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2014年12月22日 (月)

Theodore Turuk, William Le Baron Jenney, UMI Research Press, Ann Arbor, Michigan, 1986,1966

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ほとんど読みかけていたものをメトロで紛失し、さらに1冊買って読み直す。コロンビアのエイヴリー図書館は「われわれは地球・半球最大のアーカイヴを持っている」と豪語していたが、建築に関してはミシガン大学のアーカイヴもかなり充実している。

ブレンダン・ギルは『ライト、仮面の人生』においてジェニーの「技師」という描写はサリヴァン自伝においてサリヴァンの嫉妬心もあって過剰に作られたものだと述べていたが、それはある程度はそうでもあり、そうでもないと言える、とりわけ19世紀のこの時代を勘案するならそうだろう。ジェニーとサリヴァンはパリでそれぞれエコール・サントラールとボザールに留学し、前者はポリテクニークの姉妹校であり、そしてそのサントラールでの1年先輩にギュスターヴ・エッフェルがいたという。建築は工学か芸術かという19世紀の大アジェンダはフランスの教育システムを反映したものだったと言い得るが、ジェニーとサリヴァンはそのそれぞれの側に留学したことになる。

本書ではもともとジェニーはシヴィルエンジニアを目指したとある。ハーヴァードに通ったのちに留学し、ただしパリではジェームズ・マクニール・ホイッスラーと親交があり、そのホイッスラーを介して創成期の印象派にも近かった、つまりジェニーは基本的に技師だったかもしれないが、ただし芸術家よりの技師だったといえるということであり、サリヴァンが「技師」として描写したこと自体は必ずしも誤りではない。

ジェニーの面白さは少年時代に太平洋に出てフィリピン他に滞在し、その後ヨーロッパに留学し、さらに帰国して戦争を経験し、そしてシカゴにやってきたというその経験の幅の広さであり、この幅の広さはおそらくヨーロッパの建築家にはほとんどなく、なおかつこの時代においては偶然ではないということである。

というわけでジェニーの半生を大雑把に分割するなら、少年時代、ヨーロッパ留学時代、南北戦争従軍時代、そしてシカゴ派創設期の建築家としての時代にまずは四分割できるといえる。今回は少年時代についてのメモ。

カール・コンディットはシカゴ派の教科書的著作においてジェニーのパートナーであったウィリアム・マンディ-の言葉を引きながら、ジェニーのシカゴ・フレームは彼が少年時代に訪れたフィリピンの建築が影響としてあるのではないかと指摘していた。この部分は本書にも登場する。ただし、この件はヴィオレ=ル=デュクを経過して反照しているのではないかという指摘をもってなされている。その前後についてメモ

1849年までに旅行に出ることを決意した。どんなキャリアを選択すべきかについて、その答えは海が提供してくれるものだったのである。故郷のフェアヘイヴンの雰囲気がロマンティックなものを喚起したし、実際そこの商店には異国のものがあふれていたのだった。さらに彼の短い自伝によれば、カリフォルニアのゴールドラッシュに赴きたい欲望を持っていたことを認めている。」

「船はホーン岬をまわってチリに寄り、1850年2月22日にサンフランシスコに到着する」「ホノルルで一週間休息したのち、マニラに向かう。自伝的説明ではそこに9日間とどまったという。台風を経験し「安くてうまい」タバコをふかし、郊外を探索し、吊り橋やそこで彼が恋に落ちてしまった町や国のディテールをくまなく観察した。

スペイン本国政府は橋や道路や港を整備してきており、それゆえシヴィルエンジニアが必要だろうと考えた。そしてこれを職業とすることを考えた」「1950年9月にマニラを発ち、ジャヴァに短く立ち寄ったのち、1851年にニューヨークに戻ってきた」「人生を決めたというだけでなく、この旅にはさらに重要なものがあった」「より重要なことは異国の文化に触れたということであり、グリーノウのような同時代のニューイングランド人に刺激を与えるような考えを得たということだった。」「ジェニーのこの旅行は、たとえばロジェやヴィオレといった近代建築の理論家があらゆるよい建築の強い原理であると考えた原始的建物との邂逅をもたらすことに寄与した」「ジェニー以外の19世紀の主要な建築家の誰もこのような邂逅をなしたものはいない」(18-20頁)。

ここからマンディーのコメントの引用。

「骨組構法が文字通りまったくの発明品であると、あるいはあるところに突然出てきたものと語るいかなるものにも、ジェニー氏は反対だった。それは自然が生み出したものだったのである。何世代にもわたって進化してきた、それは進化原理の一つだった。ジェニーの最初の印象は、マニラ住人の小屋の構造から出てきたものである。

マニラ民はちょうどよい大きさに育った竹の森を選び、それを切り、根を張った大きなものを柱や付柱として残し、軽くて細いものを斜材のブレースや束や間仕切りとして利用した。これらはすべて小さな紐で束にされていた。より小さくよりしなやかなものは茅葺き用として用いられ、泥と一緒に床や屋根材として用いられた。台風や地震ともなれば大きな建物が破壊される一方、これらの建物は倒壊を免れた。

この小屋を建設する速さ、風、地震、ハリケーンのおかげでフィリピン住民は圧縮力のことをほとんど気にかけず、床面積を多くとることや採光のこともほとんど気にかけなかった。にもかかわらず若い技師・建築家に一つのシステムを編み出すことを無意識に促し、そしてその原理はこちら側では建築史上かつてないとても革命的なものだったのである」。

引用元は、William Mundie, Skelton Construction, Its Origin and Development Applied to Architecture, p10, Unpublished manuscript(Roll 23, Jenney Collection) of the Ryerson-Burnham Library of the Art Institute of Chicago.

続いてこのマンディーのコメントがジェニーのインランド・アーキテクトにおけるヴィオレについての注を踏襲しているという指摘。

さらに踏み込んで述べれば、フランク・ロイド・ライトはジェニーのこの一連の文章を読んでいた可能性があり、ジェニーがフィリピン建築に見たものをみずからは日本建築に見出そうとした可能性もある。ジェニーが参照しているヴィオレの著作として Habitations of Man in All Ages

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