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2014年9月

2014年9月 6日 (土)

東日本旅客鉄道監修、ジェイアール東日本建築設計事務所編著、『近代建築を使い続けるためのデザイン、東京駅丸の内駅舎保存・復元の記録』、彰国社、2014

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文化庁から発行された報告書のダイジェスト版である。

全体は、駅の計画から現代までを概観した1章、保存と復原と活用における理念と手法を示した2章、2の理念に沿った実務的な部分からなる3章の、全3章からなる。

まず重要文化財に指定されると建築基準法(国土交通省)の適用除外とされるという。そこで必要性能が満たされているかどうかを担保するために、構造、耐火、避難に関して仕様ではなく性能上の評価から充たされている事をもって「協議」したとある。構造については免震レトロフィット、耐火は建物全体での耐火認定、避難については全館避難安全検証による性能評価である。

他方で文化財に指定されると文化財保護法(文部科学省)が適用され、現状変更等に制限が加えられることもある。

実際には「保存・復原および活用の設計におけるすべての解答は、「特殊解」である」のであり、それゆえにこそ「そこにおいて設計者に求められるのは、確固たる「原則」に基づく設計行為であり、迷ったときに必ず立ち戻ることができる「原則」を持つことである」(46)とされる。「東京駅丸の内駅舎保存・復原設計基本方針」では、A-Eの五つの方針があったという。五つの方針は

A、オリジナルの保存

B、オリジナルへの復原

C、現代の改修デザイン

D、すべての時代への視点

E、使い続けられるデザイン

である。Aでは「オーセンティシティ」という概念が登場する。保存・復原・活用設計は、その建物のオーセンティシティとは何か? という問題に絶えず対面する事になろう。たとえばABと、CDは相互に矛盾することもある。というよりAB、あるいはA内部においてさえ矛盾することはあり得る。東京駅丸の内駅舎では問題にならなかったかもしれないが、設計図書と現場監理を経て実際に竣工したもののあいだに相違がある場合、それも建物の理念に関ってくるような変更があった場合、どちらをオーセンティックなものと見做すのか。これはほとんど原設計者との対話のような作業ではないだろうか。

 さらに長い歴史を経た建物の場合、つまりDが関係してくる場合、原設計者以外の手が入ってきていることがある。こうしたものをどう評価するのか。Dでは「すべての時代の正当な評価」という言葉でそれは言われる。単なる「評価」ではなく「正当な評価」。「現代の保存理念では「ある記念建造物に寄与したすべての貢献を尊重すべき(ヴェニス憲章)」という考え方が基本になっている。また、近現代の歴史遺産の保存問題がクローズアップアップされるとともに、建築とは変化するものとの認識も強くなりつつある。創建当初のものでなくても、各時代に建物に加えられた優れた努力の跡は大切に残しながら、建物全体のインテグリティを保持すべきなのである」(47)

 東京駅丸の内駅舎の場合は、戦災復興のための戦後の応急的な修復がこの例のひとつである。原設計による建物が存在したのは約35年で、戦後の応急的な修復は約半世紀にわたって存在してきた。それが存在した時間の長さからすれば応急的な修復後の方が長い。この問題は結局、応急的な設計を施した設計者自身による「これは応急的な修復であり、将来いつの日か原設計に復原されることを望む」という手記が発見されたことで、最終的に原設計へと復原する、と判断されたという。

 Cでは推測の排除もいわれる。「オリジナルの仕様が明確でないにもかかわらず、想像で歴史的建造物を再建するという行為が、かつて行われていた時代がある。失われた創建時のデザインを、推測に基づきあたかも当初の姿のように再現することは、歴史遺産全体の価値を損なうものである。わからないところは全体との調和を考えつつ、新たなデザインで補完するというのが、現代の設計者のとるべき正しい道であり、設計者の手腕が試される場でもある」(47)、とされる。ただし、こうした場合、その部分を明示するのが原則である。

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2014年9月 1日 (月)

フロレンス・ナイチンゲール『看護覚え書、看護であること看護でないこと』湯槇ます、薄井坦子、小玉香津子、田村眞、小南吉彦訳、現代社、1968

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ある方のご推薦の書。

1860年初版。この時代の英国の病院は「一般に、病院とはいわば貧民患者の収容所で、患者の管理など行き届いていない場所だと考えられていた。また当時は、病人は自宅で療養し、医師の訪問診療を受けるのが普通であった」(71頁の注)という施設であったという。ただしそれでも実際には家庭よりはよく管理されていたと著者は述べている。さらに「多くの工場、倉庫、授産所、作業所の現状から、なんと数知れずほどの病気や死や悲惨が産み出されていることであろう。貧しい縫製工や印刷工、その他こういった職業の人びとが生活のために働く場所は、ほとんどのばあい、衛生状態の最も悪い町のどの一角よりも劣悪な環境な衛生状態にある。もともと、これらの仕事場は、ほとんどそのような目的で造られてはいない。それらはふつう、安普請の家の屋根裏部屋や居間や寝室などを、いいかげんに改造したものであり、居住空間や換気の点については何の配慮もされていない。貧しい労働者たちは、およそこれ以上の過密状態は想像もできないほどぎゅうぎゅうに詰め込まれている。多くのばあい、労働者ひとりに100立方フィートもあれば充分以上であると、雇用者は判断するのであろう」(28-29)という状況であったという。さらに上下水道のインフラは未整備か充分に整備されておらず、汚水や雑排水が浸透した井戸水を上水として使用し、感染症の流行をみたという。

病院は、陸軍の野戦病院ともなれば生還率は5割程度で、そこは「砲弾の餌」(ルイス・マンフォード)が最後の息を引き取るようなむしろ場所であった。この生還率5割を9割以上に著者が押し上げたのはほかでもなく、衛生環境の改善だったという。本書によれば看護でまずなすべきは一に換気、二に換気、三に採光、それから汚物の整理・・であり、食事等は優先順位からすればこれらよりずっと下の位置付けとなっている。「換気とは、要するに「部屋の」空気を清浄に保つこと、それだけを意味するのである」(27)

さらに「その後私は、天然痘が、狭苦しい部屋や、すし詰めの病棟などにおいて、まさに最初のものとして発生するのをこの眼で見、この鼻で確かめてきたのであるが、それはどう考えても「感染した」はずはなく、そこで発生したに違いないのであった。

いやそれどころか、いろいろな病気が発生し、熟成し、そしてそれが互いにほかの病気に変化していく様子も、私はこの眼で見てきたのである。ところで、犬は猫に変化したりはしない」(62)

密閉した空間のなかに大量の病人や人間を入れると病気は発生する、と1860年の時点で述べられている。ロベルト・コッホによって細菌が発見され、こうした病気の原因が突き止められるのはこの少しあと、1870-1880年代である。1876年には炭疽菌が、1882年に結核菌が、そしてその翌年にはコレラ菌がコッホによって発見され、感染症の原因が細菌であることがほぼ確定していく。さらに19世紀末には細菌よりもさらに小さいウィルスが発見されていく。

室内環境という点からみれば、細菌は高温多湿で繁殖し、インフルエンザウィルスは低温低湿を好むとされる。よって人間にとって快適な空気とは体感も含めて、温度20-28度、湿度50-60%程度、となる。人間にとって快適な環境は温・湿度からみても意外と狭い領域でしかなく、実際、人類史上で文明と呼ばれるものが発生したのはほぼ温帯においてであった。

さてナイチンゲールが述べているように感染症はどこか遠いところからやってくるのではなく、密閉した空間に病人や人間を過密に詰め込むと最初のものとしてそこで発生し、別のものに変化さえするのだとすると、感染症の多くはむしろ都市化の結果頻発するようになったのではないかと考えられる。ルイス・マンフォードは『褐色の三十年』において19世紀半ばに都市化が加速的に進み出すとスラム化という現象が出てきた、そして当時それは問題とされなかったと述べていたが、19世紀におけるこのcongestedな状況が近代都市計画のまさに引き金になったはずである。

本書が出版された1860年、感染症の原因はまだ突き止められておらず、病院も施設として確立していたか疑わしかったが、「病院建築の大家の建築家」とやらがいたという。とともに生命保険会社も活動していたことが本書には登場する。資本の集中を促す保険会社は大都市化の大きな動因であるとマンフォードは分析していた。

また繰り返すなら、ナイチンゲールは一に換気、二に換気、と述べているが、ジークフリート・ギーディオンは近代建築とは「Air」の建築であると述べていた。

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