« “Mexico, Paris, and the Civil War” | トップページ | Theory and Noncommercia Work, 1867-80 »

2015年4月 1日 (水)

「シカゴ・フレーム」、コーリン・ロウ、『マニエリスムと近代建築』、伊東豊雄+松永安光訳、彰国社、1981

Chicagoframe

 ジュゼッペ・テラーニ論以来の再・再読。シカゴにおけるフレームとヨーロッパにおける「フレーム」の相違をのみ論じているのではなく、実は本論の主題は最後の一文において明らかとなるようにフランク・ロイド・ライト論なのか、と思わされる。

とともにいろいろと突っ込みどころも見えてきた。ここを初発の点にしてもよいかもしれない。フレームについての訳者と著者の位置づけをものをそのまま引用する。

まず訳者解説から。

「現代都市が均質なフレームの構造に覆いつくされようとしていることは疑うべくもない事実であるが、そこに見出された機能的な都市空間は今世紀初めからの近代建築の技術的発展の成果であると一般には受けとられている。

しかしこのように均質で合理性に富んだ、無装飾な管理空間は、すでに19世紀のシカゴのループ内(中心部)に都市的スケールで達成されていた」、しかしロウの場合、「あるいはル・コルビュジエのドミノ・システムに代表されるインターナショナル・スタイルの空間がいかにシカゴのフレームと異質なものであるかを探ることによって、シカゴ・フレームの本質を描こうとするのである」。

続いて本文の冒頭から。

 「鉄骨やコンクリートによるフレームの骨組は、現代建築において最も繰り返されたモチーフであり、またジークフリート・ギーディオンが「構成要素」と名付けたもののなかでも、最もどこにでも見られるものである。フレームの果たす役割は、ル・コルビュジエが描いた実験的なドミノハウスの構成システムによって極めて適切に語られている。だが一次的な機能は明らかであるとしても、この実用上の価値とは別に、フレームがある意味をはっきりと獲得したことは、あまり知られていないようである。

 骨組構造で囲われた空間のニュートラルなグリッドは、ひときわ力強く確信に満ちた象徴性を我々に呈示し、この象徴性によってフレームは関係性を確立し、規範を定め、形態を生み出した。すなわちフレームは建築の触媒として作用するのである。だが、フレームもまた「建築化」してしまい、現代建築はフレームなしで考えることができないと思われるほどである。それゆえ、構造的には不必要でもフレームを装った建築物は、数限りなく想起される。だから必要ないはずのフレームが外観に現れている建物をだれでも見た経験があるに違いない。こうして、フレームは実際以上の価値を獲得したために、我々はこのような偽装にも大して驚かなくなってしまった」。

 フレームは解説でも本文でも、現代建築(現代都市)の基本的要素として捉えられている。アイゼンマンのテラーニ分析はもちろん、その後の一連の住宅作品やコンセプチュアル・アーキテクチュアにおけるフレームとグリッドの重要性を考えるなら、ロウがシカゴ・フレームについて触れているのは何とも示唆的であろう。

 本論のクライマックスをなすかのような二つの建物の比較にはいささか難点があると思われる。二つの建物の比較とは、「そしてジークフリート・ギーディオンが『空間・時間・建築』の中でさらに二つの建物を比較するに至って、その簡潔な分析によって、これらの疑問には一層鋭い焦点が当てられていくことになる。この二つの建物とは、1894年のダニエル・バーナムのリライアンス・ビルと、1921年のミース・ファン・デル・ローエによるグラスタワー・プロジェクトである。

 「ギーディオンが関心をもったのは、これらの建物の相似性である。そして内容の問題を無視しがちな(ほぼ等しい形態はその意味するところも等しいという点で)ヴェルフリン流の背景からみても、注目に値するのは、アメリカの建物とドイツの建物の計画案に共通した類似性であろう。しかし、ここに言うまでもなく我々の注意を最も引き付けるのは、全面ガラスの二つのオフィス・タワーの類似性ではなく、その相違である。そして特にその相違を強調しさえすれば、どんなに鋭い批評上の課題にも心を奪われるには及ばない」。

 「リライアンス・ビルがイデオロギカルな意味をほとんど含んでいないのに対し、グラス・タワーは単に仮定に基づく建物であるばかりでなく、含蓄の深い社会評論なのである。

 これらの注釈の違いから、建物と計画案双方の弱さも強さも現れてくる」(141-143頁)。

 ギーディオンの『空間・時間・建築』中でのダニエル・バーナムのリライアンス・ビルとミース・ファン・デル・ローエのガラスタワー・プロジェクトの比較をそのまま用い、かつギーディオンが類似性において用いたものを、その実用性と理念性という相違において論難しているのであるが、この二つの例において共通しているのは「スカイスクレーパー」という形式であって、肝心の「フレーム」は共通していないということである。ミースのプロジェクトにおいては構造フレームはない、構造的にはむしろライトのマッシュルーム・コラムやシャフトによるであろう形態である。

 さらにロウが繰り返し強調するシカゴ(ループ内)の特質、すなわちこの引用部分以降に限ってみても、「投機に値する投資という合理的打算(もし必要ならば装飾すら添えて)であるアメリカのスカイスクレーパー」(114頁)、「シカゴで何かがなされている間(解放された経験主義の極致とでもいうべきか)」(同)、「アメリカでは骨組構造を実利的価値として考えているが、これはシカゴの実業界のすぐれて実利的な風潮の中で合理化されたものである」(145頁)、「ここでは、フレームは経験上便利なものという以上の意味はなく、理想的な意味など与えられることもまずなかった。ましてやそれが明日の都市を意味することなどあり得なかったのである」(同)、「フレームはあまりに容赦ない商業主義の、露骨で無責任な代行者と見なされるようになったので」(146頁)、「しかし、ループでは輝ける都市はと異なり、世界はあるがままに受け入れられており」(146頁)、等は、いささか荒い言葉で語られており、さらにこれらの言葉が含む価値評価によって、読者はそのままではある読み方に方向つけられてしまう。

方法論の問題も含め、ここをもう一度、このフレームの問題を新たに捉えなおしていく。

 

 

|

« “Mexico, Paris, and the Civil War” | トップページ | Theory and Noncommercia Work, 1867-80 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1331394/59488022

この記事へのトラックバック一覧です: 「シカゴ・フレーム」、コーリン・ロウ、『マニエリスムと近代建築』、伊東豊雄+松永安光訳、彰国社、1981:

« “Mexico, Paris, and the Civil War” | トップページ | Theory and Noncommercia Work, 1867-80 »