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2014年8月

2014年8月22日 (金)

西方里見『最高の断熱・エコ住宅をつくる方法、エコ住宅設計の第一人者による平成25省エネ基準以降の冷暖房費のかからない家』エクスナレッジ、2014

Nisikata

ある方にお薦めいただいた書。

吉田兼好の徒然草第55段「家の作りようは夏を旨とすべし。冬はいかなるところにも住まる。暑き比わろき住居は堪え難きことなり」について、吉田兼好はひねくれた人だったので文字通りにはとらない方がいいという説があるらしい。京都人らしいブラックユーモアをもって冬の底冷えのなか「家の作りようは夏を旨とすべきだよなぁ」と述べたというのはあり得るかもしれない。

本書の著者は秋田でご活躍されており、冬は何とでもなるというわけにはいかない。

「日本の国土は南北に長く、南は亜熱帯、北は亜寒帯と気候も大きく異なります。また、古代日本の亜熱帯から温帯の家は、中国・長江地域の影響を、亜寒帯から温帯の建築は、中国・黄河流域と沿海州の影響を受けています。この古代日本の家は、その後さまざまに工夫され、現在の住まいに受け継がれています。」「縄文時代の岩手県の御所遺跡では、竪穴式住居の上に土を載せ、断熱と隙間風防止の工夫を行っています。また、同じく縄文時代の北海道・道南地区の大船遺跡の住居は、一つの家で、暖かい地下が冬の居住空間、風通しがよく涼しい地上が夏の居住空間と住み分けられるようになっています」(66)

黄河文明の基壇建築と長江文明の干闌建築がその源流にあるということか。

「日時はずっと進んで、江戸時代の民家や武家屋敷は、夏に窓の雨戸を大きく引き込み通風を促す開放型のつくりの家ですが、冬はその雨戸を建て込んで大きな窓を塞ぎ、寒さに対応します。また、雨戸と縁側の間が土間空間になっていて、雪が深く積もる冬の間の作業スペースとなります。こうした土間空間は積雪が深い日本海側に多く、「土縁」と称されています。土縁には通路状になっているもののほかに、面積が大きく、外側に建具があり、大きく開放できるものもあります。日本各地で見られる蔵は、約30cmもの厚い土の壁と屋根をもち、その断熱・気密・蓄熱効果によって夏は涼しく冬は寒くない、年間通して適度な温度・湿度を保っています。また、屋根は二重の起き屋根になっており、夏の日射を遮ることができます」

「現代の家は、民家や武家屋敷、蔵、それ以前の家のもつ夏、冬の住まい方の伝統を、現代の科学で一つの家に融合し、必要に応じて夏と冬のモードを切り替えられる可変住宅である必要があります。まずは、冬の住まい方を考え、高い断熱性能と冷たい隙間風を防ぐ工夫を施した、高断熱・高気密の家にします」(67頁)。

高断熱・高気密住宅は基本的に北欧から浸透してきたように思う。それは基本的に冬に対応して発達してきたのかもしれない。

住居内の温度・湿度は一日、一年を通じてあまり変動がない方がいいと一般に言われる。身体への負荷を考えるなら人間にとっての快適温度以内、黴やダニが繁殖せずかつ他方でウィルスも増殖しない湿度となると50-60%が理想的な範囲となる。またこのような住居内気候を実現しようとすると、全館輻射冷暖房それも蓄熱を利用したものが理想ではないかと思われるが、「換気と冷暖房を組み合わせた「セントラル」はイニシャルコストが高い」(239頁)とされる。意外なのは「床暖房システムは高断熱・高気密住宅には向かない」(239頁)という指摘である。

また住宅の熱性能評価について、「これまでのQ値やμ値は床面積あたりの数値(熱損失係数)ですが、UA値とηA値は外皮面積あたりの数値です」「外皮熱損失量を床面積で割る「熱損失係数:Q値」から、総外皮表面積で割る「外皮平均熱貫流率:平均U値」が新たな指標となり、規模の大小や住宅の形状にかかわらず、評価の精度がより高くなります」(14頁)。となる。

以下メモ

「一次エネルギー消費量とは、化石燃料、原子力燃料、水力・太陽光など自然から得られるエネルギーを「一次エネルギー」、これを変換・加工して得られるエネルギー(電気・灯油・都市ガス等)を「二次エベルギー」といいます」「一次エネルギー消費量算定プログラムを用いて算出できる仕組みとなっています」(16頁)。

5・6地域が、断熱材の充填断熱で、屋根の断熱暑さは185mm、以下、天井が160mm、壁が90mm、床が100mmとなっているのは注目に値します。これは新省エネルギー基準から比べると、大変な高断熱化です」「熱計算ソフトQPEX」(24頁)。

5・6地域の日射量が多い所では、窓からの熱損失より窓からの日射取得を得るほうが、暖房エネルギー消費量を少なくできるので、南面の開口部は大きくすることが省エネルギーにつながります」(64頁)。

「約40坪の住宅で、高性能グラスウールが約50㎡使用で材料費が33万円、基礎断熱の押し出しポリスチレンフォーム3種が材料費6万円、気密・防湿シートが材料費4万5千円、気密部材が16万5千円で、施工費は約25万円(0.3人工/坪)となり、合計約85万円(約2万1500円/坪)で高気密・高断熱住宅が出来上がります。これは外張り断熱に比べればかなりのローコストです」(92頁)。

木造住宅の場合、外断熱あるいは外張り断熱にするメリットはほとんどない。充填断熱で十分。RCは別。

「充填断熱に分類されるセルロースファーバーの場合は、専門業者が施工するため、材料費+工事日で高性能グラスウール16Kの2倍弱になります」

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2014年8月16日 (土)

エンゲルス『住宅問題』大内兵衛訳、岩波書店、1947

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冒頭と結語部分においてオスマナイゼーションが言及されている。渡辺俊一が近代都市計画への過渡的形態と分析した、オスマナイゼーションである。

序で1870年代初頭のドイツの状況が瞥見され、続いて「プルードン主義者」こと「小ブルジョワ主義者」の住宅問題解決策が、そして「ザックス君」こと「大ブルジョワ主義者」の住宅問題解決策がそれぞれ瞥見され、そしてそれぞれ批判を加えられていく。

また宮殿とあばら家のようなものはいつの時代にも大なり小なりあったことであり、ここで述べられる「住宅問題」とは19世紀後半、資本主義的生産様式によって大都市が登場し、そこへの人口流入によって起こされた住宅問題のことである。この点では同じ資本主義的生産様式と言っても、フレドリック・ジェイムソンが後期資本主義と呼ぶ今日の住宅の諸問題とはまた異なる部分もあろう。

19世紀半ばのドイツの工業生産品は英国やフランスのものに比べると安かろう悪かろうの粗悪品で、その商法もいかさま臭いものであったという。言わずもがなヴェルクブントはこの状況をキャッチアップするために設立されたものだった。しかし1870年代、ドイツはまず普仏戦争に勝利し、ほとんどが軍備増強に使われたというその戦勝賠償金40億マルク等の要因でバブル経済に浮かれ、さらにそのおかげでルイス・サリヴァンがフランク・ファーネスの事務所を追われ、そのおかげでジョン・ルートが教会のオルガン弾きとして食いつなぐことを余儀なくされ、そのおかげでアンドリュー・カーネギーが『自伝』で普通なら倒産するはずのない企業までばたばた連鎖倒産していったと述懐した1873年恐慌を境として、新興工業国としてのプレゼンスを確固のものとしていく。

そのドイツにおいて大資本とともに大都市が登場してくる。そして大都市における集積はその内部の構成をも変えていったことが述べられる。

「右の点は住宅難についても全く同じである。近代の大都市の膨張により、その市内、とくに中央の地区のある土地は、人為的な、しばしば暴騰的な価値を持つようになった、ところがその上に建てられている建築物は、その価値が高くならないでむしろ下がった、というのは、それらは時代の変に相応しくなくなるので、それを打ち毀して別のものを造るからである。こういうことは、特に中央にある労働者住宅において起こる、というのは、そういう家の家賃は、如何に密居していても、なかなか上がらず、上がっても一定の限度を超えることはなかなかないからである。そこでその建物は打ち毀され、その代わりに、店舗と小売店と公共的建物とが建てられる。ボナパルティズムはかのオスマンを使って、パリで・・」(24)

(低所得者)住宅が市中から周縁へと押し出されるだけでなく、地上近くに商業施設を配し、中高層部分に住居部分を置くというほとんど今日まで続いている都市型収益建物の類型はオスマナイゼーションと前後して出てきたのではないかと思えてくるとともに、ルイス・サリヴァンが図式化したスカイスクレーパーの五層構成も基本的にはこの類型と相同的であることが、まず思い浮かぶ。さらにはそのシャフト部分を取り出しての「形式は機能に従う」というサリヴァンの格言めいた謂いも、こうした都市の変容の文脈のなかであらためて捉え直す必要があるかもしれない。

シティ・ビューティフル運動がオスマナイゼーションの焼き直しであったとして、その発端となった1893年シカゴ・コロンビア博覧会をいかにサリヴァンが批判したとしても、サリヴァン自身も大西洋の向こう側で少し前に進行していたこととまったく無関係であったとは言えないのではないか。

さて「プルードン主義者」批判は、プルードン主義者は貸家人と借家人の関係を資本家と労働者の関係と混同し、その経済問題を「永遠の正義である」法に解消しようとしている、というのがその論旨である。

「借家取引の場合はこれとは全く異なる。貸家人が借家人に対して如何に有利な地位にある場合にあっても、それは、すでに前もって存在し、前もって生産された価値の転移であって、借家人と貸家人とを一緒に合計して見ればその価値総計は、契約の前後において、全く同額である」「借家人と家主との関係をもって労働者と資本家の関係に比しようとするのは、この関係の完全な曲解である」(26)

「永遠の正義」によって家賃を割賦金として計算して(部分)所有とすべきとする「プルードン主義者」は「近代の大工業の作り出した状態は病的な瘤であるから、この社会は無理にも・・すなわち百年来の流れに抗して・・昔の安定した状態を作り出し、個人的手工業労働を一般化しようとするものであり、それはいうまでもなく、すでに没落したか乃至は現に没落しつつある小工業者の観念的理想にほかならぬ」(40)と述べる。

ただ家賃を割賦金に見立てて住宅を部分所有とするという「プルードン主義者」の考えは、その後のコンドミニアム(日本でいう分譲共同住宅)の考えや、不動産証券化の考えと共通するものがまったくないわけではない。

他方、「ザックス君」の主張は博愛主義と道徳主義によって、労働者をしてその住宅の所有者たらしめ、労働者をしてそれゆえ「資本家」たらしめればよいというのがその主旨で、こっちは経済問題を道徳に解消しようとしている、というのがその批判の論旨である。

これも付言すれば、20世紀米国における持家政策やその結果として登場したミドルクラスと呼ばれる階層は、こうした主張の延長上に位置しているように見えなくもない。さらにグウェンドリン・ライトはその範型はヨーマンであると指摘していた(http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/gwendolyn-wrigh.html)

二章の終わりの方でオスマナイゼーションがもう一度出てくる。

「しかし私が「オスマン法」というときは、近時一般の慣行とまでなっている労働者街における破口(ママ)の設置をいうのである、とくにわれわれの大都市の中央に設置せられるそれをいうのである、これは或いは公共の衛生的及び美観的見地から目論まれることもある、或いは中央に大きい商店街を作る必要にもとづくこともある、或いは鉄道や道路の敷設の如き公通上の必要から来ることもある。その動機は如何にちがっていても、結果は同じことである。それはこうだ、即ち、最も非難の多い小路や露路がなくなる、そこでブルジョワ階級はこの巨大なる効果について絶大なる自己讃美をやる、けれども、そういう小路や露路は、直ぐに、しかもしばしばそのそばに、また出現する」(99)

しかしながら持家は本人がそこに住んでいる限り、それは「資本」ではないというのが、批判の大きな主旨である。

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2014年8月10日 (日)

アンドリュー・カーネギー『カーネギー自伝』坂西志保訳、中公文庫、2002

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 ルイス・サリヴァン自伝、フランク・ロイド・ライト自伝、それにフィラデルフィアに向かう途中に売春婦に声をかけられたとかフレンチ・インディアン戦争で英国本国軍の将兵を面白おかしく殺戮したなどという話をいけしゃあしゃあと記した18世紀のベンジャミン・フランクリン自伝などとともに、ビルドゥングスロマンとか立志伝と呼ばれる文学分野はそれ自身都市化現象の一部ともとれる。が、ここではそれは意図ではない。

 アンドリュー・カーネギーは1835年にスコットランドの小さな町の織物工の家に生まれている。蒸気機関の発明とともに織物工は次第に淘汰され、カーネギーの家もなけなしの家財を売り払い、母方の親戚を頼ってペンシルヴェニアに移民としてやってきている。ストットランド人が経営する紡績工場に父親とともに夜明け前から深夜まで農奴よりきつい工場労働者として、13歳から15歳まで働いている。

 1850年、彼が15歳の時にこの町に電信が開通する。アンドリューは電信配達夫としての職を見つけ、これが彼の人生の転機となった。さらに電信とともに鉄道が敷設され、鉄道会社の電信係に採用される。つまり電信と鉄道は手に手を携えて、というよりほぼ同じルートで当時網の目を形成し始めていたことが分かる。

「ピッツバーグとその近郊の人口は全部入れても四万を少し超えたばかりであった」「町に東部から電信線が引き込まれ、オハイオ・ペンシルヴェニア鉄道会社の最初の機関車が、フィラデルフィアから運河で運ばれ、アリゲニー・シティに平底のはしけから下されるのを見た」(53)

 そして鉄道、電信とともに手を携えてきたのはおそらく新聞産業である。「ピッツバーグの新聞社は、各社一名ずつ記者を局に送り、新聞の通信を写すことになっていた。後に、各社を代表して一人の記者が来ることになったが、この人が、もし私がニュースの写しを五部ずつ作成するなら、週1ドル私に支払うといった」「もう一つ私にとって大きな影響をもたらしたのは、さきに挙げた少年配達員の仲間五名が「ウェブスター文学会」に加わったことであった」(74)

 戦争は多くの人を地獄に叩き落すが、別のある人には平時にはあり得ない可能性を与える。カーネギーは勿論、後者に属していた。南北戦争は人類史上初の総力戦とされるが、それはこの戦争が兵站戦であったからであり、そしてその兵站戦の鍵を握っていたのはまさしく電信と鉄道だったのである。

 「1861年に南北戦争がはじまり、私はすぐスコット氏によってワシントンに呼ばれていった。彼は陸軍次官に任命され、輸送部を担当していた。私は彼の補佐官として軍用鉄道と政府の電信通信の全責任をまかせられ、また鉄道部隊をも組織するよう命じられた。戦争の初期にあたって、これは他に優先して最も重要な部門であると見なされていた。 

 北軍の最初の部隊がボルティモアを通過する時襲撃され、鉄道はボルティモアとアナポリスの接続点が絶たれてしまったので、ワシントンとの連絡がとだえてしまった。であるから、私は部下をひきいて、フィラデルフィアから汽車でアナポリスに行き、そこから支線で接続駅に出、ワシントン行きの本線に乗らなければならなかった。私たちの最初の任務はこの支線を修理し、貨物列車が通過できるようにしなければならなかったが、このために数日を費やした。バットラー将軍とたくさんの部隊が私たちの修理した線を通って、ワシントンに進むことができた」(117)

 「軍用鉄道と政府の電信通信」、「鉄道部隊」の組織が、「他に優先して最も重要な部門であると見なされていた」ことから、北軍が当初からこの戦争が兵站戦であることを認識していたことが窺える。電信通信は指揮命令系統を瞬時にかけぬけ、鉄道輸送は「バットラー将軍とたくさんの部隊が私たちの修理した線を通って、ワシントンに進むことができた」といった具合に、部隊の高速大量作戦展開を可能にするものだったのである。

「(ペンシルヴェニア鉄道の社員であった)スコット氏」が、第二次世界大戦時に米軍の兵站戦を企画立案したジョン・ケネス・ガルブレイスや同じく第二世界大戦時の独軍の兵站戦を指揮した建築家のアルバート・シュペーアのような立場にあったかどうか、いずれにせよカーネギー自身、その中枢か中枢近くにいたはずである。

「私はその後まもなく本部をヴァージニア州のアレキサンドリア町に移し、あの不幸なブル・ランの激戦が闘わされた時に、そこに駐在していたのであった。私たちは入ってきた情報を信じることができなかったが、すぐ敗北の兵士たちを連れもどすために、ありとあらゆる機関車と車輌を動員し、前線に急行させなければならないのが明らかになった。いちばん近い地点は、バーク駅であった。私はそこへ出かけて行き、気の毒な負傷した義勇軍の兵隊たちを次から次へと入ってくる列車に乗せた。敵軍は私たちの近くに攻めて来るというので、私たちはとうとうバーク駅を放棄し、電信通信員と私は最後の列車に乗って、アレキサンドリアに向かったが、着いてみると、大衆の狼狽と恐怖はどこもいっぱいにひろがっていた。鉄道従業員のなかにも姿を消してしまったものがいた。しかし、翌朝、食堂にあらわれたものはたくさんあって、他の部署に比べて私たちは非常に成績がよく、ほめられた。数名の車掌や機関手は小船をあやつって、ポトーマック河を渡って逃げたが、大部分の従業員は敵の砲撃が一晩中なりとどろいているなかを、自分の持ち場についてよく守ってくれた。電信係は一名の欠員もなく、つぎの朝みんなそろって顔を出した。

この事件の後まもなく私はワシントンに帰り、スコット大佐とともに陸軍省内に私の本部をおいた。私は鉄道と電信部の責任を負っていたので、リンカーン大統領、シーワード氏、キャメロン長官などにお目にかかる機会があった。またときにはこのような人たちと直接に個人的に接する機会があって、非常に私にとっては興味があった。リンカーン大統領は時々私の事務所に来られて、電報が入ってくるのを待ちながら私の机の側に座っていた」(118-119)

ペンシルヴェニア鉄道会社はこの戦争で実質国策遂行鉄道会社となり、実際カーネギーはじめその社員を軍の中枢部に送っていたことになる。さらに戦争がペンシルヴェニア鉄道とカーネギーらにもたらしたのはこの立場だけでなく、

「南北戦争中に鉄の値段はぐんぐん上がって、1トン130ドルにまでいった。その値段でも輸送の関係で入手が困難であった。アメリカの鉄道は新しいレールが欠乏していたので、危機に瀕しかけていた。それで私は1864年に、ピッツバーグにレールを作る会社を組織することにした。協力者と資本を得るのになんの支障もなく、スピリアール鉄工所と溶鉱炉が創設された」(132)

カーネギーは一般に「鉄鋼王」と呼ばれるが、実際には鉄道会社のレールと鉄橋とそして車輌を専門とし、建設業の鉄鋼までは手を出していない。ということはシカゴその他の建設市場は、ほとんどフェニックス社の独占市場であったのかどうか。 さらにUSスチール社はJ.P.モルガンの合併によって出来たもので、カーネギーらの製鉄会社はそこに統合された形になっている。

いずれにせよ、「なにか大きな事業に私が手を出した時には、かならずペンシルヴェニア鉄道会社のような大きな組織で責任を持ってくれるものが背後にあったのである」(198)、くわえて南北戦争時に形成された中央政府からの信用もあったろう。ぱっと出のヴェンチャー企業が単独で全事業を行ったというわけではない。

また例によってベッセマー法が鉄の歴史を大きく変えたことが述べられている(ここに登場するコークス会社のフリックス・コークス社は美術界では有名なあの「フリックス・コレクション」のフリックスか)。ベッセマー鉄が登場するまで、「ピッツバーグのある地点のカーブなど、鉄のレールは六週間か長くても2ヶ月ごとに取りかえなければならなかった」(192)

もう一点、メモ。「ちょうどそのころ、エドウィン・アーノルドの『アジアの光』が出版されたが、それまでに私が読んだ詩で、これほど私をよろこばせたものはなかった」(212)とある。この書は当時相当な反響があったと思われ、また著者のアーノルドは日本でも慶応義塾大学の講師を一時務めている。岡倉覚三の一連の仕事もこうした文脈において捉える必要があるのではないか。

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2014年8月 6日 (水)

マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳、光文社、2010

Keitetusoukou

 「疎外」概念はへーゲルから来ている。というより、ヘーゲル、カント、人間主義は全てフォイエルバッハ経由に見える。

前半は国民経済学を批判的に読みつつ、国民経済学は説明すべきものを自明の前提としていると述べる。「私有財産」と「競争原理」の二つがその前提であり、労働における「疎外」はこの私有財産のメカニズムを説明していく過程で登場してくる。前後にフォイエルバッハの「類としての人間」概念が登場し、疎外労働をこれに反するものとして論じ、かつ後ろで登場する「社会的存在としての人間」という概念もほぼ「類的存在としての人間」と同義に使われているが、この「類的存在としての人間」とか「社会的存在としての人間」という概念は、むしろ古典的な人文主義/人間主義の概念であり、レオン・バッティスタ・アルベルティが同様のことを述べたとしても違和感がないようなものである。K.マイケル・ヘイズやフレドリック・ジェイムソンの「ポストヒューマニズム」はそれゆえ、もう一つの読解から来ているのであり、つまり実際には人間は類的存在であるゆえにこそ、その労働は「疎外」=外化されるとでもいう読解であると言っていい。

いずれにせよここで着目すべきは国民経済学を批判的に読みながら、奴隷(農奴)労働制から、賃金労働制へと生産様式が変容したことを述べていることである。アダム・スミスが労働価値説を発見した時点では、それはまさに希望に満ちたもののようであった。マルクスとエンゲルスは、金や銀や宝物に価値を見出す重商主義者を物神崇拝のカトリックのようなものに、価値は人間の労働にこそあるとしたスミス、それによって国内のあらゆる人間の行為を統一的に扱おうとしたスミスを、プロテスタントに準えている。労働が人間に内属し、それゆえ価値とは人間に内属し、それゆえ人間自身が市場に出て行くところから疎外が始まる。国民経済学はそのスミスから、セイ、リカード、ミルへと下るにつれ、シニカルになっていったという。奴隷の身分はない一方で奴隷の全窮乏を甘受せねばならない、餓死しなければならないワーカーズが登場してきたからであろう。奴隷とは主人(地主)の私有財産で、その土地で一生涯を農作業に従事する労働力である。主人が寛大でその土地が肥沃であれば、一生涯を保障されて幸運であることもないわけではなく、この点で20世紀の終身雇用制度とは、賃金労働制と奴隷労働制の折衷のように見えなくもない。

本書の冒頭では「資本とは集積された労働である」というセイの言葉が引かれているが、『賃銀・価格および利潤』の後ろの方では「資本とは集積された社会的な力である」というより抽象的な表現へと変わっている。資本とは労働の集積であるとは、資本とは人工物の集積であると言え、資本とは社会的な力であるとは、資本とは潜在的人工物を含む人工物の集積である、と言い直し得る。都市が人工物や潜在的な人工物の集積である以上、都市論とは資本論でもあろう、少なくとも資本論としての側面をも持っているはずである。

 ただしここで着目したいのはあくまで、19世紀半ばに奴隷(農奴)労働制から賃金労働制へと生産様式が変容したという点である。これは言い換えれば、都市化が進行したということである。農奴労働は基本的に農村の生産様式であり、賃金労働は基本的に都市の生産様式だからである。そして都市における新しいプレーヤーであるブルジョワもワーカーズも、基本的にはその出自はともに農奴だったということであり、そして実際にはブルジョワはワーカーズとなりえ、ワーカーズはまれにブルジョワとなることもある。「疎外」について述べながら、最終的に労働自身が矛盾していることを述べていく。「労働は自己と賃金に分裂する。労働者自身が一つの資本であり、一つの商品である。たがいに敵意をもつ対立」(129)

 地主と資本家の応酬は123頁あたり。

 ナンシー・ケーンは南北戦争前の米国は圧倒的な農業国であり、マーシャル・フィールドが働いていたマサチューセッツ州の雑貨店では「当時、商品の値段はほとんどが店員と客との交渉で決められ、支払いは現物が多かった。そうした環境で、フィールドは町の人や農夫と上手に取引きする術を学んだ。客のほとんどは、牛乳、バター、卵、農産物をほかの食品や塩・砂糖などの必需品と交換するために来店した」と述べていた。

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