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2015年7月

2015年7月 7日 (火)

福田晴虔 『ブルネッレスキ』中央公論美術出版 2011

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少し寄り道して、学生時代に『パッラーディオ』の評伝を拝読して以来の福田氏の著作、にざっと目を通す。

  ドイツ美術史学では「(イタリア語の)クワトロチェント」と呼ばれる初期ルネサンスのブルネレスキについての著作。著者自身は「粗述」と呼ぶ本書の記述を個人的にあえてまとめてみるなら、G.C.アルガンのルネサンス史観やパノフスキーらの図像学、それにルネサンスとオカルティズムを関連付けた一頃の論考とはまた異なる視点からの論考と言えるだろうか。

「象徴形式としての遠近法」ではなく世界に(数学的)秩序を与えるものとしての(線)遠近法であり、それは建築自身についてもいえ、ドゥオーモの建設について述べながら「建築とは「空間に尺度を与えるための手段」であるということだったに違いない。明確な数学的秩序による空間を提示すること、それが最大の目標であったと考えられるのである。そして建築をそのような計測可能な空間としてとらえること、それこそが新しい「建築発見」の第一歩であった。この構築物の巨大さやそれを実現するための構築技術は、たといそれらが「建築発見」のための触媒の役割を果たし、またそれらが伝統的職人世界に風穴を開け、「建築家」という新たな社会的存在の出現を予告したのであったとしても、その新しい職能の自立にとっては、あくまでも外在的な条件の一つに過ぎない。そしてブルネッレスキとそれに続くこの時代の人々の努力は、この「発見」を手がかりとして、「建築的なるもの」、つまり建築家をして「建築家」たらしめるところの技術の独自性を求めて、さらなる探求へと向けられることとなるのである」(38頁)と述べられている、その少し前にはブルネレスキが職人世界のアウトサイダーであったことも述べられる。

同じく後ろの方では、教会権力から世俗権力への移行にともない、パラッツォやヴィラという個人の邸宅が登場し、そこにおいて個人の富を象徴するものとしてあったdecorum(装飾)にはブルネレスキはさして興味がなかったこと、もっぱら空間のいわばorderにこそ興味があり、なおかつ社会における教会権力から世俗権力へのヘゲモニーの移行自身は必ずしもルネサンスについて言われる(ネオ・)プラトニズム的世界観とは一致していなかったことなども、述べられる。「住宅建築を通じて自らの権威を示すことに入れあげていた当時の有力な市民たちの思惑をよそに、ブルネッレスキはもっぱら抽象的な建築空間の自律的システム構築に取り組んでいたらしいということであり、エピゴーネンたちがブルネッレスキのつくりあげたそのシステムの上に様々な“decorum”を施し、「パラッツォ」らしさのタイプ創出に努めていることには、ほとんど無関心であったように見えることである」(167頁)。

他方では著者の世代をあえて勘案するなら、コーリン・ロウの「理想的ヴィラの数学」や、いわばアイゼンマン的な潜在的なミニマリズムやコンセプチュアルアートとの関係をいささか彷彿しなくもなく、そしてそのロウのシカゴ・フレーム論は他方では、意外にもフランク・ロイド・ライトを擁護しているようにも読めることに、思いがいかなくもない。

あえて述べるなら、G.C.アルガンについて述べながら「ルネサンス=人文主義=古典復興=ネオプラトニズム=透視図法といった様々な諸概念が、いわば網の目状に結びついてかたちづくられた文化構造の認識であり、互いに強固に結びつき切り離すことができない」(70頁)に対する、ブルネレスキの固有性(あるいは内面性と言ってもいいかもしれないし、亀裂と言ってもいいかもしれない)の記述や、そこから建築史を捉え直すことに可能性が見出せるかもしれない。たとえばルイス・マンフォードの『都市の文化』は唯物史観的なグランドストーリーとしてはその記述はグランドストーリーとしては勿論そうなのだが、そこからの亀裂(タフーリ)というのも、建築史学の醍醐味の一つではあるだろう。

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