが、この戦争においては旧来の従軍画家よりも写真という新たなメディアが多用されたことは、現在残っている資料からも言える(戦史上、写真が初めて戦場を記録するメディアとなったのはそれに少し先立つクリミア戦争であったとされる)。

人類史上初の近代戦争における当事者、それも工兵部隊の最高責任者となったジェニーが近代建築の基をストレートに築いていったとすれば、あたかもその対極にあったかのようにヒッチコックによって位置づけられ、そして米国建築史上において神話的に位置づけられてきたこの建築家は、あるいはこの建築家も、戦争と複製技術によって敷衍してきた技術を巧みに用いていた、あるいははこう的に用いていたことは着目していい。リチャードソンにおけるこの矛盾は追求していく価値があり、とりわけジェニーとの対比においてまたヒッチコックが示唆したものとは別の形で追求していくと面白い展開になるのではなかろうか。

そしてこの矛盾、ヴェネツィア学派風に述べれば「亀裂」は、まさにマーシャル・フィールド卸売店そのもののなかにあり、それが実はこの建物の特質なのであるとさえ述べることが可能なのではないか。まずここが一つのcrux

 

メモ

 

「マーシャル・フィールド自身はリチャードソンより少し年長であった。マサチューセッツ州西部バークシャーのふもと長閑なコンウェイの生まれで、南北戦争時に運を探して西部を目指した。そして今もその名を冠しているシカゴのデパートの責任者として急速に頭角をあらわし、続いて不動産その他の利益で莫大な富を築いていく。マーシャル・フィールド・アンド・カンパニーは1881年に設立された。これは流行に敏感な女性層の需要を満たす小売部門と、中西部の町を売ってまわるセールスマンのための卸売部門からなっていた。18854月、フィールドはリチャードソンに新たな卸売のための建物を設計するよう依頼した。敷地はループ西側の半ブロックまるまるを占める大きなものだった。建物を個人所有し、会社に貸すつもりだった」(178-179)

「フィールドの小売店舗は女性客に訴求するのに装飾を必要としたかもしれないが、卸売部門は余計なものを必要としない男性のトラヴェリング・セールスマンを意味していた。リチャードソンは一時、商業ファサードの問題をスタディしていたと述べた。そしてフィールドの建物は「可能な限りプレーンで、その効果は「ヴォイドとソリッド」の関係によらねばならない。つまり、各部分のプロポーションによらねばならない」(179)。このリチャーソンの発言は188510月にシカゴ・グランド・パシフィック・ホテルでインタビューされた『トリビューン』紙のもの→要チェック、→『シカゴ・トリビューン』1880年代。

「確信に満ちた言葉と魅力的なドローイングにおいて、建築家はレポーターに対し、「この国では商業目的のための建物では構造にはっきりと優位が置かれねばならない」と、確信させた。ノークロス兄弟はミズーリ産のピンクの花崗岩で店舗を造り、建築家没後一年以上たって開業した」(179)

 

 商業建築と中世主義に関して

 

「リチャードソンとフィールドは店舗設計の1年前にともにフィレンツェを訪れている。それゆえメディチのような商業君主であったイタリア・ルネサンスを髣髴させる大パラッツオの外装の採用を建築家が考えたことは驚くに値しない」(180)

 

これはそれまでの中世主義が商業建築とは齟齬を起こしかねないことを、そもそも示唆していると言える。

 

「実際、リチャードソンの作品ではつねにそうであるように、フィールドのファサードでも記憶がテクノロジーに勝っている。現存する図面の1枚は、建築家もしくはビルダーが1階窓上部にわたってボックスガーダーの鋳鉄構造体を考えていたことを示している。これが実際に使われたかどうかは定かではないし、大して問題でもない。重要なことは、図面によれば、この19世紀のエンジニアリングの要素が石による外装に完全に隠されたということなのである。鋳鉄による構造補強がいかに与えられようとも、フィールドのファサードは伝統的なマッシヴな耐力石造壁として見せられたということなのである。建築家は現在を連想させるのではなく、過去を連想させることで建物に意味を与えようとしたのである。

 かくも保守的な見かけにもかかわらず、プロトモダニストのルイス・サリヴァンはリチャードソンのマーシャル・フィールドを、そこから建築形態が大激情として爆発してくる「オアシス」あるいは「ランドマーク」と認識した」(180-181)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月 2日 (水)

Henry Russel Hitchcock, The Architecture Of H.H.Richardson And His Time,The MIT Press,1966

Hitch

 

初版は1936年のMoMA

ヒュー・モリソンによるルイス・ヘンリー・サリヴァン評伝のような位置を占めるというべきか。またヴァン・レンセラーへの謝辞もところどころ登場する。

 全体は2-3年ごとに区切って時系列的に進んでいくので、実際そうなのだがザ・マーシャル・フィールド卸売店が実に最晩年の作品に見える。リチャードソンの生涯についてはジェームズ・オゴールマンによる評伝(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/james-fogorman.html)や同じくオゴールマンによるサリヴァンやライトと並べた著作(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/james-f-ogorman.html)の方がむしろ詳しく見え、どちらかと言えば本書では作品に即して述べていく。

 さて、リチャードソンが米国建築史において特別な位置を占める性格があるのではないかと思えてくる部分があり、それがリチャードソン評価に何がしか影響しているのではないかと思えてくる部分がある。つまりいわば、夭折の天才建築家とでもいったニュアンスである。1838年生まれのリチャードソンは1832年生まれのジェニーより6歳年少であり、ハーヴァード在学中に南北戦争が勃発、南部ルイジアナ出身だったリチャードソンはこのため国内に居辛くなってボザールに留学した云々という話はオゴールマンの評伝に登場する。リチャードソンが南北戦争時に学生だったのに対し、ジェニーはこの戦争で北軍工兵隊の最高指揮官(少佐)にまで上り詰めている。最初はリエゾンとして行方不明となった大隊と連絡をつけるところから始まり、南軍を追撃するグラント将軍指揮下の前衛1個師団の渡河作戦を成功に導いたことで大きな戦功をあげ、さらにシャーマン将軍の有名な焦土作戦の右腕として軍歴を飾る。戦争が終わる頃には北軍工兵隊の最高指揮官となっていた。この南北戦争時の工兵隊人脈がシカゴ派の基の一つとなったという説がある。そしてこの軍歴と『サリヴァン自伝』から、ジェニーはもっぱら「技師」として描かれてきた。そしてそのジェニーが建築史に登場するのがシカゴ派の嚆矢であるとともにスカイスクレーパーの嚆矢でもある1879年のザ・ファーストライタービルであり、続くホームインシュアランスビル、ザ・セカンドライタービルのいわば3部作であり、これに合わせてヴィオレ=ル・デュクの建築論を援用しながら、ジェニーは構法と理論の両面でシカゴ派の基を、ひいては近代建築の基を築いていったと述べても過言ではない。

 つまりジェニーが建築史に登場してくるのはリチャードソンのキャリアから見ればもう晩年、あるいは最晩年の話であり、年少のリチャードソンの方が一足先に既に建築史に登場しているのであり、それもジェニーが「技師」として描かれるのに対してリチャードソンは芸術家肌の建築家という役割を担って米国建築史上に描かれているのではないかということであり、さらにそれも年齢的な前後関係が逆転してしまい、リチャードソンはジェニーらによる新たなエンジニアリングとスカイスクレーパーの問題を見ずにすんだ、建築がまだ芸術だった時代の建築家であったとでもいうニュアンス、それも47歳という建築家としては異例の若さで没したことも相乗してのニュアンスを持って、建築史上にその位置を与えられているのではないかということである。

 ザ・マーシャル・フィールド卸売店はその巨大さにもかかわらず構法的には何ら近代的ではない。伝統的な組積造なのである。1ブロックまるまるを占める巨大な建物が登場したということ、それも卸売店という機能を持った建物が登場したことは、勿論、資本主義における資本の集積と最初の大衆消費社会の到来という文脈において描かれ得る。しかしジェニーらと違って構法的に新しいものはなく、伝統的な組積造を用いており、しかしながら伝統的な組積造を大規模に用いたがゆえに内向的な性質を持ち得たと述べる事も可能であり、のちにモンゴメリー・スカイラーがザ・モナドノックに対して「物自体」と述べたことと同質のものをここに読みとることも可能かもしれず、むしろジ・オーディトリアムだけでなく、これはザ・モナドノックの先行者でもあるのだと述べることも可能であるようにも思える。

 

メモ

 

「興味深い一つの疑問がある。もともと土木技師志望だったリチャードソンを建築に転向させたのは何だったのか。明確な答えはないが、1850年代のハーヴァードの雰囲気はその最良の部分をドイツ哲学の影響にしるし付けられており、それがもっと人間的な方面へ進む事を勧めたのではないかと推測することはできる」(18)

 

「忘れられがちなことだが、彼はそこ(ボザール)での二番目の米国人留学生だったということである(一番目はリチャード・モリス・ハント)」(23)

 

「(1869年にコミッションを得た)アガワン銀行がリチャードソンの最初のロマネスクへの転向を見せた作品として重要と考えた向きもあるかもしれない。だがこれは正当化できない。米国でもフランスでも彼自身のロマネスクにおいてもありそうもない。この時点では誰もこれをロマネスクとは考えていなかった」(86-87)

 

マッキムが独立するのは1871年。ブルックリンのリチャードソンのオフィスと同じビル内で、当初は仕事を手伝っている。続いてスタンフォード・ホワイト(133)

 

「次の数年はしかしさらに重要だった。というのもトリニティが米国建築におけるリーディング・アーキテクトとしてのリチャードソンの名声を確立したからである」(145)

 

「トリニティの設計と施工の期間中におそらくリチャードソンが得た書物のなかに、ロマネスクの考古学関連を扱ったものが何冊かあった。ルヴォイル(Revoil)の『フランス中世のロマネスク建築(Architecture Romane du Midi de la France)』については既に述べた。疑いなくこれは影響力があった。リチャードソンについてのこれまでの批評家がそれほど本質的な影響を与えなかったと見ていなかったとしてもである。ロオード・ド・フルリ(Rohaut de Fleury)1873年に出版された『中世のトスカナ(La au Moyen Age)』、それに1874年に出版された『中世のレンガと大理石』はチャードソンがヴィクトリアン・ゴシックよりイタリアにより興味を抱いていたことを示している。英国の雑誌に登場し続けていたロマネスクの素材、エドワード・シャープを記念してAA1875年に出版した『シャランテのドームアーチの教会群』のように、英国の建築家たちもまたフランスのロマネスクの曲線的な様式をよく研究していたことを、十分に示している。リチャードソンの書誌選択は特殊だった。彼自身の趣味はよりいささか特定のものとなっていったが、それでも同時代の英国の建築家たちと同じ領域に留まっていた」(146-147)

 

1870年代のリチャードソンはそれほど忙しくなかった。1872年と77年以外、1年に1コミッション以下しかなかった。しかし1880年までに年間コミッションが5件にまでのぼった」「フィリップ・ウェブは同時代の英国の建築家だったが、仕事を絞らなければ質が低下すると考えていた。ウィリアム・モリスの画期的な1859年の赤い家から1900年の引退まで、年間1件かそこいらしか仕事をしていない。スタッフは常に一人かそこいらで小さな事務所を運営していた」(177-178)

 

「ロマネスクがリチャードソンの唯一の霊感源だったわけでもない。オルバニー・キャピトルでのフランス・ルネサンスの用い方、別のところでの背の高い後期ゴシック・ドーマーの使用、自邸でのアン女王様式の使用といったものは全て、70年代中期のフランス・ロマネスクの研究に拘っていなかったことを示している。」(180)

 

「奇妙なことに様式についてそれほど知らない後続世代からリチャードソンの作品はロマネスクであることを嘲笑された。しかしハーヴァードの施設の設計で始まるリチャードソンのオリジナリティと異なり、実際のロマネスクはほとんどリチャードソン的ではないことである。キングスリー・ポーターが初期中世建築の研究で明らかにしたように、リチャードソンがこの時代に負っていたものはそれほど多くはない。初期キリスト教期のシリア、16世紀北部ヨーロッパ、アメリカ・コロニアル建築にさえ彼は負っており、語の本来の意味でのリヴァイヴァリストではまったくなかった」「ロマネスクはおそらく最もユースフルだったのである」(184-185)

 

「彼の健康が崩れ、ヨーロッパに旅立った時、彼の全生涯の最も幸福な瞬間をも残していったとも言える。スカイクレーパーの問題、これはまだ起こっていなかった、つまりこれに向き合うまで彼は生きていなかった」(241)

 

「まさにこの年、1884年、ジェニー少佐によってシカゴに最初のスカイスクレーパーが登場した。少佐は本質的に技師であり芸術家ではなかった。ホームインシュアランスビルは、リチャードソニアン・ロマネスクのあほ臭いパロディであり、根本的に間違いであり、そして野蛮な表現なのだった。しかしこののち半世紀のアメリカ建築の歴史はこの建物にあったのであり、リチャードソンにあったのではない。商業的な拡大と効率性の時代が台頭し、新しい技術方法を要請した。しかし新しい技術は必ずしも確固としたものである必要はなく、必要な期間あればよいのであった。リチャードソンのものは時間の流れがもっとゆっくりした前時代に特徴的な方法なのであった」(266)

 

ペイン邸について

「褐色の木、赤橙色の漆喰壁に、日本風の象徴が描かれ、天井梁の大構造の下に豊かな調和を形成している」(268)。 

アールヌーヴォーも意識し始めたということか。

 

「ザ・マーシャル・フィールドストアは18854月に受注し、死の前年に竣工した」

「ザ・フィールド・ストアは内部の中庭を石造耐力壁構造で囲んだ構造で、主要な間仕切壁も石造である。しかしながら独立柱と床の梁は金属製であった。7階建だったので、ジェニーがホームインシュアランス・・これはまさに竣工直前だった・・でやったような金属とのハイブリッドタイプを外壁でやる必要はなかった。ホームインシュアランスビルの方が高かったが、その壁を収める半・自立壁構造の壁厚はザ・フィールドストアの石造壁より薄かった。金属スケルトンに意図的に支持させ外部を覆うという、発達したスカイスクレーパー構造の利点は、ホラバード+ローチのタコマビルで最初に登場した。二人ともジェニーの弟子だった」(273-274)

 

「熟練に差し掛かっていたリチャードソンは新しい素材にはあまり興味はなかった。それよりも安っぽくみすぼらしい紛い物が登場しつつある時代にあって、伝統的構法の統合を意図していた」(275)

1年後、ジェニーはザ・セカンドライタービルにおいてザ・フィールドストアに霊感を得ている。アーチはなく、フランクな被覆式外壁構造であるが、リチャードソンの勝利にきわめて接近している。ただしプロポーションの感覚はいまいちである。リチャードソンが生きていたら、ザ・セカンドライタービルのようなものを造っていただろうが、大建築家だけがなし得る微妙さをもって建てたことだろう。それはサリヴァンのウェインライトをさえ凌いでいたに違いない」(277)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »