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2015年6月10日 (水)

8 Commercial Work,1869-80、9 Noncommercial Work,1880-95

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ジェニー評伝の続き。

第一ライタービルが出てくる。コマーシャルビルとはつまり収益物件のことであり、歴史的には古代から多少はあったものの、18世紀後半から19世紀にかけて、つまり資本主義の発達と都市化の進行とともに前面化してくる構築物である。その典型の一つがオフィスビルであり、キャス・ギルバートの「建築とは地代を稼ぐ機械である」という箴言へと、これは向かっていく。

それゆえオフィスビルとは19世紀における最も重要な挑戦の一つであり、その機能的要求にくわえ、資本投資を表象していた、という。投資家は当然、賃貸であれ売買であれ、オフォスビルからの収益を期待する。そしてその要件のなかには構法や機能的平面、光、耐久性や耐火性能が含まれてくるのである(157頁)。近代建築とは、資本主義のなかから生まれてきたものだったと言えるだろうか。

そして鉄骨フレームに耐火性能を与えるのがテラコッタ・タイルであり、この工法はシカゴから始まり、ジェニーはその最初期の建築家の一人であり、事務所の最初のパートナーであったサンフォード・ロアリングはのちにテラコッタ・タイルの製造者となる(158頁)。

この時点で鉄骨システムが最も発展していたのはフランスであり、ジェニーはサントラール留学中に「パリ・システム」に遭遇している。シカゴ・システムはいわばその発展形である(159頁)。

以下、耐火の観点からみた床構造について述べられていく。

「大火後、ジェニーの仕事は1872年のメイソン・ビルに見られるように、さらに実験的になっていく。この年のシカゴの収益物件のなかでは最も輝かしいものであり、リチャード・モリス・ハントのニューヨークのロジッター邸(1857)に類比的である。彼らはともに啓蒙されていない人達に対し、ファサードが単なる石積の表面以上のものであることを示したのである。ハントもモリスもともににフランス留学組の第一世代であるゆえ、アカデミズムの三分割手法がそれらの建物にともに見られるのは驚くに値しない」(166頁)。1872年に始まったザ・ポートランド・ブロックは建築史にジェニーを登場させた。ルイス・サリヴァンが1873年にシカゴを訪れた時に感動したのはこの建物だったからである」(166頁)。

「批評家はもともとザ・ポートランド・ブロックを好意的に見ていなかった。というのも普通なら石を使うところに圧縮煉瓦を用いていたからである。大気汚染が進む都市の壁には煉瓦が相応しいと彼は考えたに違いない。圧縮煉瓦は1871年にフィラデルフィアからシカゴにもたらされたが、全面的に受容されたわけではなかった」「この形式に関していくつかの面白い事実がある。まず、ジェニーのパトロンであるボストンのピーター・C.ブルックスらである。彼らはバーナム+ルートによるザ・モントーク・ブロック(1881)、ザ・モナドノック・ブロック(1891)の二つを建てているが、すでに述べたようにモントークはシカゴで最初にガルシン=ルー・フレール扁平中空タイルを用いた例なのである」(169頁)、「これらの革新はブルックスのパトロネージの革新的性質を示している。だがザ・ポートランド・ブロックでより重要なものは、彼の姿勢である。カール・コンディットはパトロンと建築家のやりとりに洞察を加えることで、ブルックスの考えを分析している。ブルックスは記念的であるとともに機能的な建物を欲していたのである。」「それゆえ疑いなくブルックスはジェニーに指示を送っており、石の代わりに圧縮煉瓦を用いるよう促したのは彼であったかもしれない」(169-170頁)。

続いて第一ライタービルについて。

「リーヴァイ・Z.ライターは祖先のオランダ系カルヴィニストが18世紀に入植したメリーランド州ライターズバーグからシカゴへと、1854年に移民してきた。1865年までにマーシャル・フィールドの乾物買い付けビジネス上のパートナーとなり、1881年にこの職を退いたあと、ピーター・ブルックスやホルメス・エステートと同じく、同時代人を驚かせる建築家やそのパトロン達の一員となる」(177頁)。

第一ライタービルは1972年に解体される(同)。→シカゴ美術館のアーカイヴ資料。

第一ライタービルはメタルフレーム構造の最初期の建物と見なされがちだが、実は混構造であったことが述べられる。

「ジェニーの創意は鉄柱を外壁付柱と組み合わせることにあった。マンディーの描写では建物西側壁に沈み込ませ、同様に東側壁の付柱へと沈み込ませることにあった。地階から屋根まで伸び、内部の鉄と木構造の全荷重を受けているようである。ランドールの描写では壁と付柱(少なくとも西側と東側では)は、床荷重をまったく受けていない。これらの革新のおかげでジェニーはウェル通りとモンロー通りのファサードをかつてないほどに開放的にすることができ、それゆえスケルトン構造のへのアプローチを拓いたのである。

(だが)チャールズ・E.グレガーソンはHABSで第一ライタービルを研究したが、マンディーやランドールとは異なる結論にいたっている」(180頁)。

「通り、つまりウェルズ通の軸は最も重要で、それというのも主大梁を支えているからである。床面積をさらに絞り出すことにくわえ、外光をより採り入れることを試みている。比較的薄い付柱にもうすこし余分なふかしが必要なことをジェニーは感じていたに相違ない。それゆえ一連の鉄柱でそれを支え、鉄柱は壁や付柱のなかへ沈み込まされている。

段々に後退する内壁と付柱は一般的な方法だが、鉄のリンテルとの混用(フレームではなくファサードにおいて)、また鉄柱の補強という使用はそうではなかった。屋根と上二層の荷重は柱に吸収され、下部の柱と石の付柱に伝達される。同じ原理が下階でも繰り返される。ジェニーはそれゆえランドールの描写に入ってくる。彼は単純にそれまで実現されなかった点に入ったのである。

この構造的な解法はマンディーが述べるように独創的なものなのか? そうではないように見える。むしろ彼は自ら受けた教育に追いつき、おそらく同時代の建設文献の知識に追いついたのである。

鉄と石造を組合わせの似たような方法は1855年パリ万博の産業館でも見られる。サントラールでのマリーの講義は、しかしながら彼に明快な解法を授けたのだった。マリーの穀物倉庫の描写がそうであり、第一ライタービルの構造をこれはきわめて近く先取している。

マリーの倉庫の外壁は石造であり、内部は木造であったが、それというのもヴォールトの石造内部の水分凝縮は、穀物にとって有害だったからである。腐敗を防ぐために内部の自由な空気の流れが必要で、それゆえ開口は大きくとられねばならなかった。内部構造の床と柱は穀物の荷重を支えた。ただ外壁の付柱と床の接合部はまた異なる問題を孕んでいた。穀物倉庫の崩壊はしばしばここから始まったのである。」「マリーは各床の下部で柱が石造に結合されることを提案した」「既存技術の採用において巧みであったものの、第一ライタービルはその構法においてそれゆえ本質的に保守的だったのである。ジェニーは煉瓦や中空アーチタイルや鉄の小梁の使用を避け、彼が若いころにみたニューイングランドの遅燃性構法を採用したからである。ヴァン・オズデルのケンダールほどの進んだ建物をなぜ彼が創れなかったのかを考え得るだろう。

ジェニーの第一の関心は光にあったのであり、それは高い賃料を稼ぐためのこれが真っ先の要件だったからである。そうだとすると、当時の耐火方法は彼の特殊な要求には不十分だったのである。P.B.ライトが述べたように、中空アーチタイルの生産において米国がフランスに追いつくのは1881年になってからのことである。テラコッタへの関心とこの分野でのフランス技術への知識からジェニーは、目的に比してジョンソンのアーチは重すぎると感じたであろう。ケンドールもモントークもその壁は重い。ここに留意するなら、ジェニーが遅燃性構法を採用したことも頷ける。これは1880年代にいたるまで施行者の技術として確かなものだったのである」(181-184頁)。

第一ライタービルと続く1877年のシロットストアについての記述は、再度参照。

9章のノンコマーシャルワークは住宅と病院について。再度マリーの参照とリチャードソンとの同時代性、部屋の配列など。

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