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2015年3月

2015年3月30日 (月)

“Mexico, Paris, and the Civil War”

Pari

ジェニー評伝の続き。

1856年にサントラールを卒業してから事務所をシカゴに開設するまでの10年、メキシコに短期間技師として渡り、パリに一度戻り、さらにシャーマンに乞われて米国に戻って南北戦争を戦っている。

メキシコは短期間でほとんど特筆するものがないように見える。

パリに戻って1857年、ルクセンブルクで美術学校の学生と協働したことが建築家への転向を決意させた(58頁)。

このパリ時代を「トリルビ-時代」と呼ぶが、ジョルジュ・デュ・モリエのの小説中『トリルビー』に登場する「リトル・ビリー」がジェニーをモデルにしているという説があるからなのだという(59頁)。

パリでは初期のパリのアメリカ人、つまりパリのボヘミアンなアングロサクソン・サークルに出入りしている。このサークルではジェームズ・マクニール・ホイッスラーと懇意になり、しかしホイッスラーは「突然、パリから消え、1年後にロンドンで有名になった」という。また、このサークルを通じて同時代の印象派の画家たちとも接触があり、ジェニーの好みは古典派の絵画よりジェリコーなどのロマン派の絵画であったという。「19世紀フランス絵画の展開は興味深いことにのちのジェニーの建築と並行である。ロマン派の大きな量塊、豊かな色調、生き生きした筆使いは彼の住宅建築にしばしば現れる確固とした形態への好みを確かに示している」、「印象派が光と空気を描いたとすれば、ジェニーはこれらの要素を彼の建物に導入しようとしたのである」(60頁)。

当時のパリはオスマンの改造が進行中であり、ジェニーはフェアバンクスともどもこの改造を好意的に見ていた(ほぼこの章全体)。さらに「ジェニーの滞在中、パリを風靡した都市化の他にも知的潮流があった。エコール・デ・ボザールの教条はファサードを席巻していたが、その背後には新しい素材としての硝子と鉄への技師や施行者の嗜好が看取できた。その結果は、たとえば東駅(1847-52)、モンパルナス駅(1850-52)、レザール市場(1853-58)、それに1855年博覧会での展示場(1855)などである。これらのどれ一つとしてのちの彼の作風にそのまま表れることはないが、しかし確かに彼の目をこの新しい素材へと開いたに違いないのである。アンリ・ラブルーストのサント・ジュヌビエーヴ(1843-1850)に気付いていたと思わずにはいられない。その外壁の窓割の手つきには、ジェニーのザ・セカンド・ライタービルにおいて完成させるものの萌芽がある」(71頁)。

 そして「二回目の滞欧の終わり頃、ジェニーはビューロー・オブ・アメリカン・セキュリティ社に入社するよう乞われた。これはアメリカの鉄道へのヨーロッパからの投資を促進することを目的とした会社である。会社はウィリアム・テクメセー・シャーマンを社長に、ジェニーを3人いる技師の一人に任命したのだった」、「当時シャーマンはルイジアナの陸軍大学の校長で、ジェニーはすぐさま本国に戻ってオハイオ州シンシナチで1861年3月、シャーマンに会っている。未来の将軍は「極端に走る反逆者一味」に怒っており、「戦争が始まる。よって乞われたようにヨーロッパには我々は行かない。セントルイスに行って支度を整え軍隊に入ると語る。翌月には戦争が勃発し、数か月音信が途絶えたのち、シャーマンから参戦を促す手紙を受け取る」(72-73頁)。

 南北戦争に関する記述は73-74頁の2頁の記述のみ。

 ジョン・ルートが兵役逃れとして英国に留学し、リチャードソンもまた逃れるようにしてフランスに留学したことに比較すると、ジェニーのこの参戦と活躍ぶりは実はどこか確信めいたものを感じる。

 2月革命後のサントラールへの留学、ロマン派絵画への嗜好、この志願兵のような参戦。この点は留意しておいていいかもしれない。

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2015年3月27日 (金)

“The Ecole Centrale des Arts et Manufactures, The Architectural Course of the Ecole Centrale”

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ジェニー評伝の続き。エコール・サントラールでの教育を確認。第二章の後半で「ニューイングランド・スチューデント・システム」が瞥見され、第三章は主にサントラールについて、第四章は主にサントラールでのジェニーの教授であったルイ・シャルル・マリーについて述べられる。

英国は産業革命を主導し1851年ロンドン万博において世界の製造業の主導者となるものの、世紀後半からは競合者の後塵を拝するようになる。その主な理由は教育制度にあったという。

英国の技術者教育は米国とさほど変わらず、経験的な徒弟制度であった。

米国の技術者教育、「ニューイングランド・スチューデント・システム」とは、名のある土木技師に年100ドル払って弟子入りし、質問したり、オフィスと現場に随行できるものだった。フォーマルな教育はなく、多くを学ぶことができたかもしれないが、その保証もないものものだった(21頁)。

 フランスは他方で17世紀に遡行してフォーマルな技師教育の伝統があった。大革命/ナポレオン時代に設立されたエコール・ポリテクニークはさらに一つの節目となる。卒業生は軍隊または国家機関に就く義務があり、差し当たりの戦争経済の要求を満たすことを望まれたが、やがて実践から理論に重きを置くようになっていったという(25頁)。

 ジークフリート・ギーディオンが指摘するようにポリテクニークにはサン・シモン主義者やガスパール・モンジュ、ジョセフ=ルイ・ラグランジュといった数学者や物理学者が集まり、7月革命の原動力の一つになった( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/index.html )。またT.J.クラークによれば、ウジェーヌ・ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』(1931)で二丁拳銃を振り回している少年はポリテクニークの学生服を着用しているのだという( http://d.hatena.ne.jp/madhutter/200809 )。

 サントラールはこの延長上で1829年に設立された。「この学校と革命は関係している。サントラールの設立において国家は何の役割も果たしていない。というのも民間資本によって設立されたからであり、それゆえ中間層のリベラリズムと革命そのものの宣言と同じものをこの学校は表していたのである」、つまり「政治的経済的変化を主張する社会層の考えの結果だったのである」(26頁)。そして「サントラールの学生は1830年と1848年の革命のバリケードに多くが参加していた」(33頁)

民間資本によって私立学校として設立されたサントラールはしかし、1859年にはグランゼコールの一角に編入される(29頁)。設立者(ジャン=クロード=ユージン・ペクレ、テオドール・オリヴィエ、ジャン=バプティスト・デュマ、それにアルフォンス・ラヴァレー)は教育課程をポリテクニークとはまた異なる三年過程のものとして編成した(27、33頁)。

ポリテクニークとは別個のものとして設立されたサントラールであったが、その教授陣にはポリテクニーク出身者が多かったようである。ジェニーの土木と建築の教授であったルイ・シャルル・マリー(1791-1870)もそうである。

本書では彼の講義録(Cours de routes,1855-56, Cours d`architecture,1852-53)からその講義の内容をたどっていく。「これらはその明晰性と合理性においてたいへんフランス的であり、13世紀のヴィラール・オヌクールの画帳を彷彿させる挿画がある。それぞれの講義録はこの領域を百科全書に包括しようと試みていた」(35頁)。前者は「直接的に建築を扱わなかったものの、建物技芸のバックグラウンドをジェニーに与えた。多くは橋梁に関していた。鉄(iron)橋に関しては英国のゼヴン川に架けられたアブラハム・ダービーの鋳鉄(cast iron)橋にまで遡行し、また同時代のさまざまな種類の吊橋にまで言及している。もっともジェニーが活動を始めるまでにこれらの橋の多くは時代遅れとなるものだった」(35-36頁)。

英国とフランスの相違は教育システムだけでなく、鉄の種類にもあったようだ。「フランスの鉄工達は骸炭の代わりに木炭を精錬に用いることを好んだ。鋳鉄を造るのに骸炭は欠かせないものだが、フランス人は英国人と異なり、錬鉄の方がより可能性があることを見出したのである。このことは幸運であった、というのも鋳鉄より錬鉄の方が引張力に強く、それゆえより大きなスパンを飛ばす時に多様な軽く強い構造部材を試みることをフランスの施行者に可能にしたからである。状況と経済がそれゆえ耐火の問題解決について英国とフランスに異なる解決法を与えた」(37頁)。マリーは1785年のアンゴによる最初の錬鉄による開放的で軽快な網のような梁について詳しく述べている(37頁)→http://goo.gl/ubLfOmhttp://goo.gl/03BhfB 参考。

また中空ブロックはフランスの発明品で、これはこんにちのデッキプレートの前身のようなものである(42頁)。

マリーの建築講義について。「マリーは明らかにつまるところ、プロポーションのような視覚的・美的特質はそれができている材料や使用目的から導かれると考えていた。またマリーにとって構法は構成と対立するもので、その原理は不変であった」「建築のこの二つの側面は相補的ではあるが、構法の要求が全体を統御すべきものであった」、「同時代人と同じくマリーはそれゆえ建築の技芸を二つの領域に分けてみていた。建築家は美的領域に関わり技術者は実務領域に関わる。それぞれはそれぞれの専門家であり、それゆえサントラールの学生は構法に関わり、「構成」に費やす時間は最小限に留められた」(47頁)。

「マリーの最も興味深い授業の一つはというのもそれはジェニーの壁の扱いを先取しているからで、それは、「一般的に壁は石や煉瓦や岩を束ねた構法で、これらは固くなる。壁の全部分は等しく劣化するわけではない。自重を支えていだけの部分に比べ、ヴォールトのスラストを受けたり梁下にある部分はより大きな圧縮力を受ける。その結果、力が最大となる壁の点を補強しなければならない。通常建物の突起物や宮殿や豪奢な建物における付柱はこうした過剰な荷重を受けるものである。

薄くない場合でも、耐力壁は最良の素材で造られねばならない。通常の石造壁よりそれらは注意深くしっかり固定されねばならない。ときおり下から上までの厚みが同じでない支持材があるが、それはバットレスと呼ばれる。」「厚い鉛直壁は石造の水平バンドで結合される。そのバンドは通常、床レベルにおかれる」、「マリーの思考の要点は明確である。構造形式が建築の基礎となるということである。荷重の流れと伝統的な素材のスラストが壁のソリッドとヴォイドの戯れにおいて可視化されるというものである」(47-48頁)。

さて、マリーのポリテクニークでの師がジャン=ニコラ・デュランであり、デュランのグリッド・システムはマリーのアプローチにおいては「構法」と「構成」を統合するものとしてあったという。一方で、「構造と機能の強調において、サントラールは大建築学校であるボザールの対極に位置していた」、「ボザールは学生に現実離れした課題を与えることで実際の実務からは程遠いものになっていた」のである(54頁)。

「フランスでのジェニーの教育をまとめると、彼の生涯にわたる仕事においてきわめて理想的な準備をなしたといえる」、「エコール・デ・ボザールが(構法と構成という)二つの要素を別個のものと見做した一方、サントラール(やポリテクニーク)はそのプログラムをより広いものとして技師が建築家となれるようにもした。実際、それは多かったのである」(55頁)。

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2015年3月18日 (水)

メルヴィル『白鯨』八木敏雄訳、岩波文庫、2004年

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原作は1851年、19世紀中葉の米国の精神史を見るにはいい書かもしれない。サイードの『オリエンタリズム』で検討され、フランシス・コッポラの映画『黙示録』に影響を与えたであろうジョセフ・コンラッドの『闇の奥』をどこか思わせなくもない。

あるいは19世紀のロシア小説に見られるキリスト教的な内面性や内向性とは対照的な、外へといった意識(ドゥルーズが『映画』のなかで述べたフランス映画の内向性とイギリス映画の外向性を思い出す)を彷彿させるかもしれないし、そうはいっても外部へといっても別に軽快でも外向的というわけでもない。訳者が述べているように寓話的小説かもしれないし、「レヴァイアタン」や「白の崇高性」といった点ではゴシック小説をも思わせるし、シュールな記述も思わせなくもない。とはいえここでは文学史的な評価はさしあたり関係ない。

アフガン戦争が冒頭で述べられ、ジェニーの乗った船がホーン岬をまわって西回りで太平洋に出ていったのとは逆に、東回り、インド洋経由でピークオッド号は太平洋へと出ていく。「たわけ者!」「こんな朝はやくに東にむけて航行しているというのに、太陽が船尾にあるなんてことがあるか?」(下、272頁)。日本近海を横切り、南太平洋で白鯨とともにピークオッド号もエイハブらも海の藻屑と消え、最後は太平洋の文字通り平和な波の描写で終わる。

19世紀中葉、ヨーロッパに代わって米国は世界の捕鯨業の先頭に躍り出る。「わがアメリカ捕鯨業にあっては、これに従事する者の数が全世界の鯨捕りを束にしたよりもおおく、一万八千人が乗り組む七千隻以上の船を擁する一大船団を保有し、毎年四百万ドルを消費し、出港時に二千万ドルの価値を有する船が毎年七百万ドルになんなんとする収益をわれらが港にもちかえるのは、いったい何ゆえであるか?もし捕鯨に富をもたらす甚大な潜在力がなければ、こんなことがありうるだろうか?」「わたしはだれはばかることなく断言する・・この六○年のあいだに、広大な全世界を、平和裡に、ひとつの束にまとめあげるような影響力を発揮しえたものが、この高貴にして強大なる捕鯨業をおいてほかにあったと指摘しうる者などありえない、と。世界主義者を標榜する哲学者にしても、そういう例外的事例のひとつすら、一生をかけたところで提示することはできまい。捕鯨業は、いろんな意味で、それ自体において顕著な成果をあげたばかりか、その後の事態においても持続的な波及力を保持してきたので、捕鯨業とは、さながら、すでに子をはらんでいる子孫をおのれの胎から生んだあのエジプトの母に比すべきものである。こういう事例を列挙してみてもきりがない」「多年にわたって、捕鯨船は世界の最果てや未知の領域を探索する開拓者だった」「捕鯨船こそ、あの今日の有力な植民地(オーストラリア)の生みの親なのである」「もしあの二重にかんぬきをかけた国、日本が外国に門戸を開くことがあるとすれば、その功績は捕鯨船にのみ帰せられるべきであろう。事実、日本の開国は目前にせまっている」。(上、286-289頁)。

当時の捕鯨船は風力で航行する帆船で、肝心の捕鯨作業もその帆船からボートを下して銛で人間が狩るという労働集約的なものだったようだ。

ピークオッド号が基地にしているのはマサチューセッツ州ニューベッドフォードであり、これはジェニーの出身地であったフェアヘイヴンと入江を挟んだところにある。これらの町がこの時代の米国の捕鯨の本拠地である。また1832年生まれのジェニーは、太平洋で救助されながらくこの町にいたジョン万次郎(1827-1898)と少なくとも町ですれ違ったことがあったはずであり、もしかしたらジョン万次郎を救助した捕鯨船はジェニーの父親が経営していた捕鯨会社の所有であった可能性もある。

いずれにしてもジェニーは太平洋へ、フィリピンへとordealの旅に出て、そこで自分のキャリアを決める。ついでに述べれば、ハワイからグァムを経てフィリピンにいたるのちのアメリカ帝国の「太平洋の橋」の原型がこの時代に捕鯨によって形成されつつあったことも分かる。

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2015年3月 5日 (木)

DESIGNER`S FILE 2015  カラーズ 2015

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カラーズさん発行の『デザイナーズ FILE 2015』に弊事務所が収録されました。

「立体デザインのさまざまな第一線で活躍する日本のデザイナー142組が手がけた最新の製品や作品を、デザイナーのプロフィールとともにカラー写真で紹介しています」、「本書は2015年現在における「日本のデザイン」のパッケージです」(扉文、はじめに、より)。
書店でお手にとってご覧ください。

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