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2015年3月27日 (金)

“The Ecole Centrale des Arts et Manufactures, The Architectural Course of the Ecole Centrale”

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ジェニー評伝の続き。エコール・サントラールでの教育を確認。第二章の後半で「ニューイングランド・スチューデント・システム」が瞥見され、第三章は主にサントラールについて、第四章は主にサントラールでのジェニーの教授であったルイ・シャルル・マリーについて述べられる。

英国は産業革命を主導し1851年ロンドン万博において世界の製造業の主導者となるものの、世紀後半からは競合者の後塵を拝するようになる。その主な理由は教育制度にあったという。

英国の技術者教育は米国とさほど変わらず、経験的な徒弟制度であった。

米国の技術者教育、「ニューイングランド・スチューデント・システム」とは、名のある土木技師に年100ドル払って弟子入りし、質問したり、オフィスと現場に随行できるものだった。フォーマルな教育はなく、多くを学ぶことができたかもしれないが、その保証もないものものだった(21頁)。

 フランスは他方で17世紀に遡行してフォーマルな技師教育の伝統があった。大革命/ナポレオン時代に設立されたエコール・ポリテクニークはさらに一つの節目となる。卒業生は軍隊または国家機関に就く義務があり、差し当たりの戦争経済の要求を満たすことを望まれたが、やがて実践から理論に重きを置くようになっていったという(25頁)。

 ジークフリート・ギーディオンが指摘するようにポリテクニークにはサン・シモン主義者やガスパール・モンジュ、ジョセフ=ルイ・ラグランジュといった数学者や物理学者が集まり、7月革命の原動力の一つになった( http://rco-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/index.html )。またT.J.クラークによれば、ウジェーヌ・ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』(1931)で二丁拳銃を振り回している少年はポリテクニークの学生服を着用しているのだという( http://d.hatena.ne.jp/madhutter/200809 )。

 サントラールはこの延長上で1829年に設立された。「この学校と革命は関係している。サントラールの設立において国家は何の役割も果たしていない。というのも民間資本によって設立されたからであり、それゆえ中間層のリベラリズムと革命そのものの宣言と同じものをこの学校は表していたのである」、つまり「政治的経済的変化を主張する社会層の考えの結果だったのである」(26頁)。そして「サントラールの学生は1830年と1848年の革命のバリケードに多くが参加していた」(33頁)

民間資本によって私立学校として設立されたサントラールはしかし、1859年にはグランゼコールの一角に編入される(29頁)。設立者(ジャン=クロード=ユージン・ペクレ、テオドール・オリヴィエ、ジャン=バプティスト・デュマ、それにアルフォンス・ラヴァレー)は教育課程をポリテクニークとはまた異なる三年過程のものとして編成した(27、33頁)。

ポリテクニークとは別個のものとして設立されたサントラールであったが、その教授陣にはポリテクニーク出身者が多かったようである。ジェニーの土木と建築の教授であったルイ・シャルル・マリー(1791-1870)もそうである。

本書では彼の講義録(Cours de routes,1855-56, Cours d`architecture,1852-53)からその講義の内容をたどっていく。「これらはその明晰性と合理性においてたいへんフランス的であり、13世紀のヴィラール・オヌクールの画帳を彷彿させる挿画がある。それぞれの講義録はこの領域を百科全書に包括しようと試みていた」(35頁)。前者は「直接的に建築を扱わなかったものの、建物技芸のバックグラウンドをジェニーに与えた。多くは橋梁に関していた。鉄(iron)橋に関しては英国のゼヴン川に架けられたアブラハム・ダービーの鋳鉄(cast iron)橋にまで遡行し、また同時代のさまざまな種類の吊橋にまで言及している。もっともジェニーが活動を始めるまでにこれらの橋の多くは時代遅れとなるものだった」(35-36頁)。

英国とフランスの相違は教育システムだけでなく、鉄の種類にもあったようだ。「フランスの鉄工達は骸炭の代わりに木炭を精錬に用いることを好んだ。鋳鉄を造るのに骸炭は欠かせないものだが、フランス人は英国人と異なり、錬鉄の方がより可能性があることを見出したのである。このことは幸運であった、というのも鋳鉄より錬鉄の方が引張力に強く、それゆえより大きなスパンを飛ばす時に多様な軽く強い構造部材を試みることをフランスの施行者に可能にしたからである。状況と経済がそれゆえ耐火の問題解決について英国とフランスに異なる解決法を与えた」(37頁)。マリーは1785年のアンゴによる最初の錬鉄による開放的で軽快な網のような梁について詳しく述べている(37頁)→http://goo.gl/ubLfOmhttp://goo.gl/03BhfB 参考。

また中空ブロックはフランスの発明品で、これはこんにちのデッキプレートの前身のようなものである(42頁)。

マリーの建築講義について。「マリーは明らかにつまるところ、プロポーションのような視覚的・美的特質はそれができている材料や使用目的から導かれると考えていた。またマリーにとって構法は構成と対立するもので、その原理は不変であった」「建築のこの二つの側面は相補的ではあるが、構法の要求が全体を統御すべきものであった」、「同時代人と同じくマリーはそれゆえ建築の技芸を二つの領域に分けてみていた。建築家は美的領域に関わり技術者は実務領域に関わる。それぞれはそれぞれの専門家であり、それゆえサントラールの学生は構法に関わり、「構成」に費やす時間は最小限に留められた」(47頁)。

「マリーの最も興味深い授業の一つはというのもそれはジェニーの壁の扱いを先取しているからで、それは、「一般的に壁は石や煉瓦や岩を束ねた構法で、これらは固くなる。壁の全部分は等しく劣化するわけではない。自重を支えていだけの部分に比べ、ヴォールトのスラストを受けたり梁下にある部分はより大きな圧縮力を受ける。その結果、力が最大となる壁の点を補強しなければならない。通常建物の突起物や宮殿や豪奢な建物における付柱はこうした過剰な荷重を受けるものである。

薄くない場合でも、耐力壁は最良の素材で造られねばならない。通常の石造壁よりそれらは注意深くしっかり固定されねばならない。ときおり下から上までの厚みが同じでない支持材があるが、それはバットレスと呼ばれる。」「厚い鉛直壁は石造の水平バンドで結合される。そのバンドは通常、床レベルにおかれる」、「マリーの思考の要点は明確である。構造形式が建築の基礎となるということである。荷重の流れと伝統的な素材のスラストが壁のソリッドとヴォイドの戯れにおいて可視化されるというものである」(47-48頁)。

さて、マリーのポリテクニークでの師がジャン=ニコラ・デュランであり、デュランのグリッド・システムはマリーのアプローチにおいては「構法」と「構成」を統合するものとしてあったという。一方で、「構造と機能の強調において、サントラールは大建築学校であるボザールの対極に位置していた」、「ボザールは学生に現実離れした課題を与えることで実際の実務からは程遠いものになっていた」のである(54頁)。

「フランスでのジェニーの教育をまとめると、彼の生涯にわたる仕事においてきわめて理想的な準備をなしたといえる」、「エコール・デ・ボザールが(構法と構成という)二つの要素を別個のものと見做した一方、サントラール(やポリテクニーク)はそのプログラムをより広いものとして技師が建築家となれるようにもした。実際、それは多かったのである」(55頁)。

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